過去にはたくさんいた!格闘技出身タレント
80,90年代、世は空前のプロレス・ボクシングブーム!それに伴い、テレビ界には引退したもしくは現役でも、多くの格闘技出身タレントが濫立していました。そんな過去にはたくさんいた!格闘技出身タレントをプレイバックしていきましょう。
ビューティーペア
ジャッキー佐藤とマキ上田の女子プロレスラーコンビ。実力、人気ともにプロレス界を飛び越えて社会現象になるほどで、格闘技出身タレントの先駆けとも言えます。
ジャッキー佐藤(じゃっきーさとう、1957年10月30日 - 1999年8月9日)とマキ上田(まきうえだ、1959年3月8日 - )により、1976年2月24日に結成され、その日に行われたWWWA世界タッグ王座戦で、赤城マリ子・マッハ文朱ペアに勝利し、タイトルを獲得する。ブラック・ペア(池下ユミ、阿蘇しのぶ)との好勝負は人気を不動のものとした。
またRVCより「かけめぐる青春」でレコードデビューし、試合前のリング上で歌う斬新なスタイルで、女子プロレス界のアイドル的存在となる。このレコードは80万枚を売り上げたという。また、当時人気絶頂だった女性アイドルデュオのピンク・レディーと、音楽番組などで度々共演することもあった。
ビューティペア(マキ上田,ジャッキー佐藤) - YouTube
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マッハ文珠
via aftermath.jp
現役時代は、上記のビューティーペアのライバルとして君臨していましたが、引退後は、映画やドラマ、更にはクイズ番組とマルチタレントとして活躍。
歌手志望で、1972年、13歳の時、『スター誕生!』に出場し、決戦大会(本戦合格者が出場する、芸能事務所・レコード会社参加の最終審査)まで進出したが、スカウトのプラカードは挙がらなかった。同決戦大会に山口百恵が出場していたことから後に「山口百恵に敗れた」という形容で呼ばれるようになった(なおスター誕生は「勝ち抜き戦」ではなく審査は個別に行われるもので、直接対決に敗れたのではなく20社のスカウトが集中した山口との対比を指した比喩である)。
おじがゴルフをやっていて、ゴルファーになることが決まっていたが、姉が「女子プロレスラー募集」という週刊誌の小さい募集記事を見つけてきた。1974年、15歳の時、姉に勧められ、一転して全日本女子プロレスに入門(結果的に芸能界に縁のあった者や志望者がプロレスに入門するというケースのはしりとなり、ミミ萩原、アストレスなどがそれに続いた)。2011年10月1日付の『朝日新聞』の特集「うたの旅人」におけるインタビューで文朱はプロレス転身について、『スター誕生!』決戦大会後に番組プロデューサーから「いまはかわいい一辺倒のアイドル全盛だから、君は大人っぽくて中途半端だ」と言われたことから、体格と運動神経を生かしてスポーツの路に進むしかないと見極めがついた、と語っている。リングネーム「マッハ文朱」は、巴ゆき子の命名によるものであった。
マッハ文朱/宇宙怪獣ガメラより @MV - YouTube
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クラッシュギャルズ(ライオネス飛鳥・長与千種)
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現役時代は、ポストビューティペアと、コンビでアイドル的な人気に。また引退後も、別々にタレントして活躍した。
活動時期は全日本女子プロレスを中心に活躍した初期と、クラッシュ2000としてGAEA JAPANを中心に活躍した後期に二分される。
前期、後期ともに長与千種とライオネス飛鳥によるタッグチームである。初期活動期は、アイドルレスラーとして『炎の聖書』などのレコードをリリースするなど当時の女子プロレスにおいて絶大な人気を誇った。ダンプ松本、クレーン・ユウ(ユウ引退後はブル中野)、阿部四郎らの「極悪同盟」と激しい抗争を繰り広げた。
1984・AJW 全女】 クラッシュギャルズ「炎の聖書」長与千種&ライオネス飛鳥 Chigusa Nagayo and Lioness Asuka Sing Song - YouTube
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たこ八郎
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現役時代は「河童の清作」と言われた日本タイトルも獲得したプロボクサー。引退後、コメディアンを経て、晩年は「新網走番外地」など数々の代表作を持つ個性派すぎる俳優に。