via stat.ameba.jp
1958年(昭和33年) エポック社「野球盤」
野球盤の歴史 - YouTube
昭和33年ころの「野球盤」から現在の「リアル野球盤」まで その歴史の一コマ をご覧ください。
via www.youtube.com
オールスター野球盤BM型 魔球装置付き(1972年)
野球盤の代名詞にもなっている“消える魔球”装置が初めてついた野球盤。
当時の人気漫画「巨人の星」の大リーグボール2号がヒント。
“消える魔球は1イニング3球まで”といったルールが当時の子供達の間で作られた。この後、全ての野球盤(ジュニア、カプセルは除く)に消える魔球装置がつく。
当時の人気漫画「巨人の星」の大リーグボール2号がヒント。
“消える魔球は1イニング3球まで”といったルールが当時の子供達の間で作られた。この後、全ての野球盤(ジュニア、カプセルは除く)に消える魔球装置がつく。
via epoch.jp
1958年10月18日にフラフープ販売。日本中で爆発的に売れて一大ブームを起こした。
1958年10月18日にフラフープ販売
フラフープ(Hula hoop)は、直径1mほどのプラスティック製などの素材の輪で、輪の中に入った人が腰などを振って回転させるための輪。フラダンスのように腰を動かしてフープを回すので、フラフープと命名された。腰以外にも首・腕・足などを使い体の各部位で回して楽しむ。
商標名、登録商標であるためにフラフープということばは主に現代アメリカでは使用されず、フープ(Hoop)と呼称するのが通常である。それに伴い、フープをまわすことをフーピングと言い、フラフープで技を行う人をフーパーと呼ぶ。
遊具としての使用が主流だが、近年、パフォーマンスや競技、ダイエット用品として使用されている。
1958年にアメリカで大流行したことを受けて、同年10月18日に東京都の各デパートで一斉に販売が開始された。積水化学のポリエチレン管をアメリカの会社が加工して輸入したもので、価格は大人向けが270円で子供向けが200円。日産2万本のフラフープは、1ヶ月で80万本が売れた。
販売される店には行列ができ、日本中で爆発的に売れて一大ブームを起こした。人気のために品薄になり、マルサンなど他社も参入し、小売店が独自にポリエチレンのホースを繋げたものを150円で売ることもあった。
商標名、登録商標であるためにフラフープということばは主に現代アメリカでは使用されず、フープ(Hoop)と呼称するのが通常である。それに伴い、フープをまわすことをフーピングと言い、フラフープで技を行う人をフーパーと呼ぶ。
遊具としての使用が主流だが、近年、パフォーマンスや競技、ダイエット用品として使用されている。
1958年にアメリカで大流行したことを受けて、同年10月18日に東京都の各デパートで一斉に販売が開始された。積水化学のポリエチレン管をアメリカの会社が加工して輸入したもので、価格は大人向けが270円で子供向けが200円。日産2万本のフラフープは、1ヶ月で80万本が売れた。
販売される店には行列ができ、日本中で爆発的に売れて一大ブームを起こした。人気のために品薄になり、マルサンなど他社も参入し、小売店が独自にポリエチレンのホースを繋げたものを150円で売ることもあった。
わずか40日足らずで1958年の日本のフラフープブームは終焉した。
11月18日にフラフープ使用によるとされる胃穿孔で重態になる事件が起き、横浜市と神戸市でも同日に路上のフラフープで遊んでいた子供が交通事故に遭って警察庁もこれを問題視。さらに21日には千葉県で少年3人が腸捻転など内臓障害になったことから、千葉県東金市立東金小学校が小学校が11月22日に児童にフラフープ禁止令を出した。
宮城県でも教育委員会が警告を出し、厚生省もフラフープと健康障害への影響を検討することになり、ブームは急速に沈静化。40日足らずで1958年の日本のフラフープブームは終焉した。日本中が巻き込まれるブームは1960年のダッコちゃんブームにつながっていった。
宮城県でも教育委員会が警告を出し、厚生省もフラフープと健康障害への影響を検討することになり、ブームは急速に沈静化。40日足らずで1958年の日本のフラフープブームは終焉した。日本中が巻き込まれるブームは1960年のダッコちゃんブームにつながっていった。
