西川のりお   コテコテの大阪弁と捨て身の暴走で全国区へ殴り込み
2024年1月3日 更新

西川のりお コテコテの大阪弁と捨て身の暴走で全国区へ殴り込み

高校でお笑いの世界に入り、パワフルに空回りしながら下積み時代を過ごし、ヤングOh!Oh!、漫才ブーム、じゃりン子チエ、俺たちひょうきん族で一気に全国のお茶の間に。関西独特のイケイケドンドンの暴走ぶりをみせつけた。

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素人時代、予選を勝ち抜いて「ヤングタウン」に3週連続で出演したことがある西川のりおは、「ヤングOh!Oh!」に呼ばれると喜んだ。
しかもてっきり前説だと思っていたのに、いきなり本番に参加させてもらい、
「一生、前座専門で、一生、電波に乗れんヤツもようけおるけどね」
と悦に。
「ヤングOh!Oh!」は、スタジオに客を入れての公開録画番組で、初めて自分が出る日、西川のりおは京都花月の近くにあるお好み焼き屋「しんせつ」にいき、店内のテレビでさりげなく「ヤングOh!Oh!」を鑑賞し、店員が
「のりおさん!
出てるやん!!」
が驚くと、内心うれしくてうれしくて叫びたかったが我慢し、さりげなく
「まあな・・・」
番組の最後に
「大型新人登場!!のりお・よしお、乞ご期待!!」
というスーパーが出て、さら喜んだ。
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こうして彗星のように「ヤングOh!Oh!」にデビューした西川のりおは、明石家さんまに
「兄さん、すごいですね」
といわれると
「まあな。
オレ、「ヤングOh!Oh!」なんか知らなんだ。
お前も出たいか?
こんな番組」
と答え、いい気分になった。
3回目の出演で
「オーメン!!」
というギャグが大ウケし、笑いと拍手をドッと浴び、天にも昇る気持ちになり、明石家さんまに
「兄さん、やりましたなあ。
これでレギュラー決定ですね」
といわれると
「まあな。
今度、紹介したるわ」
ところが欠員が出て桂三枝の推薦で「ヤングOh!Oh!」に出演した明石家さんまは、プロ野球選手の小林繁の形態模写で大ブレイク。
どこに行っても声をかけられ、サインを求められる後輩をみて、西川のりおは
「俺のオーメンはどうなったんや」
と嘆いた。
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「ヤングOh!Oh!」のディレクターに、
「ザ・ドリフターズみたいなんをやれ。
ウケたらコーナーを持たせてやる」
といわれ、西川のりお・上方よしお、B&B、ザ・ぼんち、そして明石家さんまの7人でコントユニットを結成し、前説を行った。
西川のりお、島田洋七、ぼんちおさむの3人は好き勝手に暴れ、それをみた吉本の林正之助会長は
「あのバイ菌どもを、はよ降ろせ。
2度と出すな」
と激怒。
それを聞いてユニット名を「ビールス(Virus)7」とし、番組のレギュラーになった。
キャラの被る西川のりおと島田洋七は度々大ゲンカをし、20歳そこそこの明石家さんまが仲裁に入り、2人の機嫌をとるために代わりに怒られ、
「初めて大人の汚い世界をみた」
のりお、洋七、おさむの荒くれ者3人と、よしお、洋八、まさとの傍観者3人、合計6人の先輩をコントロールするさんまは、やがて他のコーナーでも司会を任されるようになった。
桂文珍は、
「さんま君、今日もアンタが司会?」
「はい、よろしくお願いします」
「フン!
偉ぁなったんやね」
とネタにしたが、西川のりおは、女性にキャーキャー騒がれる明石家さんまをみて
「俺もやったるわい」
と勇んだが、無理だった。

