via www.suruga-ya.jp
秋山幸二選手は、1986年の日本シリーズでは史上唯一の第8戦で有名な「バック宙ホームイン」を披露する。
1986年、監督が広岡達朗から森祇晶に交代。開幕を5番で迎えるが、ジョージ・ブコビッチの不振により4番の座を任される。
三冠王・落合博満が手も足も出なかった、台湾人・郭泰源
オリエンタル・エクスプレスという通称の由来となった最速158km/h(プロ入り後の最速は156km/h)の速球。
落合博満は「郭泰源の投球は野茂英雄よりもすごいと思った」と語っている。
落合博満は「郭泰源の投球は野茂英雄よりもすごいと思った」と語っている。
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「鉄人」(1987年特別賞)(広島・衣笠祥雄)
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「昭和生まれの明治男」(1990年) 村田兆時・淑子夫妻(元ロッテオリオンズ)
「昭和生まれの明治男」(1990年) 村田兆時・淑子夫妻(元ロッテオリオンズ) 「人生先発完投」を座右の銘とし、先発完投にこだわった村田の武骨な野球人生は「昭和生まれの明治男」と呼ばれた。
そのダイナミックな投球フォームは、「マサカリ投法」と呼ばれていた。
1983年も一向に肘の症状が改善されないため、渡米しスポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブの執刀の下、左腕の腱を右肘に移植する手術(トミー・ジョン手術)を受けた。
以降2年間をリハビリに費やし、1984年シーズン終盤に復帰する。
翌1985年、開幕から11連勝を挙げるという鮮烈な復活劇を見せ、最終的に17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。
前年に続くロッテのリーグ2位に貢献した。この年の開幕からの11連戦11連勝記録はプロ野球記録である。
1990年、10勝をマークし、10度目の二桁勝利を挙げる。若林忠志以来史上2人目となる40歳代での二桁勝利を記録し、同年に現役引退した。
1983年も一向に肘の症状が改善されないため、渡米しスポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブの執刀の下、左腕の腱を右肘に移植する手術(トミー・ジョン手術)を受けた。
以降2年間をリハビリに費やし、1984年シーズン終盤に復帰する。
翌1985年、開幕から11連勝を挙げるという鮮烈な復活劇を見せ、最終的に17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。
前年に続くロッテのリーグ2位に貢献した。この年の開幕からの11連戦11連勝記録はプロ野球記録である。
1990年、10勝をマークし、10度目の二桁勝利を挙げる。若林忠志以来史上2人目となる40歳代での二桁勝利を記録し、同年に現役引退した。
肩・肘の故障に泣き、あらゆる治療、手術、苛酷なまでのリハビリの末、奇跡のカムバックを遂げた村田投手。
復帰後も、豪速球にこだわり凄まじいまでの努力を続けた。この野球に賭けた鬼気迫る執念と頑固さを、陰で支えた淑子婦人は「昭和生まれの明治男」と表現した。
『イチロー(効果)』(1994年の流行語大賞)
『イチロー(効果)』(1994年の流行語大賞)
2軍生活の中でイチローは、1993年の秋に2軍打撃コーチの河村健一郎と二人三脚で、日本時代のイチローの代名詞ともなる「振り子打法」を作り上げた。
1994年、公式戦開幕直前の4月7日、登録名を本名「鈴木一朗」から「イチロー」に変更(オープン戦は「鈴木一朗」登録)。
1994年、公式戦開幕直前の4月7日、登録名を本名「鈴木一朗」から「イチロー」に変更(オープン戦は「鈴木一朗」登録)。
この年から監督に招聘された仰木彬はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと即座に一軍に呼び、2番打者に抜擢。
打法も同年から新しく1軍打撃コーチとなった新井宏昌に理解され、レギュラーとして活躍。4月末から1番打者に定着し、5月から8月にかけて日本プロ野球新記録となる69試合連続出塁を記録した。
9月11日には日本プロ野球タイ記録の1試合4二塁打を記録すると同時に、1950年に藤村富美男が作ったシーズン最多安打記録191本に並んだ。
次の試合でシーズン最多安打記録を44年ぶりに更新し、同月の122試合目には日本プロ野球史上初、130試合制としては史上唯一となるシーズン200本安打の偉業を達成した。
プロ野球史上初のシーズン200安打を達成したオリックス・ブルーウェーブのイチロー(1994年)
最終的にはパシフィック・リーグ新記録となる打率.385(2000年に自ら記録を更新.387)を残して首位打者を獲得。そのほかにも最高出塁率・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞を獲得し、打者としては日本プロ野球史上最年少でシーズンMVPを獲得した。
via www.nikkei.com
がんばろうKOBE(1995年の流行語大賞)(オリックス・仰木彬監督)
「がんばろうKOBE」を合言葉に、市民とチームが一丸となって戦った95年。オリックスは快進撃を繰り広げリーグ優勝を果たす。
1995年、阪神・淡路大震災の年に監督としてオリックスをリーグ優勝に導き、被災者に大きな勇気と希望を与えた 故 仰木彬氏。
スタジアムに来ることさえ難しい状況でファンは集まった。
今はグラウンドとスタンドの一体感をつくるため、メジャー式の球場になっているが、あんな取って付けたものじゃない。
当時は本当に一緒にやっていた。(ベンチ入りの選手の)25人で戦っているのではなく、何万、何千人で相手を圧倒した。
数多くのアベックホームランなど、森祇晶監督指揮下の常勝軍団とさえ呼ばれる時代を支えた。バークレオ(1988年在籍)、デストラーデ(1989年 - 1991年在籍)を加えたクリーンナップは、それぞれAKB砲、AKD砲とも言われた。