1967年に『虹色の湖』をリリース。グループサウンズ全盛の時期にあって、女性ソロ・シンガーとして80万枚を売り上げるヒットになった。
1967年に『虹色の湖』をリリース。グループサウンズ全盛の時期にあって、女性ソロ・シンガーとして80万枚を売り上げるヒットになった。
中村晃子の楽曲「虹色の湖」 - YouTube
1967年当時音楽界を席巻していた「一人GS」風の編曲・演奏である。
1965年のレコード・デビュー以来の中村晃子初のヒット曲(売上は当時の累計で80万枚[1])で、中村は翌年の『第19回NHK紅白歌合戦』への出場を果たした。ロ短調である。
2014年現在、徳永英明や坂本冬美。天童よしみら15名によってカヴァーされている。
オリジナル7インチシングル盤には二種類ジャケットが存在する。一つは赤色の背景に中村の右側の横顔を撮影したもの、もう一つは黒色の背景に足を組んだ中村の全身が撮影されたものである。
B面曲の「夢みていたい」は、2014年10月現在、未CD化である。こちらは変ニ長調。
オリジナル7インチ・シングル歌詞カードには、詞と共に本作のメロディー譜が印刷されている。
2015年、市川実日子出演の公益社団法人びわこビジターズビューローのTVCMに挿入歌に使用されている。
(出典:Wikipedia「虹色の湖」)
映画「進め!ジャガーズ敵前上陸」 中村晃子出演シーン「虹色の湖 / 中村晃子とザ・ジャガーズ」 - YouTube
1973年にはカバー曲『あまい囁き』が大ヒットする。
中村晃子&細川俊之 - あまい囁き (1973) - YouTube
中村晃子、細川俊之(掛け合いの絶妙さが受け、『コサキン』『とんねるずのオールナイトニッポン』『うまいっしょクラブ(STVラジオ)』等の深夜ラジオ番組で人気を博す)
(出典:Wikipedia「あまい囁き」)
平尾昌晃・畑中葉子のデュエット曲「カナダからの手紙」(1978年1月発売)
平尾昌晃・畑中葉子のデュエット曲「カナダからの手紙」(1978年1月発売) - YouTube
平尾昌晃はデュエット・シングルの発売にあたり、自身が主宰する平尾昌晃ミュージックスクールの生徒の中からオーディションを行い、その結果選ばれた畑中葉子とデュエットすることとなった。
「平尾昌晃・畑中葉子」名義では、他にもデュエット・シングルをリリースしているが、『ザ・ベストテン』の通常のランキングに登場したのはこの曲のみとなっている。
1978年の第29回NHK紅白歌合戦に出場し、白組でこの曲を歌唱した。
日清食品のお茶漬けヌードルのCMソングに、この曲を替え歌にしたものが採用されている。
(出典:Wikipedia「カナダからの手紙」)
コーラスグループ「サーカス」の楽曲「Mr.サマータイム」(1978年3月25日)
コーラスグループ「サーカス」の楽曲「Mr.サマータイム」(1978年3月25日) - YouTube
表題曲「Mr.サマータイム」は、フランスのシンガーソングライター、ミッシェル・フュガン(Michel Fugain、該当記事は英語版、仏語版)作曲の「Une Belle Histoire」(美しい話)の日本語カヴァー曲で、カネボウ'78夏キャンペーンソングである。歌詞の内容は不倫を悔やむ女性の心情を歌ったムード歌謡的な楽曲となっている。
サーカス自身唯一のオリコン1位を獲得し、65.2万枚のセールスを記録、自身最大のヒット曲となった。サーカスは同楽曲で、『第29回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。
(出典:Wikipedia「Mr.サマータイム」)
ガロ(GARO)の楽曲「学生街の喫茶店」(1972年6月20日発売)
ガロ(GARO)の楽曲「学生街の喫茶店」(1972年6月20日発売) - YouTube
セカンドアルバム『GARO2』からのシングル・カット。リリース時は「美しすぎて」がA面、「学生街の喫茶店」がB面というスタイルであった。
のちに「学生街の喫茶店」が有線放送やラジオを中心に人気が出た(TBSラジオ『ヤングタウンTOKYO』では「今月の歌」に選ばれた)ため、1972年12月前後からジャケット写真はそのままに、「学生街の喫茶店」のタイトルが目立つようにレイアウト変更されたリニューアル・ジャケット盤に切り替えられていった。
発売自体は1972年6月であったが、(日本コロムビアの金子充孝ディレクター(1972年当時)によると)同年の11月末頃から売れ出し、翌1973年の1月末にガロがテレビ出演したことでヒットの勢いがついた。最もヒットしていたのは1973年の春先で、オリコンヒットチャートでは2月19日から4月2日まで7週連続で1位を獲得。1973年の年間ヒットチャートで第3位を記録し、同年を代表するヒット・ソングのひとつとなった。累計売上はミリオンセラーを記録。
『第24回NHK紅白歌合戦』でも本楽曲を披露。当時のフォークグループとしては、紅白出場歌手に選出されたこと自体も珍しいことであった。また、『日本有線大賞』では新人賞を受賞している。
(出典:Wikipedia「学生街の喫茶店」)
石川さゆり 日本を代表する女性演歌歌手の一人
石川さゆり 日本を代表する女性演歌歌手の一人
小学1年の時、島倉千代子の歌謡ショーに接し感動、次第に歌手を志すようになる。小学5年10歳の時に一家で横浜市神奈川区に転居、のち歌のレッスンを受け始める。
横浜市立城郷中学3年の夏休みに、フジテレビの「ちびっ子歌謡大会」に(応募したものの参加できなくなった友人に替わって)参加し合格。同年秋にフジの連続ドラマ『光る海』で沖雅也の妹役としてレギュラー出演した。