君微笑めば

「ヤングOh!Oh!」が放送される中、さらに空前の漫才ブームが勃発。
まず日曜日の21時に放送されていた関西テレビ「花王名人劇場」で「おかしなおかしな漫才同窓会」というコーナーができて、新旧の漫才師が競演。
すると13~16%という異例の高視聴率となり、気をよくした「花王名人劇場」は、「激突!漫才新幹線」で、横山やすし・西川やすし、星セント・ルイス、B&Bという関東と関西の人気漫才師を競演させ、18%超え。
それをみた各局が新しいバラエティー番組を製作し始め、どのチャンネルでも漫才がみられるようになった。
そしてフジテレビで「THE MANZAI」が始まると一気にブームとなった。
フジテレビの横澤彪プロデューサー、佐藤義和ディレクターらがつくる「THE MANZAI」は、数組が漫才をするというシンプルな内容ながら革新的な番組だった。
フジテレビ第10スタジオに豪華なセットを組み、若い客を入れ、漫才の前にはショートPRムービーが流れ、登場時の出囃子はフランク・シナトラの「When You're Smiling(君微笑めば)」
出演者はベテランではなく若手が中心。
出演順は抽選で決め、楽屋には緊張感が漂い、舞台では真剣勝負が行われた。
ブームを牽引したのは、関東では、星セント・ルイス、ツービート、B&B、関西では、横山やすし・きよし、中田カウス・ボタン、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんち、太平サブロー・シロー、オール阪神・巨人、島田紳助・松本竜介などだった。
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特にザ・ぼんちの人気はすさまじく、夏休みになるといつもは客の年齢層が高めの花月に若者が押し寄せ、ザ・ぼんちが登場すると大量のクラッカーが鳴らして紙テープが投げ、2人の出番が終わると一斉に席を立って出待ちに走った。
ザ・ぼんちの後に出演した芸人は、一気に客が減った劇場に苦笑い。
全芸人が、ザ・ぼんちの後に舞台に立つのをイヤがった。
それまでいまひとつ波に乗れてなかった西川のりお・上方よしおにとっても漫才ブームは大きな転機となった。
西川のりおは、相方をドツいたり首を絞めたりする暴走キャラとガラガラ声で
「ホーホケキョ」
腰を前後に動かして
「ツクツクボーシッ、ツクツクボーシッ」
時代劇「旗本退屈男」をモチーフにした
「天下御免の向こう傷、拙者、早乙女主水之介」
などギャグでブレイク。
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漫才がブームになることで落語家は仕事が激減し、関西のトップを走っていた明石家さんまですら追い越された感があった。
しかし明石家さんまは魔術師のようなトークで漫才師とうまくカラみ、イジり、シキり、お笑い界の好位置をキープ。
島田紳助は
「漫才ブームが来て、やった、これでアイツを引き離せると思うて。
ブームが終われば絶対にさんまの方が有利になるから2馬身はリードせなアカンかったのにアイツはくっついて来よって。
関係ないくせに・・・」
とその適応力に驚き、西川のりおは、
「ずーっとさんまがおるな。
なんでや?」
と周囲に漏らし
「いや、あんだけのメンバー仕切ろうと思ったらさんまさんくらいしかアカンのとちゃいます」
とナダめられると
「なんで俺やったらアカンねん」
とムキ出しでヒガんだ。

【イッキ見★全話予告編】『チエちゃん奮戦記 じゃりン子チエ』の次回予告を全話繋げてみました

「漫才ブームで爆売れしてるときも女の子にキャーキャーはいわれなかった。
ザ・ぼんちとかB&Bとかはいわれてましたけど。
そのときも僕はヒールにみられたかったんです。
のりおはなんちゅうやっちゃと思われてても、そやけど俺は最後まで残ったるぞという気持ちでやってました。
マラソンでいうたらね、トップ集団の3着か4着にずっとおるやつ。
やらしいやっちゃ、こいつまだへばりついとるわといわれる。
そういう奴になりたいんですわ」
という西川のりおだが、確実に全国区に進出。
1981年4月、アニメ映画「じゃりン子チエ」が放映。
監督は、「火垂るの墓」「アルプスの少女ハイジ」などを手懸けた高畑勲。
チエちゃんの声は、幼い頃から「名子役」といわれ、女優、歌手、作家として活動し、さらに女性解放の市民運動に取り組んで参議院議員になった中山千夏。
西川のりおは、
「なっなっなに~」
とテツの声を務めた。
藤田まことも候補に上がっていたが、TVで西川のりおを観たプロデューサーによる大抜擢だった。
その他、

