来日デビューは初打席ホームラン
ボビー・ミッチェルは1965年レッドソックスと契約し、70年ヤンキースでメジャーデビュー。71年にブルワーズに移籍。メジャー通算5年、273試合出場、21本塁打、打率.235の成績だった。
76年日本ハムファイターズに入団。いきなり初打席初ホームランのデビューだった。1年目は、23本塁打、打率.244、三振は121でリーグ最多だった。
76年日本ハムファイターズに入団。いきなり初打席初ホームランのデビューだった。1年目は、23本塁打、打率.244、三振は121でリーグ最多だった。
2本の”幻の本塁打”
悲劇の始まりは、77年4月29日後楽園球場でのロッテ戦。
2回、村田兆治投手から2回に6号ソロを放った。しかし、ゲームは3回表でノーゲーム。試合前から空模様は怪しかったが、天皇誕生日(現、昭和の日)で観客が多かったことから強行したが、土砂降りの中での続行は不可能だった。
77年7月11日後楽園球場でのクラウン戦で、悲劇は再び訪れた。
季節は梅雨真っ只中。試合開始直後から雨はパラパラ降っていたが、試合開始1時間が経過した午後7時半ごろ、とうとう本降りになった。後楽園球場での日本ハム-クラウン(現、西武)後期4回戦。次第に強くなる雨足をみつめながら、背番号39の助っ人は気が気ではなかった。
ホビー・ミッチェル外野手は初回、クラウン先発の玉井信博投手から左翼上段、あわや場外かという豪快な20号3点本塁打を放った。
ホームランダービートップに立つロッテのレロン・リーに2本差に迫った。試合は3回まで終了するも、雷雨となり、結局中止となった。天にも祈る気持ちだったミッチェルの本塁打は、再び「幻」となった。
「アンラッキーたね。スライダーを完ぺきに打てたんだけど…」とうつむいたままのミッチェル。「また晴れている日に打てばいいだけだ」と気を取り直していたが、1メートル93の長身の後姿は寂しそう。「これで2本目だろ、かわいそうだよな。なんとかならねぇものかね」大沢啓二監督も同情せずにはいられなかった。
”幻の本塁打王”
この2本が閉幕近くになると大きく響いた。公式戦全日程を終え、リーは34本塁打。ミッチェルは32本塁打。あの2本がカウントされていれば、本塁打王を両者で分かち合うことができた。最後の試合は10月6日、大阪球場での南海戦。すでに消化ゲームの南海は3試合目の登板となる池之上格投手が先発。力んだミッチェルは4打数無安打2三振。タイトルは幻に終わった。代わってトップだったのが158個の三振数。当時、パ・リーグ新記録となる不名誉な勲章だった。
1978年 球宴ジャック事件
ボビー・ミッチェルがオールスターに出場した1978年は、オールスターのファン投票をめぐって事件が発生した。なんと、日本ハムから8人がファン投票で選出されてしまったのだ。日本ハムは万年Bクラスで、不人気という面では12球団の中でも上位だった。この年の前期は3位と健闘したとはいえ、阪急の全盛期であり、阪急には山田久志、福本豊、加藤秀司、マルカーノ、島谷金二などのスターがいた。外野の福本を除く8つのポジションを日本ハムの選手が占めた。このファン投票の結果をもたらした組織票であり、公正ではないとの抗議が殺到し、大きな問題となった。
とはいえ、ミッチェルはオールスター第1戦で本塁打を放ち、面子を保った。ミッチェルはこの年、本塁打王を獲得することになるのだが。
とはいえ、ミッチェルはオールスター第1戦で本塁打を放ち、面子を保った。ミッチェルはこの年、本塁打王を獲得することになるのだが。
日拓からチームを引き継いで5年目。Bクラスが指定席だったファイターズが、前期3位と健闘。これを機に一気に球団を盛り上げようと、本社や関連企業、子どもたちのファンクラブである少年ファイターズの会員に積極的に呼びかけ、ファン投票を依頼。その結果、7日の中間発表で異例の8人トップが判明。最終発表では投手が佐伯和司から同じ日本ハムの高橋直樹に代わった程度で、9つのポジションのうち、8つでトップに立った。当初、三原脩球団社長は「球団の努力の成果。他球団ももっと努力すべき」とトップ独占に胸を張ったが、オールスター実行委員会や日本ハム本社に「やり過ぎだ」などの抗議電話が殺到。世間の反応は日本ハムにとって冷たいものだと分かると、ファン投票結果に基づく“内示”があった13日に、大沢啓二監督らは、出場の可否を協議した。
エースの高橋、4番としてチームを引っ張る柏原純一一塁手、25本塁打のミッチェル外野手は文句なしで出場が決まった。ベテランの加藤俊夫捕手の存在感も認められた。残る4人の中で、富田勝二塁手と千藤三樹男外野手は打率3割を打っていることから、出場は妥当と判断されたが、古屋と菅野はそれぞれ打率2割3分、同2割5分2厘程度で、レギュラーには定着していなかった。
結局、古屋と菅野は出場を辞退することとなった。古屋は翌年、パ・リーグの中で2位の得票数を獲得し初出場。そして85年に3回目の出場を果たし、初ヒットを放った。菅野は内野なら複数のポジションができるユーティリティープレイヤーとなったが、その活躍も地味であった。菅野は球宴出場の機会なく85年で引退した。
474試合 打率.250 113本塁打 523三振
本塁打王1回(1978年)
オールスター出場1回(1978年)