吉田沙保里 2023年初練習
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父親は、現役時代、鉄壁のディフェンスとカウンター攻撃で
「返しの吉田」
と呼ばれていたが、モントリオールオリンピックの代表選考会では、それが通じずに敗れた。
その経験から指導者となるとタックルを中心とした積極的で攻撃的なレスリングを教え、たとえ試合に勝っても、闘志や攻撃性が欠けていれば、雷を落とすこともあった。
吉田沙保里も最初に教わったのは、タックルで、
「タックルがレスリングの基本」
「勝つためにはタックル」
「タックルを制する者が世界を制す」
と攻撃の重要性を説かれながら、来る日も来る日もタックル。
また常に
「とにかく攻めろ!」
「こわがるな!」
「下がるな!」
といわれ、たとえ勝っても攻めが足りないと怒られた。
「返しの吉田」
と呼ばれていたが、モントリオールオリンピックの代表選考会では、それが通じずに敗れた。
その経験から指導者となるとタックルを中心とした積極的で攻撃的なレスリングを教え、たとえ試合に勝っても、闘志や攻撃性が欠けていれば、雷を落とすこともあった。
吉田沙保里も最初に教わったのは、タックルで、
「タックルがレスリングの基本」
「勝つためにはタックル」
「タックルを制する者が世界を制す」
と攻撃の重要性を説かれながら、来る日も来る日もタックル。
また常に
「とにかく攻めろ!」
「こわがるな!」
「下がるな!」
といわれ、たとえ勝っても攻めが足りないと怒られた。
吉田沙保里 vs ストリートファイター6キャラ達まとめ
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「タックルに必要なのは勇気。
思い切りぶつかって、相手にかわされるかもしれない、潰されるかもしれない、倒されてしまったら下手するとケガしてしまうかもしれない。
はじめの頃は恐怖心との戦いです。
恐さを押し殺して全力で向かっていく。
それができるようになるまでが大変でした」
という吉田沙保里は、最終的に低い姿勢から無意識に飛び込む、ノーモーションの超高速タックルという必殺技と共に、
「練習はウソをつかない」
という信念を手に入れた。
そして三重県生まれでテニス選手だった母親と三重県職員になった父親が、三重県で開催された国民体育大会に出場し、出会ったという話を聞くと、
「もしかするとディフェンスの吉田がアタックの吉田に転じ、猛烈タックルをかましたのか?」
と思った。
思い切りぶつかって、相手にかわされるかもしれない、潰されるかもしれない、倒されてしまったら下手するとケガしてしまうかもしれない。
はじめの頃は恐怖心との戦いです。
恐さを押し殺して全力で向かっていく。
それができるようになるまでが大変でした」
という吉田沙保里は、最終的に低い姿勢から無意識に飛び込む、ノーモーションの超高速タックルという必殺技と共に、
「練習はウソをつかない」
という信念を手に入れた。
そして三重県生まれでテニス選手だった母親と三重県職員になった父親が、三重県で開催された国民体育大会に出場し、出会ったという話を聞くと、
「もしかするとディフェンスの吉田がアタックの吉田に転じ、猛烈タックルをかましたのか?」
と思った。

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吉田沙保里が6歳のとき、ソウルオリンピックの130kg級でロシア代表のアレクサンドル・カレリンが金メダルを獲得。
以後、1992年バルセロナ、1996年アトランタと3大会連続で金メダルを獲得。
1987年~2000年まで国際大会で13年間無敗で世界選手権9連覇。
その圧倒的な強さから、
「霊長類最強の男」
といわれた。
新聞や雑誌でアレクサンドル・カレリンの記事をみていた吉田沙保里は、その中で、
「前人未到」
という言葉が気に入った。
「前人未到。
誰も到達したこと者がいない領域。
誰もやったことがないことに挑戦するのは、ものすごい快感で、とっても興奮します」
