復興への思いが団結心を生んだ。すごいと思った。みなさんから「元気づけられた」と言われたが、逆だった。神戸で試合をしていなければ、絶対にリーグ優勝はなかった。
使命感があったのだと思う。普通、優勝は球団のためであり、選手のためのもの。影響を及ぼす範囲は小さい。だが、95年は社会的意義があった。通常の通念とはまるで違った。
NOMO(1995年の流行語大賞)
NOMO(ロサンゼルス・ドジャース時代・1995年の流行語大賞) 日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇った。
「Nomo(野茂)が投げれば大丈夫」の歌詞は街でよく聴かれ、ブームにもなった。
大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、真上から振り下ろすオーバースローから平均球速86-90mph(約138-145km/h)、NPBでの最速151km/hの伸びのあるフォーシームと77-82mph(約124-132km/h)のフォークボールを武器とした。
速球は基本的にフォーシームだったが、左打者には時折カット・ファストボールを交えた。2000年代に入るとカーブ、スライダー、ツーシームなども交えるようになり、引退前の2008年にはワインドアップを封印し技巧派となった。
大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、真上から振り下ろすオーバースローから平均球速86-90mph(約138-145km/h)、NPBでの最速151km/hの伸びのあるフォーシームと77-82mph(約124-132km/h)のフォークボールを武器とした。
速球は基本的にフォーシームだったが、左打者には時折カット・ファストボールを交えた。2000年代に入るとカーブ、スライダー、ツーシームなども交えるようになり、引退前の2008年にはワインドアップを封印し技巧派となった。
ハマの大魔神(1998年の流行語大賞)(横浜・佐々木主浩)
ハマの大魔神(1998年の流行語大賞)(横浜・佐々木主浩)
1994年はキャンプ時に肘を故障し手術前半戦を棒に振る、その間抑え投手の座を盛田に譲った。夏場に一軍復帰してからは再び抑えになり、9月18日の広島戦で7者連続三振を記録している。
この当時、サンケイスポーツの巨人担当記者が佐々木を(敵チームから見て)「悪魔の守護神」を略した「魔神」と表現する。
また、佐々木の風貌が大映の劇中のキャラクター、「大魔神」に似ていることも相まり、「ハマの大魔神」というあだ名が定着した。
1998年は日本シリーズでも第6戦で金村義明を併殺打に打ち取って胴上げ投手となり、MVPをはじめ、正力松太郎賞、日本プロスポーツ大賞を受賞。シーズンオフにはイチローとともにプロ野球史上初めて年俸5億円に達した。また「ハマの大魔神」はこの年の新語・流行語大賞を受賞するなど、社会現象となるほどの活躍を見せた。
この当時、サンケイスポーツの巨人担当記者が佐々木を(敵チームから見て)「悪魔の守護神」を略した「魔神」と表現する。
また、佐々木の風貌が大映の劇中のキャラクター、「大魔神」に似ていることも相まり、「ハマの大魔神」というあだ名が定着した。
1998年は日本シリーズでも第6戦で金村義明を併殺打に打ち取って胴上げ投手となり、MVPをはじめ、正力松太郎賞、日本プロスポーツ大賞を受賞。シーズンオフにはイチローとともにプロ野球史上初めて年俸5億円に達した。また「ハマの大魔神」はこの年の新語・流行語大賞を受賞するなど、社会現象となるほどの活躍を見せた。
via www.zakzak.co.jp
雑草魂・リベンジ(1999年の流行語大賞)
via m.sponichi.co.jp
読売ジャイアンツ・上原浩治 「サンデー上原」と呼ばれた。自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」。
1999年は毎週日曜日に登板するというローテーションが組まれていたため、「サンデー上原」と呼ばれた。前半戦で新人では37年ぶりの12勝を挙げるなど5月30日から9月21日まで、歴代4位タイとなる15連勝を記録。新人投手の記録としては1966年に堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。
両リーグを通じて1990年の斎藤雅樹以来9年ぶり、新人投手としては1980年の木田勇以来19年ぶりの20勝投手となった。
最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手主要4部門を制し、史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成。
また、新人王と沢村賞も受賞する。自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は(鈴木啓示の座右の銘「草魂」より)、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。
両リーグを通じて1990年の斎藤雅樹以来9年ぶり、新人投手としては1980年の木田勇以来19年ぶりの20勝投手となった。
最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手主要4部門を制し、史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成。
