メジャーに最も近かった男『秋山幸二』
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秋山幸二の主な獲得タイトル
本塁打王:1回(1987)
盗塁王:1回(1990)
ベストナイン:8回(1986~1993)
ゴールデングラブ賞:11回(1987~1996・1999)
日本シリーズMVP:2回(1991・1999)
オールスターゲーム出場:18回(1985~2002)
※連続としては最長記録
オールスターゲームMVP:1回(1994)
盗塁王:1回(1990)
ベストナイン:8回(1986~1993)
ゴールデングラブ賞:11回(1987~1996・1999)
日本シリーズMVP:2回(1991・1999)
オールスターゲーム出場:18回(1985~2002)
※連続としては最長記録
オールスターゲームMVP:1回(1994)
抜群の運動神経と身体能力
秋山はともに陸上選手であった両親から授かった恵まれた体格と身体能力を持っていた。
入団当時に監督であった根本陸夫は、183cm、80kgの体躯の秋山を一目見ると、「野球をやっていなかったら、オリンピックの十種競技の選手になれた」と惚れ込んでいる。
入団当時に監督であった根本陸夫は、183cm、80kgの体躯の秋山を一目見ると、「野球をやっていなかったら、オリンピックの十種競技の選手になれた」と惚れ込んでいる。
当時西武のコーチだった伊原春樹も著書の中で「運動神経が抜群で脚力50メートル5秒台、遠投120メートル、鉄棒やマット運動をやらせても、体操選手だったのかと思うほど、簡単にこなします。ご存知のように、バック宙もお手のもの。あの体の大きさで、これだけの身体能力を持った選手は、後にも先にも見たことありません」と記している。
その運動神経と身体能力はテレビ番組『筋肉番付』でも発揮された。
『最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦』に出演し、THE GALLON THROW(樽投げ)では当時のスポーツマン記録である5m70cmを大きく上回る6m20cmを記録。筋肉番付の番組プロデューサーである樋口潮は著書で秋山を超人と評している。
その運動神経と身体能力はテレビ番組『筋肉番付』でも発揮された。
『最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦』に出演し、THE GALLON THROW(樽投げ)では当時のスポーツマン記録である5m70cmを大きく上回る6m20cmを記録。筋肉番付の番組プロデューサーである樋口潮は著書で秋山を超人と評している。
秋山が「メジャーに一番近い男」と呼ばれていた理由
1982年から1983年にかけて、3度野球留学でアメリカ合衆国に渡り、1Aチームのサンノゼ・ビーズ/1983年5月28日 - 8月28日)とアリゾナ・アストロズ(1982年9月中旬 - 10月、1983年9月14日 - 11月1日)でプレーして高く評価される。
このような経緯や日米野球で対戦したメジャーリーガーや関係者に高く評価されたことから、「メジャーに一番近い男」と呼ばれていた。
共にクリーンアップを担っていたチームメイトの清原和博は「自分は日本専門の選手だけど、秋山さんならメジャーでも通用する」と語り、オレステス・デストラーデも「秋山ならすべてのメジャー球団で主力選手として活躍できる」と語っている。
近鉄のラルフ・ブライアントも「日本で一番すごいと思った打者は秋山」だと語っている。
長嶋茂雄は秋山を「本当のホームランバッター」と評している。
元西武球団代表で野球評論家の坂井保之氏は「根本さんがもう1年許してくれたら、間違いなく秋山はメジャーリーガーになっていた」。
西武の主砲だった秋山に当時の球団管理部長だった故・根本陸夫氏が出した帰国指令を悔しがった。
西武入団早々、秋山監督は米独立リーグのサリナスに留学。1年目終了後、その活躍ぶりに米関係者が「あと1年残してくれたら必ずメジャーに送る」と説得したという。だが「西武の将来を託す男だ」という根本氏の猛反対で帰国した。