1973年3月25日、「かくれんぼ」でアイドル歌手として日本コロムビアよりデビュー。キャッチフレーズは“コロムビア・プリンセス”だった。しかしデビューから暫くは「花の中三トリオ」などの影に隠れて、大きな人気を得るには至らなかった。
それから4年後の1977年に「津軽海峡・冬景色」が大ヒットとなり、第19回日本レコード大賞歌唱賞など、数々の音楽賞を受賞した。また同1977年発売の「能登半島」「暖流」もヒット、1980年代に入ってからも「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「滝の白糸」「風の盆恋歌」など順調にヒット曲を世に送り出し、日本を代表する女性演歌歌手の一人となった。
『NHK紅白歌合戦』には、現在(2014年時点)通算37回出場している。
また、刑事ドラマ「大空港」に女性刑事役でレギュラー出演し、大河ドラマ「功名が辻」に出演するなど、女優としても活躍している。
(出典:Wikipedia「石川さゆり」)
1977年に「津軽海峡・冬景色」が大ヒットとなり、第19回日本レコード大賞歌唱賞など、数々の音楽賞を受賞した。
石川さゆりの楽曲「津軽海峡・冬景色」 (1977年の映像) - YouTube
石川さゆりの楽曲「天城越え」(1986年7月21日) - YouTube
曲は1985年、吉岡治と弦哲也、桜庭伸幸の3人が天城湯ヶ島町(現・伊豆市)の温泉旅館・白壁荘で製作した。3人は旅館に2泊し、現在の大女将の話によると、吉岡は旅館周辺を散策する事で詞の原案を練っていたという。静岡県・伊豆半島の「天城山」を舞台にしたご当地ソングでもある。
当時のカラオケブームの最中に、「石川にしか歌えない、難易度の高い作品を」ということで制作された楽曲である。
『NHK紅白歌合戦』で、1986年(第37回)、1997年(第48回)、1999年(第50回)、2002年(第53回)、2005年(第56回)、2008年(第59回)、2010年(第61回)、2012年(第63回)、2014年(第65回)と計9回も歌唱しており、第37回と第53回は紅組トリで歌唱した。同一曲9回歌唱というのは、中村美律子の『河内おとこ節』の8回を超えて紅白歌合戦の歴史上最多記録である。
2005年に実施された「スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜」では、紅組の16位に選ばれた。
歌手の中森明菜が、2007年6月に演歌を歌ったカバーアルバム『艶華 -Enka-』をリリースし、インターネット投票でもっともリクエストの多かった「天城越え」をアルバムに収録した。また、マーティ・フリードマンがエレキギターでロック調にアレンジしたことがある。2010年には、misonoによってもカバーされた。また、アレンジされた天城越えはテレビ朝日系列で放送されている『シルシルミシル』内でBGMとして使用されている。
2008年シーズンの大リーグ選手・イチローの打席曲にもなった。これはシーズンオフに帰国して紅白歌合戦を見ていたイチローが、石川さゆりの歌う「天城越え」を聴いて、「記録など、いろいろな物を越えたい」と思ったからだという。その後石川はマリナーズのホームゲームに招待された。但し、石川自身は「野球音痴」だという。
他女子マラソン元選手の増田明美も、1989年の東京国際女子マラソン(日本人トップの8位でゴール)で終盤の登り坂を走っている最中に、この「天城越え」のメロディーがずっと頭をよぎり離れなかった、と語っている。
(出典:Wikipedia「天城越え (曲)」)
八代亜紀 “演歌の女王”
八代亜紀 “演歌の女王”
幼少の頃から父親の歌う浪曲を子守唄代わりに聴きながら育つ。そうした影響もあり、八代は歌好きの子供になり、地元の歌唱コンクールなどにも出場していた。
八代が小学5年生の時、たまたま父親が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴き、そのハスキーボイスに魅せられる。もともと自身もハスキーボイスの持ち主だった八代は、その声に若干のコンプレックスがあったが、ジュリーの声質に勇気づけられ、クラブ歌手になることを意識するようになる。
中学卒業後、地元熊本のバス会社九州産業交通(現:九州産業交通ホールディングス)のバスガイドとして勤務していたが、15歳で父親の反対を押し切り上京。銀座のクラブ歌手となり、スタンダードやポップスなどを歌った。
1971年、テイチクより「愛は死んでも」でデビュー。読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場、10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンに輝く。1973年の「なみだ恋」が120万枚の大ヒット。その後も「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「ともしび」「花水仙」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」他、女心を歌った歌で次々とヒット曲を連発。
1979年には新境地を開拓した初の男歌「舟唄」が大ヒットし、翌1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞。これら2曲は「港町絶唱」と共に、阿久悠と浜圭介そして竜崎孝路のコンビによる「哀憐三部作」とされる。演歌歌手にしては稀な連続ヒットと国民的ヒット曲により、女性演歌歌手として不動の地位を築き、“演歌の女王”と称された。
(出典:Wikipedia「八代亜紀」)