【完全無欠のエース】ジャンボ鶴田
【完全無欠のエース】ジャンボ鶴田
B型肝炎を発症したことにより第一線を退き、その後は桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を務めるなど、教育者としても活躍。
ニックネームは「若大将」のち「怪物」「完全無欠のエース」。
座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、プロレスの師であるジャイアント馬場から継承。
ツールータッ (オーッ) ツールータッ (オーッ)
みなさんご一緒に!!
J ジャンボ鶴田のテーマ - YouTube
ジャンボ鶴田の来歴:全日本プロレス入団
有名だった「プロレスに就職します」
入団後はテキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとへ修行に行き、スタン・ハンセンやボブ・バックランドとも邂逅。特にハンセンとは気が合ったようで、一緒にインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった。
ザ・ファンクスの父、ドリー・ファンク・シニアは鶴田を見て「この男はレスラーになるための下地はとっくに出来ている。あとは経験を積むだけだ」と評した。
1973年、プロデビュー
さらに8月9日にはスタン・ハンセンと組み、当時ザ・ファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦。
10月には帰国し、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー。
蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。
この抜擢については全日内外、メディアからも猛批判が上がったが、アメリカに渡り鶴田の成長ぶりをその目で確認していた馬場は「まあまあ、とにかく試合を見て判断してくれ」と自信たっぷりに答えている。
60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い、ほどなく全日本プロレスNo.2の地位につく。
1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。師匠であるジャイアント馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった。
ジャンボ鶴田の来歴:1970年代中盤~ライバル達との出世争い
3年連続で年間ベストバウトを受賞
1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの田園コロシアム決戦を含め、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間ベストバウトを受賞。
当時の必殺技はスープレックス
必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキックを大一番で用いた。
三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)。