1998年のフランスワールドカップに、前大会王者として臨んだブラジル代表。
そのチームでレギュラーとして、7試合全てに出場した。しかし、決勝ではジダン擁する地元フランスの前に力なく0-3の完封負けを喫した。
また、グループリーグのモロッコ戦ではレオナルドのシュートがネットを揺らしたが、オフサイドの判定によりゴールは認められなかった。
レオナルドは、2002年の日韓ワールドカップ予選を最後にブラジル代表を退いた。
代表通算60試合出場で8得点という記録を残した。
そのチームでレギュラーとして、7試合全てに出場した。しかし、決勝ではジダン擁する地元フランスの前に力なく0-3の完封負けを喫した。
また、グループリーグのモロッコ戦ではレオナルドのシュートがネットを揺らしたが、オフサイドの判定によりゴールは認められなかった。
レオナルドは、2002年の日韓ワールドカップ予選を最後にブラジル代表を退いた。
代表通算60試合出場で8得点という記録を残した。
日本vsブラジル ’95アンブロカップ② リバプール
1:24:42~ レオナルドがジュニーニョ・パウリスタに代わって途中出場。日本人にとって身近な選手であるため、ピッチに入るなり観客の日本人から大歓声で迎えられた。
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日本vsブラジル 1997.8.13 F・コンセイソンの芸術
レオナルドは10番を背負ってプレイ。
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”超”親日家のレオナルド
1996年、パリ・サンジェルマンFCから移籍のオファーが来た際、ジーコに鹿島アントラーズを離れ難い心境を伝えたところ、ジーコはレオナルドの将来を考え移籍を勧めたという。
しかし、ヨーロッパ移籍以降も日本への愛は変わらず、2005年頃には右腕に日本語で「全てに感動を」というタトゥーを入れ、「これで本当に日本とつながっている気がする」と語っている。
また、2011年東北地方太平洋沖地震時には、当時セリエAで監督を務めていたレオナルドが、下記のような激励のメッセージを、遠いイタリアの地から日本に向けて送っている。
しかし、ヨーロッパ移籍以降も日本への愛は変わらず、2005年頃には右腕に日本語で「全てに感動を」というタトゥーを入れ、「これで本当に日本とつながっている気がする」と語っている。
また、2011年東北地方太平洋沖地震時には、当時セリエAで監督を務めていたレオナルドが、下記のような激励のメッセージを、遠いイタリアの地から日本に向けて送っている。
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「被害に見舞われた日本のみなさんとの団結や結束を表現するために、我々は喪章をつけてブレシア戦に臨むことを決意し、ブレシア側も我々の意向を快く受け入れてくれた。それは、とてもささやかな行為だし、問題の解決には結びつかないかもしれない。でも、我々はそうすべきであると判断したんだ」
「我々はよく、サッカーが世界で最も重要なものであるかのような話をするけれど、今回のような悲劇、日本を襲った悲劇は、我々に現実の世界を、何が重要かを思い知らせる。もしかすると、私は今日の試合で采配を誤ったかもしれない。だが、日本で起こったことを考えると、すべてがささいなことに思えてしまう……」
「残念ながら、今の気持ちをうまく説明するための言葉が思い浮かんでこないが、私にとってとても身近で、とても大切な日本を襲った悲劇が一日も早く終息することを心より願っている」
Jリーグ黎明期、後に常勝軍団となる鹿島アントラーズで華麗なプレイを披露したレオナルド。
2016年末に行われた「FIFAクラブワールドカップ」に、開催国枠で鹿島アントラーズが出場。なんと決勝まで勝ち上がり、スペインの超名門レアルマドリードと対戦した。
鹿島アントラーズは一時リードを奪うなど世界の強豪を相手に善戦。
その際、レオナルドは自身のツイッターで「みんなはすでに歴史を書き換えました!その偉業の一部に自分が関われたことに誇りを感じます。おめでとう(ポルトガル語)」と健闘を称えていた。
また、鹿島アントラーズも公式アカウントで「オブリガード、レオ!私たちは進みます。チャレンジは続く!」と感謝を伝えていた。
2016年末に行われた「FIFAクラブワールドカップ」に、開催国枠で鹿島アントラーズが出場。なんと決勝まで勝ち上がり、スペインの超名門レアルマドリードと対戦した。
鹿島アントラーズは一時リードを奪うなど世界の強豪を相手に善戦。
その際、レオナルドは自身のツイッターで「みんなはすでに歴史を書き換えました!その偉業の一部に自分が関われたことに誇りを感じます。おめでとう(ポルトガル語)」と健闘を称えていた。
また、鹿島アントラーズも公式アカウントで「オブリガード、レオ!私たちは進みます。チャレンジは続く!」と感謝を伝えていた。
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