「ポンコツ外人」から「サモアの怪人」へ
トニー・ソレイタはアメリカ領サモア出身。サモア出身で初のメジャーリーガー。1965年にヤンキースと契約し、メジャー昇格は1968年9月16日に1打席のみだった。その後マイナーで過ごし1974年ロイヤルズに移籍してからメジャーに定着するようになった。そして、エンゼルス、エクスポス、ブルージェイズと渡り歩いた。メジャーでは7年間525試合に出場し、1316打数336安打、打率.255、50本塁打、203打点だった。タイガース時代に170メートルの本塁打を放ったことが自慢だった。
【日本ハム12-9南海】9試合で打率1割5分2厘。一応2本塁打は打っていたが「これで現役大リーガー?」と首脳陣も頭を抱えていた矢先だった。
日本ハムの新外国人選手、トニー・ソレイタ一塁手は、大阪球場での南海3回戦(ダブルヘッダー第2試合)の1回、佐々木宏一郎投手から3号3点本塁打を左中間に放つと、3回にも同投手から中堅へ特大ソロ、5回には三浦政基投手からまた左中間に3点弾、そして8回藤田学投手のストレートを右翼スタンドにライナーで入る6号本塁打をかっ飛ばした。南海は日本ハムの3人の投手から5人で6発の本塁打を放ちながら、1人で4本のソレイタの4発で負けた。
6回に死球があったものの、4打数連続本塁打はパ・リーグ新記録。1試合での4打数連続は巨人・王貞治一塁手が64年に記録して以来、16年ぶりの日本プロ野球界タイ記録。打点10も日本記録の11に迫る立派なものだった。
「打てないポンコツ外人」の汚名も返上。右に左に真ん中にしめて飛距離は450メートルのホームランショーを演じたことで、晴天の日曜日を境に“サモアの怪人”と呼ばれるようになった。
シーズン2度目の4打数連続本塁打
日本ハムが後期優勝に向かって一進一退の戦いを続けていた9月4日、日生球場での近鉄後期11回戦の9回に柳田豊投手から32号ソロを放つと、翌5日には西武球場での西武後期7回戦で第1打席から3連発。2日がかりの4打席連続本塁打でシーズン2回の日本新記録を樹立した。
陽気な怪人
南太平洋に浮かぶサモア諸島から初の大リーガーは、実は日本ハムにテスト入団だった。79年12月、東京・六本木の日本ハム球団事務所に姿を見せた胸囲120センチの巨漢は多摩川グラウンドで大沢啓二監督らの見守る中で実力を披露。真冬にもかかわらず、ブルージェイズのTシャツ1枚で打席に立ち、オーバーフェンスの打球を連発し即合格。四国・鳴門キャンプでは右翼スタンド後方に50万円の費用をかけて高さ8メートル、幅24メートルの防球ネットが用意された。「T・ソレイタ・ネット 目指せホームラン王」の横断幕も貼り付けたのがソレイタの気を良くしたのか、そのネットも軽々超えるアーチを何本もかっ飛ばした。
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すしと刺し身、焼き鳥を愛した怪人は4連発2度を記録した80年、45本塁打も盟友マニエルが48本塁打でタイトルに手が届かなかったが、81年は44本塁打108打点で二冠王。打率3割、勝利打点17の大活躍でチームを東映時代の62年以来、19年ぶりのリーグ優勝に導いた。
悲しい最期
ソレイタが久しぶりに話題に上ったのは90年。2月10日、故郷サモアで公務員となり公園・レクリエーション局長を務めていたが、土地取引をめぐるトラブルに巻き込まれ銃で撃たれて死亡した。享年43歳。ソレイタは休止状態にあったサモアのリトルリーグを復活させたが、そのきっかけは日本の野球が底辺から盛んなのを見たことに影響されたからだった。
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ソレイタがバットを構えた姿は、まさに金剛杵を振り上げた金剛力士像にそっくりだった。スイングは体全体で豪快に振り回すというよりは、腕っぷしの強さでスイングするというような感じであり、そのスピードはもの凄く早かった。放たれた打球は青空を突き抜け海を越え、ソレイタの故郷はるか南の島サモアまで飛んでいくかのように飛んだ。トミー・クルーズ、柏原純一、ソレイタと組むクリーンナップは最強だった。
筆者は、2015年ラグビーW杯、日本対サモア戦を見て、屈強なサモアのラガーマンの姿からソレイタのことを懐かしく思い起こした。
筆者は、2015年ラグビーW杯、日本対サモア戦を見て、屈強なサモアのラガーマンの姿からソレイタのことを懐かしく思い起こした。
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