【栄進寳蹄】海外レース勝利を身近にしてくれた名馬エイシンプレストン
2016年11月25日 更新

【栄進寳蹄】海外レース勝利を身近にしてくれた名馬エイシンプレストン

無類の香港好き。この言葉がとてもよく合う馬は未だに【エイシンプレストン】だけだと思う。日本では善戦止まり・・しかし、香港では無類の強さを発揮した個性派のエイシンプレストンの軌跡を追う。

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アメリカで生まれ、日本へ

エイシンプレストン
父 グリーンダンサーは名馬ニジンスキーの直仔で、凱旋門賞馬のスワーヴダンサー等を輩出している。
アメリカで生産されたのちに、日本の栄進堂によって購入され日本にやってきた。
名前の由来は冠名の「エイシン」+「アメリカの地名」

日本代表するオーナー平井豊光

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平井 豊光(ひらい とよみつ、1936年[1] - 2013年3月2日)は日本の実業家。大阪府生まれ。玩具の企画製造販売を行う株式会社栄進堂の代表取締役会長。
日本中央競馬会(JRA)と地方競馬全国協会(NAR)に登録された馬主であり、1978年に栄進牧場を開設しオーナーブリーダーとしても活動。中山馬主協会の参与も務める。2010年に所有馬のエイシンフラッシュが東京優駿を制したことでダービーオーナーともなっている。
勝負服の柄は赤、黒縦縞、黒袖。冠名は「エイシン」(英語表記は「Eishin」)、外国産牝馬「ガール」、1999年産の外国産馬のみ「スワン」、地方競馬デビュー馬は「エーシン」。長男]の平井宏承も馬主、次男・平井克彦は、栄進堂代表取締役社長]で馬主。
外国産馬を多く所有し、引退後に繁殖入りさせることで日本国外の血統を積極的に国内へ取り入れている。そのため、競走馬としての実績がなくても繁殖入りしている馬もいる。また、登録抹消後に日本国外へ再輸出して繁殖入りさせるケースもある(日本で交配してから輸出するケースもある)。

デビュー3戦目にしてG1馬へ

エイシンプレストンのデビューは1999年の11月の京都競馬場だった。初戦は2着となったが、折り返しの2戦目で初勝利をあげる。そのレースぶりから管理していた北橋調教師は1勝馬でありながら、次走をG1の朝日杯3歳ステークスにした。1999年は混戦模様で、新馬戦を勝ったばかりのエイシンプレストンだったが、4番人気に支持されていた。レースでは直線抜け出した公営競馬所属のレジェンドハンターを内から差し切り見事3歳のトップに立った!!
鞍上は福永祐一騎手。当時はデビュー3年目で、春に桜花賞で初G1を獲り、暮れに朝日杯3歳ステークスと活躍した年だった。エイシンプレストンの手綱は全て福永騎手がとっている。
ちなみに、北橋調教師とは師弟関係である。
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福永 祐一 (ふくなが ゆういち、1976年12月9日 - ) は日本中央競馬会 (JRA) 栗東所属の騎手である。父は現役時代「天才」と言われた元騎手の福永洋一、叔父に元騎手の北村卓士。妻は元フジテレビアナウンサーの松尾翠。
。同期にはJRA初の双子騎手柴田大知・柴田未崎、JRA初の女性騎手細江純子・牧原由貴子、和田竜二などがいる。
競馬学校花の12期生の1人として語られることも多いが、その前年に競馬学校11期生の入学試験を受けている。しかし、直前に負った足の骨折で体力試験をパスできずに不合格。これにより福永は幻の11期生となったが、その後1年間近江兄弟社高等学校に通い、翌年に再受験し合格したため、1歳年上の細江純子以外の同期生は福永より1歳年下である。
テレビゲームマニアで、幼少の頃は信長の野望シリーズや三國志シリーズ (どちらもコーエー) に熱中していた他、「イメージトレーニングのため」と称して『ジーワンジョッキー』シリーズ (コーエー) をプレイすることが多いという。『ジーワンジョッキー』ではゲーム中に自分自身が実名で登場するため、自分の名前ではなくエディット機能を使用して父・洋一の名前でプレイしている。

マイル戦に高い適正を見せた4歳春シーズン

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朝日杯3歳ステークスを制し、王者として迎えた4歳。外国産馬のためクラシックレースには出走できなかったが、NHKマイルカップを目標に、きさらぎ賞から始動した。きさらぎ賞では初の1番人気に支持された。しかし、1800mという初距離と休養明けという事がこたえたのか、8着とこれも初めて掲示板外へと沈んでしまった。しかし、その後のアーリントンカップ、ニュージーランドトロフィーと1600m戦の重賞を連勝し、マイル戦への高い適正を示し、本命場として目標のNHKマイルカップへと向かうよていだったが、レース前に骨折が判明し、休養へと入った。

もがき続けた4歳秋~5歳春

骨折の程度は比較的軽く、秋前には厩舎に帰厩しスワンSから秋の短距離路線へと向かった。休み明けのスワンSを6着とし、次走マイルチャンピオンシップでは歴戦の古馬と対戦であったが、春に見せていた高いマイル適正から4番に人気に支持される。しかし精彩を欠き、5着と敗れる。その後、一息入れ年明けの京都金杯で14着、新しい活路を見出すためダート戦の根岸Sに出走したが12着と少しずつリズムが崩れていった。
そのリズムが戻らないまま、5歳春シーズンも中山記念、ダービー卿、京王杯SC、安田記念・・・と重賞路線を果敢に挑んだが、一年前の輝きが戻ることはなかった。

復活の兆し

ゼンノエルシド マイルチャンピオンシップ 2001 - YouTube

2001年11月18日(日) 5回京都6日 天候: 晴 馬場状態: 良 11R 第18回 マイルチャンピオンシップ ゼンノエルシド 3歳以上・オープン・G1(定量) (国際)(指定) 芝 1600m・外 18頭立 1 ゼンノエルシド 2 エイシンプレストン 3 タイキトレジャー 4 ビハインドザマスク 5 ダンツ...
そんな状況を打破するために、エイシンプレストンは夏場も休養に出されることなく厩舎に置き
調整をする事が決まった。これが良いきっかけとなり、安田記念大敗後に出走したOP特別で、一年以上ぶりに勝利を飾り、続く北九州記念で連勝と3歳王者の輝きが戻り始めた。その後も秋に向けてコンスタントに使われ、関屋記念3着、毎日王冠1着とし、秋のマイルチャンピオンシップに向かう。2番人気に支持されたエイシンプレストンは直線抜け出しを図る、ゼンノエルシドを猛追するが届かず2着となった。しかし、4歳秋のスランプは完全に脱した。

3歳時以来の栄冠へ【香港マイル】

ニコニコより転載
香港マイル(ホンコンマイル、香港一哩錦標、Hong Kong Mile)とは毎年12月中旬に中華人民共和国の香港にある沙田競馬場の芝1600メートルで行われる3歳以上の競馬の競走である。
香港国際賽事(香港国際競走)として香港カップ(芝2000メートル)、香港スプリント(芝1200メートル)、香港ヴァーズ(芝2400メートル)といった国際G1(グループワン)と同日に開催されている。
香港競馬年度シーズンの最初のマイル路線のG1競走でヨーロッパや日本の一線級の競走馬が多く出走していて、現在は地元香港勢が2006年から9連勝中だったが、2015年に日本の競走馬であるモーリスが優勝した。
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