via hwm7.gyao.ne.jp
1958年 国産初のプラモデル玩具「ノーチラス号」登場
日本最初のプラモデル「原子力潜水艦 ノーチラス号」
昭和33年12月15日発売された日本最初のプラモデルがマルサンの1/300 ノーチラス号です。
当時の金型でそのまま成型してあります。中にはプラモデルの歴史を語る小冊子が2冊入っています。
説明書は当時のままですが、パッケージは50周年記念モデルとして新しく作りました。
当時の金型でそのまま成型してあります。中にはプラモデルの歴史を語る小冊子が2冊入っています。
説明書は当時のままですが、パッケージは50周年記念モデルとして新しく作りました。
1959年(昭和34年) 銀玉鉄砲『マジックコルト MC-50』(セキデン) 「銀玉鉄砲」が駄菓子屋に登場すると、男の子の遊びは大きく変わりました。
銀玉鉄砲第1号セキデン 『マジックコルト MC-50』 1959年(昭和34年)
40発の銀玉を入れることができるが、連発ではなく、銃尾から突き出た棒(コッキングロッド)を引っ張って1発ずつ撃つ単発式だった。
ゴムを飛ばす割り箸鉄砲や細長い篠竹で作る竹鉄砲など、工夫を凝らしておもちゃの鉄砲を自作して遊んでいた昭和の時代。銀色にコーティングされた“銀玉”を実際に発射できるプラスチック製のおもちゃ「銀玉鉄砲」が駄菓子屋に登場すると、男の子の遊びは大きく変わりました。
日本初の銀玉鉄砲「マジックコルト」が駄菓子屋に初めて並んだのは昭和34年。発売当初はプラスチック製の銀玉でしたが、開発元である大阪のセキデン化学工業の社員が「鉄砲を撃つ度に弾を拾い集める子どもの姿」を見て、もっと安く作れる素材を探すことを決意。そして誕生したのが、七輪などに使われる軽くて安価な珪藻土を使った銀玉だったのです。
「ローン・レンジャー」や「ララミー牧場」など、アメリカの西部劇TVシリーズが人気を博していた時代に銀玉鉄砲は大ヒット! 同社では1日に3万丁を製造し、銀玉だけで約2トンに上っていた時期もあったそう。
『ララミー牧場』 日本での最高視聴率は43.7%(1961年2月23日)。男はみなガンマンになりたかった。
『ララミー牧場』(LARAMIE)は、1959年から1963年にかけてアメリカのNBCで放送されたテレビ映画の西部劇。60年代前半のテレビ西部劇の黄金期にローハイドと並んでもっとも視聴率が高かった番組であった。主演はジョン・スミス とロバート・フラー。
一話完結方式で全124話。日本では、1960年6月30日から1963年7月18日まで、毎週木曜日夜8時からNETテレビ(現テレビ朝日)系で放送された。この放送の中にはロバート・フラーの来日でスタジオでの特別番組(司会は淀川長治)であったり、ロバート・フラーの父母を交えての「ララミー牧場大会」のイベントも放送した。
一話完結方式で全124話。日本では、1960年6月30日から1963年7月18日まで、毎週木曜日夜8時からNETテレビ(現テレビ朝日)系で放送された。この放送の中にはロバート・フラーの来日でスタジオでの特別番組(司会は淀川長治)であったり、ロバート・フラーの父母を交えての「ララミー牧場大会」のイベントも放送した。
via the-king.jp
1960年:西部劇ドラマの流行でガン・ブーム起こる
北辰一刀流千葉周作道場の少年剣士、金野鈴之助の活躍を描く。父親の形見である赤い胴(防具)を着けることから「赤胴鈴之助」と言われる。
1957年、ほぼ同時期に異なる局で2種類のテレビドラマが製作されている。「日本のおもちゃ遊び」によると本作は日本初のテレビキャラクター玩具が発売された作品である。玩具はヒットし後年の月光仮面や鉄腕アトムへの流れを作った。
1957年から1958年にかけて大映製作の映画9作品が公開された。主演俳優の交代は、鈴之助役の梅若正二が人気を得たことで不遜な態度をとるようになりスタッフから嫌われ引退に追い込まれたためとされる。
1957年にラジオ東京 (現TBSラジオ)でドラマ化され、公募で選ばれた当時小学生の吉永小百合や藤田弓子が出演した。後に参議院議員となる当時15歳の山東昭子も語り手として出演している。回によっては生放送や公開録音もあった。