そして大人になると、
「おんなカレリン」
「霊長類最強の女」
と呼ばれるようになった。
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小学生の全国大会で優勝したものの、まだ女子レスリングがオリンピック種目ではなかった(大学4年生のとき、2004年アテネ大会から採用)ので、卒業文集の
『20年後のわたし』
という欄には、
「レジ打ちのオバちゃん」
と書いた。
中学校にはレスリング部はなく、父親の勧めで陸上部に入部。
その理由は、
・レスリングに必要な基礎体力がつく
・ケガが少ない
・レスリングの試合と重なって休んでも、団体競技と違うから迷惑がかからない
だった。
吉田沙保里は、陸上部で主に短距離やハードルをやった後、中学校から徒歩で5分くらいの自宅に帰ってレスリング。
ひたすら練習に明け暮れた結果、中学1年生で、
・JOC杯ジュニアオリンピック40kg級
・全国中学生選手権 44kg級
・全日本女子オープントーナメントジュニアC級
と3つの全国大会で優勝した。
『20年後のわたし』
という欄には、
「レジ打ちのオバちゃん」
と書いた。
中学校にはレスリング部はなく、父親の勧めで陸上部に入部。
その理由は、
・レスリングに必要な基礎体力がつく
・ケガが少ない
・レスリングの試合と重なって休んでも、団体競技と違うから迷惑がかからない
だった。
吉田沙保里は、陸上部で主に短距離やハードルをやった後、中学校から徒歩で5分くらいの自宅に帰ってレスリング。
ひたすら練習に明け暮れた結果、中学1年生で、
・JOC杯ジュニアオリンピック40kg級
・全国中学生選手権 44kg級
・全日本女子オープントーナメントジュニアC級
と3つの全国大会で優勝した。
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そして初めて国際大会に出場し、
「身に着けているものに全て日の丸マークが入っていて、改めて日本の代表だということを感じました」
という吉田沙保里は、外国人選手を見たのも初めてで
「まるでテレビの世界のようでドキドキして・・・
とにかく見た目が強そうに映って、戦うのが怖いなと思いました」
と緊張した。
しかし実際に戦ってみると足が長くて腰高なため、タックルが入りやすかった。
また外国人は、
「コイツ、なんでこんなにかわいいんだ?」
と思う選手が多かった。
吉田沙保里は、かわいい外国人選手と戦うとき、いつも以上に燃え、26歳まで外国人に負けることはなかった。
「ものすごく集中力が高まって、自分でも驚くほど力が出て、ブン投げてやるぞって感じです」
「身に着けているものに全て日の丸マークが入っていて、改めて日本の代表だということを感じました」
という吉田沙保里は、外国人選手を見たのも初めてで
「まるでテレビの世界のようでドキドキして・・・
とにかく見た目が強そうに映って、戦うのが怖いなと思いました」
と緊張した。
しかし実際に戦ってみると足が長くて腰高なため、タックルが入りやすかった。
また外国人は、
「コイツ、なんでこんなにかわいいんだ?」
と思う選手が多かった。
吉田沙保里は、かわいい外国人選手と戦うとき、いつも以上に燃え、26歳まで外国人に負けることはなかった。
「ものすごく集中力が高まって、自分でも驚くほど力が出て、ブン投げてやるぞって感じです」
#185レスリング部 山本聖子
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そして中学2年生でも、ショーブ女子国際大会 カデット48kg級で優勝。
しかし続くJOC杯ジュニアオリンピック 52kg級は、2位。
決勝戦で負けた相手は、山本聖子(現:ダルビッシュ聖子)だった。
山本聖子は、吉田沙保里より2歳上。
その父親、山本郁榮は、ミュンヘンオリンピック7位。
姉、山本美憂は、13歳で第1回全日本女子選手権優勝し、17歳のときに最年少で世界選手権優勝。
そして兄は、後にカリスマ総合格闘家となる山本KID徳郁。
