吉田秀彦 相手がどんなに大きくても、またどんな格闘技でも逃げることなく真っ向勝負する柔道家
2017年3月10日 更新

吉田秀彦 相手がどんなに大きくても、またどんな格闘技でも逃げることなく真っ向勝負する柔道家

柔道では全日本体重別、世界選手権、オリンピックを制覇。全日本無差別でも2位。総合格闘技ではホイス・グレイシー、ドン・フライ、佐竹雅昭、ヴァンダレイ・シウバ、ミルコ・クロコップ、マーク・ハント、石井慧、菊田早苗、ジョシュ・バーネット、田村潔司、中村和裕らと対戦。そして43歳で柔道の現役に復帰!!!

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吉田秀彦の内股

吉田秀彦 内股の教則動画

なんちゃってチキンライス

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吉田秀彦は
明治大学の八幡山寮に入り
3人部屋で2人の先輩と生活した
大学の練習は
これまでと違って
朝、グラウンドをランニング、10周以上
ラグビー場のポールからポールまでをダッシュを何十本
筋力トレーニングにもかなりの時間が割かれ
体づくりが厳しくつらかった
そして道場での柔道の稽古を含め1日の練習が終わった後
1年生は先輩の柔道着を何着も持って電車に乗り
寮に持って帰って洗濯した
朝の食事は
ケガ人とマネージャーがつくった
メニューはいつもご飯、味噌汁、卵焼き、漬物だった
1回の朝食で使える卵は2パック(20個)
いかにうすくボリューミーに卵焼きを焼けるかが勝負だった
食事は先生、4年、3年、2年と上から順に食べていき1年は最後
卵焼きが残っていないとき
1年生はご飯とケチャップと味噌汁の残り野菜をフライパンで炒める「なんちゃってチキンライス」をつくって食べた

オリンピックの恐怖

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吉田秀彦は
大学1年生で全日本選手権に出場するも1回戦負けした
同年9月、
ソウルオリンピックに出場する古賀稔彦の付き人として同行
しかし古賀はまさかの3回戦敗退
その試合前にプレッシャーで震える姿や
負けた後、古賀がポツリといった言葉
「俺、日本に帰れない」
を聞いて吉田秀彦はオリンピックの怖さを感じた

ソウルオリンピック 古賀稔彦 3回戦敗退

バルセロナオリンピック

 (1687975)

吉田秀彦は新日本製鉄に就職した
通常、新日本製鉄柔道部は
兵庫県姫路市で午前は仕事、午後は練習となるが
バルセロナオリンピックが迫った吉田秀彦は
東京で午前は警視庁、午後は明治大学で練習した

バルセロナオリンピック開催前のニュース

必ず金メダリを獲る

古賀と吉田が練習中にアクシデント発生

 (1687985)

