【松井稼頭央選手】怪我する度に立ち上がる、不屈のレジェンド
2016年11月25日 更新

【松井稼頭央選手】怪我する度に立ち上がる、不屈のレジェンド

西武で盗塁王を3回獲得した後、FA宣言して日本人内野手初のメジャーリーガーとなった松井稼選手は、Wシリーズにも出場。メジャー在籍7年間でイチロー・松井秀に次ぐ615安打を・・・そんな輝かしい松井稼頭央選手の球歴を振り返る。

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怪我に泣かされた高校時代

PL学園時代のポジションは投手だった松井選手は度々肘や腰の故障に悩まされます。2年春に甲子園出場を果たしますが、肘を痛めていた松井選手は痛み止めの注射を打って準々決勝で初登板するものの3回途中2失点でマウンドを降板します。

※「稼頭央」はプロ入り後に使用している登録名であり、本名は「和夫」
PL学園時代の松井選手

PL学園時代の松井選手

その後、甲子園出場を逃し、最後の3年夏の大会直前にぎっくり腰に。それでも大阪府大会の決勝まで勝ちあがったのですが、近大付属高校に惜敗(この時の対戦相手の投手は、横浜・巨人でプレーした金城龍彦選手)1993年オフに行われたドラフト会議で、松井稼選手は西武に3位指名されて入団。投手としてではなく、そのバッティングセンスを買われ、野手としての指名でした。もし高校時代に全く怪我がなく、万全の状態ならば、松井選手は投手としてもっと成績を残し、野手・松井稼頭央選手は誕生しなかったかも…というのは仮定の話でしょうか。

西武を背負う若獅子

高校時代の投手から内野手にコンバートした入団1年目、松井選手はイースタン・リーグの試合で24失策を記録。バッティングに関しても、体がピッチャー方向へと突っ込む酷い有様だったといいます。ですが、この悪癖がきっかけとなって、当時の打撃コーチから左打ちを進められたのを機に、松井選手はスイッチヒッターに転向します。
人気番組「筋肉番付」出演

人気番組「筋肉番付」出演

2年目に1軍初昇格を果たすと、この年は69試合に出場。21盗塁を記録するなど飛躍のきっかけを掴むと、3年目にショートのレギュラーを奪い、シーズン130試合にフル出場。リーグ2位の50盗塁を記録。この様にパリーグファンが注目する若手選手となった松井稼頭央選手は、シーズンオフに人気番組「筋肉番付」に出演。この番組での活躍を機に、若い女性の間で人気が爆発する事になります。

誰も止められない。脅威の足

97年シーズンは前半戦だけで39盗塁を記録。オールスターに選出されると、そこで松井稼頭央選手は、オールスター記録となる1試合4盗塁の新記録を樹立。特に4盗目は12球団一の盗塁阻止率を誇る古田捕手から警戒されている中で3塁への盗塁を決めた事は大きなインパクトを与えました。
松井稼頭央選手(西武時代)

松井稼頭央選手(西武時代)

この97年、西武はリーグ優勝を果たし、松井稼頭央選手は初の盗塁王(62盗塁)に輝きます。そしてヤクルトスワローズとの日本シリーズで敢闘賞を受賞。(チームは1勝4敗で敗退)
続く98年でも43盗塁を記録し、2年連続盗塁王を獲得するなど、チームのリーグ連覇に大きく貢献します。(横浜相手の日本シリーズでは2勝4敗で敗退)
盗塁する松井稼頭央選手

盗塁する松井稼頭央選手

98年にはシーズン途中から3番に座った事も影響してか、盗塁数は減少(32盗塁)したものの、3年連続盗塁王を獲得。更にイチロー選手を抜いて、初の最多安打(178安打)のタイトルを獲得。紛れもない西武のチームリーダーとして活躍を続けていくのです。

遠い「日本一」

97・98年のリーグ連覇以来、優勝から遠ざかっていた西武ライオンズですが、新監督に就任した伊原監督が指揮をとった2002年シーズン。2位に16.5ゲームの大差をつけてリーグ優勝。セ・リーグも原新監督が全球団に勝ち越してのリーグ優勝。圧倒的な力でリーグを制した、西武と巨人。この「因縁カード」が久しぶりに実現。そして、松井秀喜選手対松井稼頭央選手の「W松井対決」という事で、日本シリーズ前は接戦が予想されました。
2002年 巨人が日本一

2002年 巨人が日本一

巨人対西武(西鉄時代を含めて)の日本シリーズはこの2002年までに1956年・1957年・1958年・1963年・1983年・1987年・1990年・1994年と8回。西武が(西鉄時代を含めて)6勝2敗で、特に1990年のシリーズは西武がストレートの4連勝。(この時の日本シリーズを原監督は選手として、井原監督は3塁コーチとして経験)また、この時巨人には工藤選手や清原選手というかって西武の黄金期を支えた選手が在籍していました。そういった因縁もあったこの年のシリーズですが、結果は巨人が4連勝で西武を退けます。

結局、松井稼頭央選手は西武時代に3度日本シリーズに出場しましたが、1度も日本一を経験する事は無かったのです。
2003年オフに松井選手はFAを宣言し、ニューヨーク・メッツと契約。日本人初の内野手のメジャーリーガーとして翌年の開幕戦に出場。その第一打席の初球をホームランするという華々しいデビューを飾るのです。ところが、7月30日のブレーブス戦で、二塁入った際に激しいスライディングを受けて左足脛を負傷。さらに8月は腰痛の為1か月半の間戦線を離脱するなどメジャー挑戦1年目は試練が続きました。

海外移籍

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