そんなレスリング一家に生まれた山本聖子は、5歳でレスリングを始め、13歳で全日本女子選手権の44kg級で3位になり、日本女子レスリング界の未来を担う逸材として期待されていた。
しかし続くJOC杯ジュニアオリンピック 52kg級は、2位。
決勝戦で負けた相手は、山本聖子(現:ダルビッシュ聖子)だった。
山本聖子は、吉田沙保里より2歳上。
その父親、山本郁榮は、ミュンヘンオリンピック7位。
姉、山本美憂は、13歳で第1回全日本女子選手権優勝し、17歳のときに最年少で世界選手権優勝。
そして兄は、後にカリスマ総合格闘家となる山本KID徳郁。
そんなレスリング一家に生まれた山本聖子は、5歳でレスリングを始め、13歳で全日本女子選手権の44kg級で3位になり、日本女子レスリング界の未来を担う逸材として期待されていた。

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その後、中学2年生の吉田沙保里は
・全国中学生選手権 48kg級
・全日本女子オープントーナメントジュニア48kg級
と全国大会を連続で優勝。
この年、アトランタオリンピックがあり、テレビで女子柔道の田村亮子が、小さな体で大きな外国人を勢いよく投げ飛ばすのをみて、
「かっこいい!」
と感動し、
「オリンピックに出て金メダルが欲しい」
と思った。
・全国中学生選手権 48kg級
・全日本女子オープントーナメントジュニア48kg級
と全国大会を連続で優勝。
この年、アトランタオリンピックがあり、テレビで女子柔道の田村亮子が、小さな体で大きな外国人を勢いよく投げ飛ばすのをみて、
「かっこいい!」
と感動し、
「オリンピックに出て金メダルが欲しい」
と思った。
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中学3年生になると、
・ショーブ女子国際大会 カデット49kg級優勝
・JOC杯ジュニアオリンピック カデット50kg級 2位
・全国中学女子選手権 52kg級優勝
・全日本女子オープントーナメント カデット52kg級優勝
全国大会の1ヵ月前、吉田沙保里は左手首を脱臼骨折。
すぐに手術をして、折れた部分を3本のボルトで固定し、2㎝ほど出ているボルトをギブスで覆った。
全国大会に優勝すれば、フランスで行われる大会に日本代表として参加できたが、吉田沙保里は
「さすがにこれでは戦えないな」
と思っていた。
しかし父親に、
「片手でも戦える」
といわれ、唖然とした。
父親は、医師に長く出たボルトをテーピングできる長さまで切ってもらえと指示し、母親は
「そんな無茶な」
と母と反対したが
「行って来い!」
といわれて病院へ。
医師は、
「そんな無茶なことできません。
何が起こるかわかりませんよ?
使えなくなるかもしれません」
といったが、
「切ってもらわないと家に帰れないんで」
と懇願し、ギブスを外してもらい、ボルトを短く切ってもらった。
「きっと私が骨折=試合欠場と決めつけていたのが許せないんだと。
鬼かと思った。
どうかしてるなと思った。
お父さんでしたけど本当に大っ嫌いでした」
という吉田沙保里は、テーピングを厚く巻いて試合に出場し、ほぼ右腕1本だけで優勝。
翌年(1998年)フランスで行われた世界カデット選手権の 52kg級でも優勝した。
(1999年の世界カデット選手権では56kg級で出場し、2連覇)
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高校は、父親が
「家から近くて、レスリング部がある」
という理由で選んだ、自宅から約10㎞の三重県立久居高校に進学。
放課後、高校のレスリング部で練習をして、帰宅後に自宅の道場で、再び練習という日々を送った。
高校進学直後のゴールデンウイーク、初めて全日本代表の合宿に参加。
場所は、新潟県十日町市塩ノ又。
車が高速道路を下り、緑に囲まれた道を抜けて、曲がりくねった山道を登っていくとき
「なんだか林間学校みたい」
とルンルン気分だったが、いつまでたっても車は停まらず、店はおろか、家もまばらになって、見えるのは山と田んぼと畑だけになり、
