【炎の飛龍】昭和の死闘をドラゴン殺法で戦い抜いた藤波辰爾の掟破りなエピソード
2016年11月25日 更新

【炎の飛龍】昭和の死闘をドラゴン殺法で戦い抜いた藤波辰爾の掟破りなエピソード

新日本プロレス旗揚げ時より参戦し、WWWFジュニアヘビー級王座ヘビー級王者を経てヘビー級に転向。数々のオリジナルの必殺技で何度も腰にチャンピオンベルトを巻き輝かしい栄光を積み重ねて新日本の代表取締役社長まで登り詰めた。相手の必殺技を盗む「華麗なる盗人」と呼ばれた藤波辰爾の「掟破り」エピソードを紹介。

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アントニオ猪木に憧れてプロレス界の門を叩いた藤波選手。その師匠である猪木を必殺技のドラゴンスープレックスでフォール勝ちを挙げるなど、自らのキャッチフレーズである「ドラゴン」を冠した多彩な技(ドラゴン殺法)の使い手という印象が強いが、相手の技を用いた「掟破り」で試合を演出する事もあった。

ドラゴン・スープレックス/JOE - YouTube

ドラゴン藤波のテーマ

諦めきれなかったプロレスラーへの夢

1953年12月28日、大分県国東郡に生まれる。中学時代にアントニオ猪木に憧れ、プロレスラーを目指す。中学卒業後、地元の自動車整備工場に就職したが、プロレスへの夢を断ち切れず、1970年に別府温泉へ湯治に来ていた同郷である日本プロレス所属のプロレスラー北沢幹之に直談判、そのまま巡業について行き日本プロレスに入門した(入門同期は、佐藤昭雄、キラー・カーンなど)。猪木の付き人となり1971年5月9日にデビュー。デビュー戦の相手は北沢が務めた。
当初は日本プロレスに入門、デビューしていたんですね。

戦いの場を新日本プロレスへ

アントニオ猪木が日本プロレスを除名された翌日の1971年12月14日、木戸修と共に日本プロレスを退団し、夜逃げ同然で日本プロレス事務所の近くの猪木後援会事務所に身を寄せる。
1972年、猪木が興した新日本プロレスに旗揚げより参加。3月6日に大田区体育館で行われた旗揚げ戦では第1試合に出場するもエル・フリオッソに敗退、3月16日の浜田広秋(後のグラン浜田)のデビュー戦で初勝利を挙げる。以降、相次いでデビューした関川哲夫、荒川真、栗栖正伸、藤原喜明らを相手に勝利を重ね、若手のリーダー格となった。
その後、師匠の猪木が立ち上げた新日本プロレスで幾多もの激闘を繰り広げます。

藤波選手が繰り出した3大ドラゴン殺法

ドラゴン・スープレックス(飛龍原爆固め)

ドラゴン・スープレックス(Dragon suplex)は、プロレスの投げ技の一種であり、スープレックス系の技のひとつ。ジャーマン・スープレックスの派生技である。別名は、飛龍原爆固め(ひりゅうげんばくがため)、フルネルソン・スープレックス(Full nelson suplex)、羽交い締め式原爆固め(はがいじめしきげんばくがため)。「ドラゴン」「飛龍」の名称は、発案者である藤波辰爾のニックネーム「ドラゴン」に由来する。
必殺技のドラゴンスープレックスで猪木から初勝利

必殺技のドラゴンスープレックスで猪木から初勝利

ドラゴン・スリーパー(飛龍裸絞め)

尻餅状態に座らせた相手の後方から、相手の首を自分の脇に抱え込むように片腕で捕獲。空いている腕で相手の片腕を前方肩上から脇に通して背面で固定し、自分の両手を相手の背面でロック。自ら背を反るようにして脇に抱えた首の頚動脈を圧迫する。当時藤波が出稽古に通っていた骨法の首落としをヒントに開発した技。
ドラゴン・スリーパー

ドラゴン・スリーパー

ドラゴン・スクリュー

ドラゴン・スクリューはプロレスの投げ技、痛め技の一種である。元新日本プロレスの藤波辰爾が開発したオリジナル・ホールドであり、技の名称は、発案者である藤波のニックネーム「ドラゴン」「飛竜」に由来する。別名は、飛龍竜巻投げ(ひりゅうたつまきなげ)、レッグ・ドラッグ、竜巻式足(脚)投げ(たつまきしきあしなげ)。
ドラゴン・スクリュー

ドラゴン・スクリュー

武藤敬司選手もドラゴン・スクリューの使い手として有名ですね。
このように、自身オリジナルの必殺技であるドラゴン殺法を引っさげて、激闘を繰り広げる藤波選手ですが、ここぞという試合では「掟破り」である相手の必殺技を繰り出して相手や観客の度肝を抜く事もありました。その様子から「華麗なる盗人」とも呼ばれました。

師匠アントニオ猪木へ「掟破り」の卍固め

卍固め

卍固め

1988年4月22日、沖縄県立奥武山公園体育館で、いつまでもメインを張り続け後進に譲ろうとしない猪木に対して、自らの前髪を切って現状改革を訴える。この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼ばれたが、反権力的な長州の維新、天龍の革命と比べて体制側に属する藤波の革命についてのファンの支持はもう一つで、前記2者に比べるとプロレス史には(ネタとしてはともかく)残らず、尻すぼみの結果となった。
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