丸山ミツル:上方よしお
小林マサル:島田紳助
タカシ:松本竜介
花井 渉:桂三枝
花井 拳骨:笑福亭仁鶴
百合根光三:芦屋雁之助
菊崎 健二:ぼんちおさむ
小鉄:西川きよし
アントニオjr:横山やすし
テツの博打仲間: オール阪神・巨人

など芸人が多数、出演。
「じゃりン子チエ」は、映画公開6ヵ月後、毎週金曜日19時にテレビで放送開始。
当初、半年間、26回放送の予定だったが、人気が高かったために64回放送された。
収録は毎週、夜中にスタジオで行われ、西川のりおは、いつも高畑監督からNGを出されてやり直し。
いつも1回で終わる中山千夏に
「なんでこんな簡単なんができひんねん」
といわれ、
(なんでこんなことせなあかんねん)
と泣きそうになり、本当にテツとチエのようなやりとりだったが、
「何より台本通りにやらないといけないというのが苦痛だった」
という西川のりおに、テツは超ハマリ役だった。

『8時だョ!全員集合』ザ・ドリフターズ

映画「じゃりン子チエ」が放映された翌月、1981年5月、寝る暇ないぐらい大忙しだったところに、さらにフジテレビで「オレたちひょうきん族」が放送開始。
裏にはTBSテレビの「8時だョ!全員集合」がいた。
それは会場に客を入れての公開生放送番組。
19時59分、放送開始1分前、いかりや長介がステージ上に、残りのメンバー4人は通路にスタンバイ。
時間になると、いかりや長介がカメラを指差し
「8時だョ!」
他のメンバーと客が
「全員集合!」
メンバーはステージへ向かい、ゲストも登場。
オープニングテーマ曲の最後にいかりや長介が
「よろしくぅー!!」
というと全員がお辞儀し、CMに入る。
CMが明けると、いかりや長介の
「オイッスー」
でコントが始まる。
それは何日もかけて稽古してつくりこまれたコント劇で、回り舞台、屋体崩し、タライ落としなど舞台装置も活躍。
強烈なリーダーシップをとるいかりや長介。
体操が得意な仲本工事。
何もしない、できない、喋らない、だけど面白い高木ブー。
ウンコチンコありでボケる加藤茶と志村けん。
全員が体を張って笑いをとった。

「ダメだこりゃ」(いかりや長介)
「ヘーックション!!」(加藤茶)
「加トちゃん、ペッ」(加藤茶)
「♪カラスなぜ鳴くの♪カラスの勝手でしょ♪」(志村けん)
「アイーン!」(志村けん)
「あんだ!バカヤロー!!」(志村けん)
はげヅラおやじ
白鳥
バカ殿
東村山音頭
ディスコ婆ちゃん
早口言葉
少年少女合唱隊
ヒゲダンス
雷様

など数々の名物コーナー、ギャグ、キャラが誕生。
最後は
「風邪ひくなよ」
「お風呂入れよ」
「頭洗えよ」
「宿題やれよ」
「歯磨けよ」
と合いの手が入りながらエンディングテーマ曲を合唱。
いかりや長介の
「また来週ぅ!!」
で番組は終了。
「8時だョ!全員集合」は、小学生を中心に熱狂的に受け入れられ、最高視聴率50.5%を誇るモンスター番組だった。

