天理・南竜次(1990年)
南竜次は、天理高校のエースで、1990年春の甲子園(第62回選抜)では2回戦で敗れるも、夏の甲子園(第72回選手権)で優勝。決勝戦では、沖縄水産の神谷善治との投手戦を投げ勝ち、1対0で勝利しました。因みに、1回戦の対戦相手は愛工大名電高校で、2年生で左翼手として出場していた鈴木一朗(現:イチロー)と対戦しています。
その年のオフ、ドラフト4位指名で日本ハムファイターズに入団。1992年4月の近鉄戦で一軍初登板を果たし、初三振を奪ったのが同じく甲子園優勝投手の金村義明でした。その後は肘の故障で登板機会がなく、一軍登板は1992〜1994年の11試合のみ。1997年に引退しました。
現在は、家電製品の販売・修理等を行う会社「株式会社AIRECサービス」を起業し、その代表取締役として活躍しています。
その年のオフ、ドラフト4位指名で日本ハムファイターズに入団。1992年4月の近鉄戦で一軍初登板を果たし、初三振を奪ったのが同じく甲子園優勝投手の金村義明でした。その後は肘の故障で登板機会がなく、一軍登板は1992〜1994年の11試合のみ。1997年に引退しました。
現在は、家電製品の販売・修理等を行う会社「株式会社AIRECサービス」を起業し、その代表取締役として活躍しています。
南竜次
1993 南竜次 1
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大阪桐蔭・背尾伊洋(1991年)
今や甲子園優勝の常連校の大阪桐蔭高校ですが、初出場・初優勝がこの1991年夏の甲子園(第73回選手権)です。主戦投手は和田友貴彦と背尾伊洋の二枚看板で、決勝の沖縄水産戦では、和田が先発、背尾がリリーフで登板しました。実は、準決勝の相手が星稜高校で、当時2年生の松井秀喜と対戦しています。(松井の5打席連続敬遠があったのは、この翌年の選手権です。)同期には、阪神にドラフト1位で入団した萩原誠がいました。
その年のオフ、ドラフト5位指名で近鉄バファローズに入団。一軍初登板は、サイドスローに転向したプロ5年目の1996年のことで、この年は先発、リリーフで18試合に登板しています。9月の日本ハム戦では、初勝利を完封で記録しますが、これがプロでの唯一の勝ち星です。その後は結果が出ず、1998年に巨人に移籍。一軍登板はなく、2000年に引退しました。
その年のオフ、ドラフト5位指名で近鉄バファローズに入団。一軍初登板は、サイドスローに転向したプロ5年目の1996年のことで、この年は先発、リリーフで18試合に登板しています。9月の日本ハム戦では、初勝利を完封で記録しますが、これがプロでの唯一の勝ち星です。その後は結果が出ず、1998年に巨人に移籍。一軍登板はなく、2000年に引退しました。
背尾伊洋
1996.6.13 近鉄vsダイエー12回戦 9/23
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横浜・松坂大輔(1998年)
甲子園で "怪物" と呼ばれた選手は数多くいますが、その中で "平成の怪物" として最も注目を集めた選手が、横浜高校の松坂大輔でしょう。1998年の夏の甲子園(第80回選手権)で優勝し、この年、春夏連覇。横浜高校の優勝は、愛甲猛のいた1980年以来、18年ぶりのことでした。PL学園との延長17回の死闘、明徳義塾戦の大逆転勝ちなどドラマがあり、決勝の京都成章戦ではなんと史上22人目のノーヒットノーランで、これ以上ない有終の美を飾りました。この大会からはのちに多くのプロ野球選手が誕生しており、「松坂世代」と呼ばれています。
その後の松坂の活躍は、説明するまでもないでしょう。その年のオフ、ドラフト1位指名で西武ライオンズに入団。プロ初登板の日本ハム戦は世間の注目を集める中、衝撃デビューを果たし、見事初登板初勝利を挙げました。片岡篤史が空振りする映像は、当時の松坂の凄まじさを示す証左として、今日もたびたび放送されています。同年は、最多勝利のタイトルと新人王を受賞しました。
西武では3度の最多勝利、2度の最優秀防御率、4度の最多奪三振を記録。WBCでは、2大会連続でMVPを受賞するなど、彼の記録は枚挙にいとまがありません。2007年以降はMLBでも活躍しました。
因みに、"大輔" の名は、松坂が生まれた1980年に甲子園で活躍していた早稲田実業の荒木大輔からとったものです。
その後の松坂の活躍は、説明するまでもないでしょう。その年のオフ、ドラフト1位指名で西武ライオンズに入団。プロ初登板の日本ハム戦は世間の注目を集める中、衝撃デビューを果たし、見事初登板初勝利を挙げました。片岡篤史が空振りする映像は、当時の松坂の凄まじさを示す証左として、今日もたびたび放送されています。同年は、最多勝利のタイトルと新人王を受賞しました。
西武では3度の最多勝利、2度の最優秀防御率、4度の最多奪三振を記録。WBCでは、2大会連続でMVPを受賞するなど、彼の記録は枚挙にいとまがありません。2007年以降はMLBでも活躍しました。
因みに、"大輔" の名は、松坂が生まれた1980年に甲子園で活躍していた早稲田実業の荒木大輔からとったものです。
松坂大輔デビュー
1999 松坂大輔 5 衝撃の155kmデビュー 全投球 プロ初登板
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桐生一・正田樹(1999年)
正田樹は、桐生第一高校のエースで、1999年夏の甲子園(第81回選手権)で優勝。群馬県勢として初めての優勝でした。当時の桐一は、3年連続で夏の甲子園に出場する群馬県最強校で、正田の一年上には小林正人、一年下には一場靖弘がいました。
その年のオフ、ドラフト1位指名で日本ハムファイターズに入団。1年目から一軍で起用され、3年目の2002年にはローテーションの一角を担い、23試合に先発登板を果たします。9勝11敗、防御率3.45でパ・リーグ新人王として表彰されました。しかし、その後はチームの躍進とは裏腹に結果を残せず、2007年に阪神に移籍。2008年に戦力外通告を受けます。
2009〜2010年には台湾のプロ野球チーム・興農ブルズで活躍。2009年には最多勝利と最多奪三振のタイトルを獲得します。2010年には、高津臣吾とチームメイトになりました。2012〜2013年に日本のプロ野球(ヤクルト)に復帰。その後は、独立リーグの愛媛マンダリンパイレーツで現役(現在は投手兼コーチ)を続けています。
その年のオフ、ドラフト1位指名で日本ハムファイターズに入団。1年目から一軍で起用され、3年目の2002年にはローテーションの一角を担い、23試合に先発登板を果たします。9勝11敗、防御率3.45でパ・リーグ新人王として表彰されました。しかし、その後はチームの躍進とは裏腹に結果を残せず、2007年に阪神に移籍。2008年に戦力外通告を受けます。
2009〜2010年には台湾のプロ野球チーム・興農ブルズで活躍。2009年には最多勝利と最多奪三振のタイトルを獲得します。2010年には、高津臣吾とチームメイトになりました。2012〜2013年に日本のプロ野球(ヤクルト)に復帰。その後は、独立リーグの愛媛マンダリンパイレーツで現役(現在は投手兼コーチ)を続けています。
正田樹
20120623 正田 樹 vs 小笠原 道大
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正田樹
1999年夏の甲子園優勝投手が登場!
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