”本塁打王”とはなったが
また、ミッチェルは大沢監督に嫌われていたようであった。79年ミッチェルと同僚だったサム・ユーイングは、大沢監督に対して猛抗議した。
ボビー・ミッチェルが、大沢啓二当時ファイターズ監督に不当に扱われていると感じたサム・ユーイングは、怒りを露に大沢監督に詰め寄った。
「他の選手だって同じようなミスをしているのに、なんでミッチェルだけ罰金をとられなきゃいかんのだ。こんな馬鹿のクソまみれな話、聞いたことがない」と激怒。対する大沢監督も、「俺はチームの監督だ。もしも、俺のやり方が気に入らんというのなら、とっとと出て行きやがれ」と反論した。
ミッチェルは、79年で解雇となり、ユーイングは翌年80年も在籍したが、オープン戦後に任意引退となりチームを去った。
via ameblo.jp
1978年も相変わらず三振は多かったが、36本塁打、93打点と好成績を残し、打率も.274と基準点をマークする。さらにこの年は初の本塁打王を獲得する。またこの年は、オールスターゲームにも選ばれており、このゲームの初打席でも本塁打を打っている。
1979年は、打撃3部門の成績を前年よりも落とす成績となり、この年限りで解雇。日本ハムに在籍した4年間、全てパ・リーグの最多三振を記録した。
「帰国して牛乳配達をするのはゴメンだ」と口癖のように言っていたが、米国に戻ってからの足取りははっきりしていない。
筆者は、小学生の頃は巨人ファンであった。しかし中学生になると、天邪鬼なところもあったのか、同じ後楽園を本拠地とするチームでも、人気面では正反対の日本ハムファンに宗旨替えをした。高橋一三と富田勝が巨人から日本ハムにトレードされたことも影響したのかもしれない。また、席がガラガラで見に行きやすいというのも良かった。そして、ファンクラブの少年ファイターズに入会した。年会費が千円か2千円で内野席がフリーパスだったと思う。帽子やら、ガイドブック、ブロマイドなど豪華なグッズもたくさんもらえた。少年たちにとって最高なファンクラブだった。だから、78年の”球宴ジャック事件”の時も、純粋な気持ちで頑張って投票をした。
ミッチェルと、2年で日本を去ったウィリアムスとのコンビは強く印象に残っている。首がなく顔からすぐ下が胴体で「ノーネック・ウィリアムス」というあだ名だった。外野の守備につくときに必ず2塁ベースを踏んでいくので、外野をやっている少年たちはよくそれをマネをしていたものだ。
”三振かホームラン”のミッチェルと愛嬌たっぷりのウィリアムスの凸凹コンビ、その後の”怪人”ソレイタと”ガッツマン”クルーズのコンビ、この助っ人外国人たちがいた日本ハムは面白い時代だった。
ミッチェルと、2年で日本を去ったウィリアムスとのコンビは強く印象に残っている。首がなく顔からすぐ下が胴体で「ノーネック・ウィリアムス」というあだ名だった。外野の守備につくときに必ず2塁ベースを踏んでいくので、外野をやっている少年たちはよくそれをマネをしていたものだ。
”三振かホームラン”のミッチェルと愛嬌たっぷりのウィリアムスの凸凹コンビ、その後の”怪人”ソレイタと”ガッツマン”クルーズのコンビ、この助っ人外国人たちがいた日本ハムは面白い時代だった。