「なんて田舎なんだ」
と思っていると山の頂上に近い場所でようやく停車。
「ここだよ」
といわれた建物が
「桜花レスリング道場」
だった。
それは日本レスリング協会会長、福田富昭が廃校となった十日町市立六箇小学校塩之又分校を改築したもので、
「女子レスリング・虎の穴」
と呼ばれていたが、吉田沙保里の第1印象は、
「野原の中の一軒家」
だった。
玄関を入ると、すぐにマットが敷かれた道場で、その奥が台所と食堂。
さらにその奥が男子コーチの寝室で、選手は2階で雑魚寝。
他にトイレ、風呂、トレーニングルーム、外にはグラウンドがあった。
近くに店などなく、1番近いコンビニまで車で30分かかり、携帯電話の電波もなかった。
近くに「塩ノ又温泉 湯元荘」という温泉旅館があり、さらに山を登れば上越国際スキー場があったが、冬場は道場が閉鎖されるため、スキーを楽しむことはなかった。
「家から近くて、レスリング部がある」
という理由で選んだ、自宅から約10㎞の三重県立久居高校に進学。
放課後、高校のレスリング部で練習をして、帰宅後に自宅の道場で、再び練習という日々を送った。
高校進学直後のゴールデンウイーク、初めて全日本代表の合宿に参加。
場所は、新潟県十日町市塩ノ又。
車が高速道路を下り、緑に囲まれた道を抜けて、曲がりくねった山道を登っていくとき
「なんだか林間学校みたい」
とルンルン気分だったが、いつまでたっても車は停まらず、店はおろか、家もまばらになって、見えるのは山と田んぼと畑だけになり、
「なんて田舎なんだ」
と思っていると山の頂上に近い場所でようやく停車。
「ここだよ」
といわれた建物が
「桜花レスリング道場」
だった。
それは日本レスリング協会会長、福田富昭が廃校となった十日町市立六箇小学校塩之又分校を改築したもので、
「女子レスリング・虎の穴」
と呼ばれていたが、吉田沙保里の第1印象は、
「野原の中の一軒家」
だった。
玄関を入ると、すぐにマットが敷かれた道場で、その奥が台所と食堂。
さらにその奥が男子コーチの寝室で、選手は2階で雑魚寝。
他にトイレ、風呂、トレーニングルーム、外にはグラウンドがあった。
近くに店などなく、1番近いコンビニまで車で30分かかり、携帯電話の電波もなかった。
近くに「塩ノ又温泉 湯元荘」という温泉旅館があり、さらに山を登れば上越国際スキー場があったが、冬場は道場が閉鎖されるため、スキーを楽しむことはなかった。
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高校1年生は自分1人だけだった吉田沙保里は、6時半に起床し、7時半から9時ごろまで1時間半、走り込み。
「とにかく走らされました」
「短距離はいいんですけど、長距離は全然ダメ」
という吉田沙保里は、毎朝3km、5kmと走らされた。
しかもそれは平らな道ではなくアップ・ダウンの連続で、合宿最終日は、9㎞になり、まったくついていけず、いつもビリだった吉田沙保里は、みんなより15分ぐらい前にスタートしたが、すぐに追い抜かれた。
長距離走の後は、合宿所前の急坂をダッシュ。
さらに手押しグルマや、パートナーをおんぶしたり、抱っこして駆け上がった。
初参加の吉田沙保里は、練習の流れや本数、いつ終わるかわからないという状況の中、必死にこなし、最期の坂道ダッシュは、意識が薄れ、フラフラになりながらフィニッシュ。
「とにかく走らされました」
「短距離はいいんですけど、長距離は全然ダメ」
という吉田沙保里は、毎朝3km、5kmと走らされた。
しかもそれは平らな道ではなくアップ・ダウンの連続で、合宿最終日は、9㎞になり、まったくついていけず、いつもビリだった吉田沙保里は、みんなより15分ぐらい前にスタートしたが、すぐに追い抜かれた。
長距離走の後は、合宿所前の急坂をダッシュ。
さらに手押しグルマや、パートナーをおんぶしたり、抱っこして駆け上がった。
初参加の吉田沙保里は、練習の流れや本数、いつ終わるかわからないという状況の中、必死にこなし、最期の坂道ダッシュは、意識が薄れ、フラフラになりながらフィニッシュ。