落合博満は現役引退後のインタビューで、天性のホームランバッターに田淵幸一選手と秋山幸二選手の2人を挙げ、その理由としては、体格に恵まれボールをとらえて遠くに飛ばすセンスが備わり、実に美しい「アーチを描く」。生まれついてのアーチストであると語っている。
プロ入りまでの秋山幸二
小学3年生時に母の勧めで地元に設立されたばかりの少年野球チームに入る。
小学生時代からバック転をするなどスポーツ万能であったが野球は得意でなかった部類という。中学時代はサードやセンターを守っていた。
熊本県立八代高等学校に進学後ほどなくして野球部に入部し、監督の「お前は背が高いからピッチャーだ」の一言で投手にコンバートされる。
3年生時の1980年春の九州大会で準優勝。最後の夏の甲子園熊本県予選では、決勝で大津一洋と伊東勤がバッテリーを務めていた熊本工高に4-6で敗れた。
当時から12球団のスカウトに注目されていたものの、大学への進学意思が強くドラフトでは指名されなかった。
しかし、ドラフト終了後にプロ入りを表明し、巨人、阪急、広島との争奪戦の上、西武の執拗な説得と「君を打者として育てたい」という言葉が決め手になって1981年1月にドラフト外で西武ライオンズに入団した。
秋山は熊本工業の大津一洋、柳川の中島輝士、都城の井上祐二と共に九州四天王と呼ばれていたが、自分の実力がプロで通用するとは思わなかったという。
西武ライオンズ黄金期の主軸として活躍
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入団後は強肩と俊足を生かすために、投手から内野手へ転向した。1年目にも1軍経験を果たすなど期待を背負った秋山は82年、13本塁打でイースタン・リーグの本塁打王を獲得した。84年には1軍に再昇格。85年からは不動のレギュラーとして定着し、40本塁打、93打点、打率2割5分2厘をマークした。86年に41本塁打、115打点。87年からは外野手に転向し、3年連続40本以上となる43本塁打で初めて本塁打王を獲得し、38盗塁の記録を残した。
球界を代表するスラッガーへ成長した秋山は、前人未到の記録を残した。90年、35本塁打、51盗塁を記録して盗塁王のタイトルを獲得した。これで87年の本塁打王とあわせ、史上初の本塁打王と盗塁王に輝いた選手となった。さらに1シーズンで「30本50盗塁」をマークした初めての選手にもなった。
93年まで9年連続30本塁打以上を記録した。連続30本以上の本塁打記録は、王貞治(現ソフトバンク監督)の19年連続につづく歴代2番目の記録として球史に刻まれた。さらに外野転向した87年から10年連続でゴールデングラブ賞を受賞。走攻守の三拍子を兼ね備えたオールラウンドプレイヤーとして西武の黄金時代を支えてきた。
1993年に西武からダイエーへ移籍
via www.asahicom.jp
93年、渡辺智男投手、内山智之投手とともに、3対3の大型トレードで福岡ダイエーホークスに移籍した(ダイエーからは佐々木誠外野手、村田勝喜投手、橋本武広投手が移籍)。主力同士が移籍する驚がくのトレードだったが、熊本出身の秋山にとって「里帰り」となった。
94年以降は万年Bクラスのチームを鼓舞し続けるが低迷期は続いた。96年には2度目の打率3割の記録を残したが、チームは最下位に沈んだ。それでも95年から迎えた王監督の下、チームの意識改革は続き、99年に福岡ダイエーホークスとして初のリーグ制覇(南海時代から数え26年ぶりの優勝)、そして初の日本一に貢献した。
日本シリーズでは初戦(10月23日)、1番右翼で出場した6回の第3打席、先制ソロを放ってチームを流れに乗せた。第4戦でも決勝打を放つなど、ベテランらしい勝負強さを発揮し、91年の西武時代以来、8年ぶり2度目のシリーズMVPに輝いた。
37歳は史上最高齢で、2球団で獲得するのも史上初の快挙だった。
右投げ右打ち。走攻守の三拍子を兼ね備えたオールラウンドプレイヤー。西武ライオンズで主軸として黄金時代を築いた後に福岡ダイエーホークスへ移籍し日本一へ導く。2球団・2リーグでMVPを獲得した唯一の選手。
選手時代は「ミスターメイ」と呼ばれていた。秋山は月間MVPを3回獲得しているが、うち2度は5月である。