7月19日に
スペインのバルセロナに入りし
20日に現地での練習初日が行われた
-78kg級代表の吉田秀彦は
-71kg級代表の古賀稔彦と練習をしていた
そこは畳ではなくマットでの練習だった
古賀が背負い投げに入り吉田がそれをかわした瞬間
「ボキッ」
という音がして
「うわぁー痛ぇー」
と古賀が膝を抱えて倒れ込んだ
背負い投げに入った瞬間、足を滑らせたため
自分と吉田の体重が不自然な形で膝にかかってしまったのだ
吉田は呆然と立ち尽くしていた
練習場が畳ではなく滑るマットだったため起こった事故だった
診断は「左膝内側側副靱帯損傷」
数週間絶対安静の重症
試合は10日後だった
「5月に左腓骨を痛めていた秀彦が稔彦と稽古したいといってきた
ケガする危険があるから代表同士の乱取り(スパーリング)などありえないけど
吉田のために認めた
ケガをした稔彦も大変だったけど
させた秀彦のショックも大きかった
中学からずっと一緒だからなおさらだよ」
(2人を中学から指導しオリンピックコーチだった吉村和郎)
2人は選手村で同部屋だった
コーチ陣は部屋を別にしようとしたが
吉村和郎は
「別にしてもいいことはない」
と反対した
「お前はわかっていると思うが
このケガはお前のせいじゃない
ピンチになればなるほど俺は燃えるんだ
俺は必ず金メダルを獲るぞ」
周囲の心配をよそに古賀稔彦は吉田秀彦に自信タップリにいった
そしてその優勝の瞬間を語り始めた
「俺は決勝で勝ち、優勝を決めた瞬間、ガッツポーズをする
そしてそのまま畳に倒れこむんだ
それから畳の上を這って進む
そしてオレに贈られる会場からの大歓声!」
しかし古賀には試合までにケガの治療だけではなく減量があった
体が動かせない状態で4㎏減量しなければならない
古賀の場合、1日飲まず食わずでいれば1㎏体重が減るので
1日に600gの食事を摂っても1日400g減る
400g×10日間=4㎏減量
この方法で減量を開始した
吉田は歩けない古賀の足となった
自分の練習が終わるとすぐ部屋にいき古賀に
「調子はどうですか」
と聞き
患部を冷やす氷を取り換え
洗濯をし食事を運んだ
7月27日、ケガをしてから1週間後
古賀と吉田は休みをもらって
自転車に2人乗りして選手村近くのビーチに気晴らしに行った
「先輩、金メダル獲ってください」
「俺は今まで何があっても勝てる練習をしてきた
だから俺は勝つんだ
そしてお前も金メダルが獲れる
がんばれ!」
吉田秀彦の試合は3日後
古賀稔彦の試合は4日後だった

「今日の金メダルは半分です」

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7月30日、
バルセロナオリンピックで日本柔道はここまで金メダルを1つもなかった
吉田秀彦の明治大学の先輩であり世界選手権を4連覇していた小川直也も決勝で負けていた
しかし初出場の吉田は
「勝たなくてはならない」というプレッシャーよりも
「よし!思い切り行こう」と挑戦する気持ちが強かった
そして吉田秀彦はオール1本勝ちで優勝し金メダルを獲得した
「今日の金メダルは半分です
明日、古賀先輩が金メダルを獲って初めてこのメダルが1つになります」
記者会見
ドーピング検査
祝賀会を終え選手村に戻った
翌日に試合を控えた古賀はいった
「やったな
おめでとう!」
「ありがとうございます
先輩も明日頑張ってください」
吉田は自分の金メダルのことは一切しゃべらず古賀の世話をし
その左膝に両手を当てて祈った
そしてベッドの枕と布団を持って部屋を出た
その日は談話室のソファーで寝た

「ああ、これで日本に帰れる」

よくやった!感動した!火の鳥NIPPON !! ( バレーボール ) - 第弐章 「悠久の大義」 - Yahoo!ブログ (1842811)

7月30日
吉田秀彦は古賀稔彦の付き人となった
試合会場の練習場で
古賀は膝に消炎剤を注射した
、医師が注射するとき古賀の手足をコーチが押さえつけた
6か所の注射で悪くない場所に注射するとそこの筋肉まで麻痺してしまうからだ
古賀は
注射をしてテーピングで固め
ケガをして以来の柔道着に袖を通し
ぶっつけ本番で畳に向かった
古賀は2回戦から登場
開始20秒、巴投げでバルガス選手(エルサルバドル)に1本勝ち
3回戦は石承勝選手(中国)を右小内刈りで投げ技ありで優勢勝ち
4回戦は終始攻めてブラハ(ポーランド)に判定勝ち
準決勝はトッド選手(ドイツ)にケガがうそのように鮮やかな1本背負いを決めて1本勝ち
決勝はハイトシュ選手(ハンガリー)に苦戦したが3-0の判定で金メダルを獲得した
「やったー!」
吉田は叫んでいた
観客席から試合場に飛び下り古賀に抱きついた
「やっと自分のメダルも金メダルになった」
「ああ、これで日本に帰れる」
帰国後、
吉村和郎は古賀稔彦と吉田秀彦を病院に連れていき精密検査を受けさせた
結果
吉田秀彦は腓骨が折れていた
古賀稔彦の膝は医者が「普通なら歩けないのに」とあきれるほどの状態で
さらに医者は衝撃的なことを発見した
「胃に穴が開いています」
強烈なストレスで胃潰瘍になっていた

全日本選手権

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