日本人初のヘビー級世界チャンピオンを期待されたボクサー「西島洋介山」の経歴と現在
2020年1月7日 更新

日本人初のヘビー級世界チャンピオンを期待されたボクサー「西島洋介山」の経歴と現在

日本国内初のクルーザー級ボクサーとして注目を浴びた西島洋介山のボクシング、K-1、総合格闘技の戦績。引退と現在について紹介。

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日本人重量級ボクサーとしてファンに夢を魅せた西島洋介山

西島洋介山(にしじまようすけざん)

西島洋介山(にしじまようすけざん)

1973年5月15日生まれ。本名:西島洋介
身長:180cm、体重:85kg
東京都板橋区生まれ。小学校時は広島市西区井口育ち。少年野球チームに在籍した。埼玉県を経て東京に戻り、小松原高等学校時代は野球部に在籍。通学路にてオサムジムの渡辺治会長からの直接スカウトを受け、同ジムに入門。渡辺治会長は「日本人ヘビー級チャンピオンを育てる」ことを目標として掲げており、その目に留まる形になった。しかし、現実には「見ず知らずの人に、路上で突然『君はヘビー級チャンピオンになれる』と声をかけられた」という。野球部は退部した。

西島洋介山 ボクシング時代の経歴

高校卒業直後の1992年3月、プロデビュー。
リングネームは「西島洋介山」。
渡辺会長が「山のように大きな男になれ」という意味を込めて命名した。

デビュー後間もなく、「日本国内唯一のヘビー級選手」として注目を浴びるようになるが、「国内唯一」であるが故、対戦相手が国内では皆無。そのため、普段の練習は国内(ジム)で行い、試合のたびに米国に渡るという生活を強いられることになる。
(デビュー間もない時期に、後楽園ホール・ガッツファイティングで現役ミドル級日本王者竹原慎二とエキシビジョンで完膚なきまでに倒された)

デビュー後は1番重いヘビー級では無く、2番目に重いクルーザー級で戦っている。175 - 200ポンド (79.379 - 90.719kg)
※WBOではクルーザー級はなくジュニアヘビー級と呼んでいる。

デビュー時の西島洋介山と渡辺治虫会長

ボクサー時代の西島洋介山

ボクサー時代の西島洋介山

洋介山時代は必殺技(フィニッシュ・ブロー)に「宇宙パンチ」「手裏剣パンチ」などを持ち、水色の地下足袋リングシューズなどの特異なキャラクターでも人気を博した。
4戦連続KO勝ち後の1993年10月、ケニー・ミリガン(米国)に4回判定負け。
5戦目にしてプロ初黒星を喫した。

西島洋介山VSクリスナ・ウェインライト - YouTube

1995年9月7日、クリスナ・ウェインライト戦
9RKOで勝利
1995年2月19日、11戦目で初のタイトル戦。ジョン・カイザー(米国)とNABOクルーザー級王座決定戦を行い、12回判定勝ち。王座奪取に成功するがNABOはJBC未公認のため、JBCからは正式な王者として認定を受けることはできなかった。

1996年10月5日、OPBF東洋太平洋クルーザー級王座決定戦出場。ピーター・キンセラ(オーストラリア)を3回KOに降し、初のJBC認定王者となった。
WBF世界クルーザー級王座を獲得した西島洋介山

WBF世界クルーザー級王座を獲得した西島洋介山

マイナー団体とはいえ、日本人として初めて重量級の世界王座を獲得した。
1997年7月11日、WBF世界クルーザー級王座決定戦に出場。
ブライアン・ラスパダ(米国)を12回判定に降し、マイナー団体ではあるが世界王座獲得を果たした。なお、WBFはやはりJBC未公認のため国内では正式な世界王者として認定は受けられなかった。

その後、JBCからWBF王座を返上するよう要求を受ける。本人は拒否したが、ジム側は承諾して返上した。そのことに反発して同年11月、所属するオサムジムを離れ、JBCに対して自ら「引退」を通告した。翌1998年、米国に拠点を移し、リングネームも本名「西島洋介」に改めた。

同年3月、米国・カリフォルニア州カーソンで試合を行ったのに伴い、JBCから無期限のライセンス停止処分を科された。結局、この年はこの1試合しか行えなかった。

1999年、3月に1年ぶりの試合を行った後、同年9月までさらに3試合を行った。しかし、その後は再び長期間のブランクに突入し、2年余りも試合から遠ざかった。

2001年11月、2年ぶりの試合。6回戦からの出直しとなったが、引き分けに終わった。その後、2002年3月に1試合を行った後、また1年余り試合から遠ざかった。

2003年7月、カリフォルニア州クルーザー級王座決定戦に出場するが、2回TKO負け。この試合を最後にプロボクサーを引退。

西島洋介vsジェームス・トニー スパーリング.mpg - YouTube

元世界ヘビー級ほか4階級制覇したジェームス・トニーとのスパーリング。
パワーで劣るもののスピードを生かした攻撃で膝をつかせるほどのダメージを与えた。
メジャー団体でのタイトルは獲得できなかったものの、メジャータイトルでもあるWBCで最高クルーザー級6位にランクインされた。

日本ではライトヘビー級・クルーザー級・ヘビー級は競技人口がほとんどいない中、長きに渡り日本クルーザー級のパイオニアとして活躍していた。

もしバックアップ体制が万全であったなら、もっと活躍できたはずだと言う声も多い。

【プロボクシング戦績】
27戦 24勝(15KO) 2敗 1引き分け

ボクシングを引退後、総合格闘技へ転身

2005年6月、総合格闘技に転向し、PRIDE参戦を正式表明。

2006年1月、新リングネームが「陽海山」に決定したが、以前所属したオサムジムからクレームを受けたため、本名の「西島洋介」に戻した。

2006年2月26日、PRIDE.31でマーク・ハントと対戦。元K-1王者を挑発する発言もあったが、3RTKO負け。西島の細かいジャブが連続でヒットする場面があり、ハードパンチャーを相手に被弾しながらも粘り強さを見せたことから試合は盛り上がった。PRIDEデビュー戦でありながら、メインイベントでの試合となった。

PRIDE 31. メーンイベント 西島洋介 vs マーク・ハント - YouTube

2006年5月5日、PRIDE無差別級グランプリに参加。1回戦で吉田秀彦と対戦。試合前は「柔道よりボクシングの方が強い。組み付く前にKO出来るから。」と挑発。1R開始後、打撃では両者とも有効打はないまま、テイクダウンされ三角絞めで負けを喫した。

2006年9月10日、PRIDEでエヴァンゲリスタ・サイボーグと対戦、試合前は「サイボーグのような選手にはカウンターが楽に入る。寝かされてもすぐ立ち上がる。」と挑発。試合ではスタンドでもいい所なく、サイボーグのパウンド連打の後、西島が耐え切れず後ろ向きなったところをバックマウントを許しスリーパーホールドにて1R一本負け。

2006年10月21日、PRIDE.32でフィル・バローニと対戦。開始早々テイクダウンをとられチキンウィングアームロックで1R見込み一本負け。

2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!でメルヴィン・マヌーフとHERO'Sルールで対戦。試合前はマヌーフの打撃を「アマチュアレベル」「早い時間で終わらせる」と挑発。
試合内容は最初の攻撃は何発かかわしたが、その後左右フックの連打を被弾し、テイクダウンをとられて最後はマウントパンチの連打で1R失神KO負け。

K-1Dynamite07' 西島洋介 vs メルヴィン・マヌーフ - YouTube

【総合格闘技戦績】
5戦 0勝 5敗

総合格闘技から立ち技のK-1へ

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