また、新人王と沢村賞も受賞する。自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は(鈴木啓示の座右の銘「草魂」より)、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。
松坂大輔は1999年4月21日の対ロッテ戦では黒木知宏と投げ合い、0-2で敗北したが、その後に「リベンジします」と宣言した。
4月27日の対ロッテ戦で再び黒木と投げ合い、1-0でプロ初完封を記録し見事にリベンジを果たした。
「リベンジ」を格闘技・プロレス界の用語以上のものにしたのは、当時西武ライオンズの松坂大輔である。
K-1好きでもあった松坂は1999年4月21日の対ロッテ戦では黒木知宏と投げ合い、0-2で敗北したが、その後に「リベンジします」と宣言した松坂は4月27日の対ロッテ戦で再び黒木と投げ合い、1-0でプロ初完封を記録し見事にリベンジを果たした。
松坂が「リベンジ」を使った時期は、まだリベンジの意味を知らない日本人が多かったと思われるが、松坂が用語としての「リベンジ」を広く一般に認識させたことから、1999年の新語・流行語大賞(年間大賞)の受賞者に選ばれた。また同時に日本語の語彙があるのに英語を使う事にも批判が出た。
川崎劇場(1991年の金賞) 金田正一(元ロッテオリオンズ監督) テレビじゃ見れない川崎劇場。
1990年シーズンの川崎球場のスコアボードは「10.19」を経て少し美しくなっていた
1988年(昭和63年)
近鉄バファローズがリーグ優勝のマジックを「2」として迎えた大一番のロッテとのダブルヘッダー、いわゆる「10.19」である。
熱戦にスタンドは溢れ返り、右翼場外のマンションには通路や階段、屋上にまで鈴なりの人垣ができた他、売店の飲食物や飲食店の食材も試合半ばで底を突いた。
近鉄は第1試合に勝ったものの第2試合は引き分けに終わり、西武ライオンズがリーグ4連覇を果たした。この10.19には普段川崎を訪れない観客も多く訪れ、テレビやラジオでも生中継で全国放送された。
近鉄バファローズがリーグ優勝のマジックを「2」として迎えた大一番のロッテとのダブルヘッダー、いわゆる「10.19」である。
熱戦にスタンドは溢れ返り、右翼場外のマンションには通路や階段、屋上にまで鈴なりの人垣ができた他、売店の飲食物や飲食店の食材も試合半ばで底を突いた。
近鉄は第1試合に勝ったものの第2試合は引き分けに終わり、西武ライオンズがリーグ4連覇を果たした。この10.19には普段川崎を訪れない観客も多く訪れ、テレビやラジオでも生中継で全国放送された。
1991年(平成3年)春、川崎市が14億円を掛けた改修工事が完了。この2年の間にスタンド壁面の再塗装、防球ネットの嵩上げ、一部座席の取替え、パネル式だったスコアボードの電光化、フィールドの人工芝敷設など段階的に施設の改装を行った。
また、近鉄のラルフ・ブライアントが右翼上段の「リー・ネット」を超えて場外に打球を飛ばしていたことから、この改修工事を期にネットがさらに嵩上げされ「ブライアント・ネット」と呼ばれた。
ロッテは同年春、「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句に誘客キャンペーンを展開。自虐的なテレビコマーシャルも話題を呼んだ。しかし、この時の改修も一部分だけであり、老朽化および狭隘化した施設そのものが改善されたわけではなく、抜本的な設備の改善を望める状況ではなかった。
プロ野球 昭和の球場物語 川崎球場編
via www.youtube.com
[CM界]ロッテ・オリオンズ 中継がないから野球場へ行こう
「ふざけんなヨ」と言う恋人を球場へ引っ張って行く女性など三種類。選手たちの躍動感あるプレーをはさんで、「テレビじゃ見れない川崎劇場」で締めた。「見れない」という言葉は語法上、正しくないけれど、「川崎劇場」の表現はひねりが効いている。
テレビ中継がないことを逆手にとり、野球という生のドラマを見られる舞台へ行こう、と訴えているのだ。
博報堂の黒須美彦ディレクターは、「スマートな表現や奮起宣言などでは視聴者に見透かされるだけ。あえてややずらしたところへ変化球を投げてみました」と語る。
CMの影響だろうか、本拠地開幕三連戦の入場者は昨年比一・五倍の計約六万人に急増した。昨年一年間の総入場者数は十二球団最低の七十八万人だったが、初の百万人突破もしそうな勢いだ。
ロッテオリオンズ 川崎球場 応援団 1991
決して強くはなかったが、予測不能のおもしろい野球をみせたロッテオリオンズがこの年に消滅した。
via www.youtube.com
親分(1993年の金賞) 日本ハムの監督・大沢啓二
via baseballplus.jp
大沢のユーモアあふれるコメントはマスコミで大々的に報じられたこともあって「親分」の語句はこの年の新語・流行語大賞の「大衆語部門・金賞」に選ばれている。
同年は新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった(2010年までに新人王と沢村賞を権藤博・堀内恒夫・上原浩治が、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂だけである。ただし木田は、当時の沢村賞の選定がセ・リーグのみだったため受賞対象者ではなかった)。
奪三振に関してはシーズン2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振(当時)、三振奪取率10.99(パ・リーグ最高記録)など従来の記録を次々に更新し、「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。