「プロレスでは柔道技はまず通用しないと思ったね
だって(柔道着を着ていないので)持つとこないから
腰投げとかはやってたけど
2か月ぐらいずーっとプロレスの動きを教わった
フットワークからして
柔道はすり足だけど
プロレスはタタタタッと細かく足をうごかさないといけない
そういうところからたたき込まれたよね
ゴッチさんのところに行って1か月たたないうちにデビューしたけど
大した相手じゃなかったし
田舎の会場でお客も1000人ぐらいしかいなくてあまり緊張しなかったな
ロサンゼルス近辺は日系人の人も数多く住んでいて俺も結構友だちになってね
だんだんそういう人たちも結構応援にきてくれるようになりましたよ」
坂口は「ビッグ・サカ」のリングネームで各地を転戦した
試合経験を積んで実力をつけた坂口は世界王者に挑戦するまでになり
カール・ゴッチとも対戦したこともある
試合経験を積んで実力をつけた坂口は世界王者に挑戦するまでになり
カール・ゴッチとも対戦したこともある
「前座から始めてだんだん上がっていってメインイベントに出られるようになった
ある程度トップクラスになって向こうでも稼げるようになった
普通だったらファイトマネーは1試合100~200ドルだけど、
メインイベントに出場すると、客の数次第で5000ドルとかもらえた
アメリカにいる日本人は結構、俺のこと知っていて話しかけてくれる
俺もうれしいから話しているうちに、
じゃあ今度遊びおいでよとか
ご飯食べに行こうとか
マージャンしようとか
ラスベガスに行こうとかなるわけ
だからホームシックになったり退屈したりすることはまったくなかったね」
「海外では自分のやるべきことに集中できるんです
ジムに行って練習して夜は試合して
日本にいるときみたいに先輩後輩の付き合いとか余計なことに煩わされなくて自分の時間を持てるから成長する。
みんなそうですよ
俺より後から行った若い連中も同じ
俺は何人も選手をアメリカに送ったけどみんな変わります
考えも変わるし自分で何でもやらなくちゃいけないから自立心も自主性も出てくる
そして帰ってくるころにはこっちがエッて思うくらい変わっている」
帰国、日本プロレスのマットに
帰国後、
坂口は日本プロレスでジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなった
坂口は日本プロレスでジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなった
「アメリカ生活が楽しくなっていて本当は帰りたくなかったんだけどね!」
via ameblo.jp
「そのころは日本プロレスには
馬場さん、猪木さん、大木(金太郎)さんとそうそうたる人たちがいて、
団体も日本プロレスと国際プロレスの2つしかなかったから
黙っていてもお客さんが入った
テレビも視聴率が20%を超えていて
俺なんか「大事なときだけ帰ってこい」と言われるくらいでね
だけど1回目にアメリカから帰ってきたときは俺が出場することが話題になってあちこち超満員になったらしいよ」
via kanae.2ch.net
しかしそれから約1年の間に
アントニオ猪木とジャイアント馬場が日本プロレスを相次いで去り
坂口はエースの重責を背負うことになった
アントニオ猪木とジャイアント馬場が日本プロレスを相次いで去り
坂口はエースの重責を背負うことになった
「帰ってからしばらくは日本プロレスも安定していたんだよな
その年に猪木さんと組んでNWAタッグ・リーグ戦で優勝して
その何日かあとに猪木さんが倍賞美津子さんと結婚式を挙げたんだ
それからしばらくして会社内がガタガタしてきて
結局、猪木さんが出て行った
それからは馬場さんとタッグを組んでやっていたけど
今度は日本プロレスと日本テレビがもめ始めて
馬場さんが「俺は日本テレビに義理があるから」と言ってやめてしまったんだ
猪木さんがやめてから猪木さんが持っていたベルト3本を俺が全部持たされて
十両とは言わないまでも幕内くらいでのんびりやっていたら急に三役になれと言われたようなものでね
無理があった
馬場さんからは
やめるしばらく前の巡業かなにかで2人きりのときに「俺はやめて新団体を作るけど、坂口お前は残ってやれ」と言われたんですよ
そのあと何回か会って、俺も馬場さんについていきたい気持ちはあったけど「日本プロレスを守れ」って言われたもので
それで日本プロレスに残って何か月かがんばったものの
やっぱり会社自体がガタガタになっていってね」
日本プロレスは
日本テレビとNET(テレビ朝日)が放送を行っていたが
日本テレビはそれを打ち切り
馬場が立ち上げた全日本プロレスの放送を開始
日本プロレスは観客数やテレビ視聴率が低迷した
日本テレビとNET(テレビ朝日)が放送を行っていたが
日本テレビはそれを打ち切り
馬場が立ち上げた全日本プロレスの放送を開始
日本プロレスは観客数やテレビ視聴率が低迷した
「そのうちにNETの人から俺のところに「このままではテレビ放映は打ち切りになる
お前、猪木と一緒にならないか、面倒は見るから」という話があって
それで俺は猪木さんと会ったんだ
猪木さんも新日本を立ち上げたけどうまくいっていない時期だった
馬場さんは日本テレビがついていたから順調だったね
このままだと会社がつぶれてしまうということはわかっていたから
俺は日本プロレスと新日本が一緒になればいいと思って旗を振ることにしたんだ」
新日本プロレスと日本プロレスの合併話は
1度は合意に向かって進んだが
大木金太郎の猛反対により頓挫し
坂口は日本プロレスをやめて新日本に移籍
結局、日本プロレスの興行は停止した
1度は合意に向かって進んだが
大木金太郎の猛反対により頓挫し
坂口は日本プロレスをやめて新日本に移籍
結局、日本プロレスの興行は停止した