放送第1回 〜フジテレビ30年史

「勝ち残りゲームなんやなあと。
お笑いというジャンルの中で新しい時代に生き残るのは誰か」
というフジテレビの横澤彪プロデューサーは、新しいお笑いを模索。
チームワークよりも個の力を重視。
漫才ブームで人気を得たコンビを出演させながら、ネタはやらせず、アドリブ、即興性が求めた。
スタジオに客は入れず、
「演者は勝手に遊び、我々は勝手に撮る」
といって台本はあるものの芸人に好きなようにやらせて、面白い場面だけを採用。
そのため現場にムダな緊張感はなかった。
初回放送のオープニングは、正装したビートたけし、ビートきよし、島田洋七、島田洋八、西川のりお、上方よしお、ぼんちおさむ、ぼんちまさと、明石家さんま、島田紳助、松本竜介による晩餐会。
料理にコショウをかけてくしゃみが出そうになるさんま。
それを阻止するために口にパンを詰め込む紳助。
洋八が指を鳴らし、呼ばれたメイド服姿のいまくるよが、パンを吐き出させようと背中をどつく。
その力が強すぎて、さんまは料理に中に顔を突っ込む。
たけしが指を鳴らし呼んだくるよに
「ブスだねえ」
怪訝な表情で立ち去るくるよ。
たけしはカメラに向かって
「俺たち!」
全員で
「ひょうきん族!」
こうして土8戦争が始まった。
アドリブ主体で内輪ネタ、下ネタが横行するひょうきん族の笑いは、小学生にはわからなかったが、高校生、大学生や若者に強烈に支持された。
学校や職場は、「全員集合派」と「ひょうきん族派」で真っ二つ。
家でもチャンネルの取り合いが発生した。

のりおのオバQ  #Shorts

ひょうきんファンにとって、ビートたけしのタケちゃんマン、明石家さんまのブラックデビル、島崎俊郎のアダモステ、そして西川のりおの暴走は欠かせないものだった。
「毎週、毎週メークを変え、妙ちくりんなかぶり物をし、またあるときは素っ裸ですわ。
最初は沢田研二さんのパロディーで始まったけど、マーチングバンドの指揮者よろしく右手を威勢よく上下に振りながら「ツッタカター、ツッタカター」と行進する「ツッタカ坊」や。
あるとき横澤さんに『君はギリシャ神話知ってるか?』と聞かれて『興味ないですわ』と返事したら、『知らんでエエから』って。
メーク室に行くと下半身が馬の前足・後ろ足のかぶり物をはかされ、お尻には尻尾。
それで弓矢を持たされて『今回は(半人半獣の)ケンタウロスや』いわれてね。
そのときのコントの絡みの相手が忌野清志郎さんで、みた途端に笑い転げてましたわ。
全身に金粉を塗られたこともあったなあ。
メークさんが『20分以上放置すると皮膚呼吸できなくて窒息します』って真剣に心配してるのに横澤さんは『大丈夫、大丈夫』いうて涼しい顔。
エライこっちゃとマネジャーに助け舟出してもらおうと思ったのに『面白いですね』ってまったくの他人事。
わざと目を合わせんとアッチの方、向いてるんやから。
そらないで、ホンマ。
全身白タイツで「オバケのQ太郎」風のメークをしたのもウケた。
当時新宿区にあったフジテレビ社屋はバラエティーも報道も同じメーク室やったんです。
オバQメークをしてたら、すぐ隣に座ったのが「FNNニュースレポート23:00」のメインキャスターやった俵孝太郎さん。
僕をひと目見て笑いをこらえるのに必死なんですよ。
そしてそのまま生放送のスタジオに行かはったけど、メーク室のモニターをみててたらオープニングの挨拶のときに思い出し笑いして噛み噛み。
相棒の安藤優子さんは事情を知ってるから笑いながら『俵さんは本番前にビックリされたことがあったんですよね』とフォローしてはった。
でも後の祭りですわ」
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