Chernobyl 1986 チェルノブイリ原発事故 みえない放射能 英雄の戦い  国の理論
2021年7月4日 更新

Chernobyl 1986 チェルノブイリ原発事故 みえない放射能 英雄の戦い 国の理論

1986年4月26日の早朝、ソ連(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原発4号機が爆発。人類史上最悪の放射能汚染が引き起こされた。そして25年後、東京電力福島第一原発で事故が発生。事故原因は異なるものの、事故直後、体を張った現場の人たち、被害者への補償が不十分なまま再稼動させようとする原発産業と政府という構図は重なってみえる。

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多くの人が、ソ連に対してネガティブな感情を持つ一方、世界中で医療や物資の派遣、募金活動などの支援活動も行われた。
実際、4号炉から半径600km、12万km²、日本の国土の1/3近くにも達っする地域の汚染は深刻で、そこに住む住民は、放射性物質が降り積もった大地から直接、放射線を浴び、さらに汚染された空気や水、食べ物が体内に入ることで体の中からも被爆し、2つの被爆を同時に受け続けていた。
4月29日、
事故から3日後、モスクワのソ連共産党は、ソ連首相:ルイシコフを議長とする対策グループを設置。
以降5月末まで、連日、会合が開かれた。
4月30日、
新聞(ソ連共産党中央委員会機関紙「プラウダ」)の2面右下段、目につきにくい欄に
-------------

ソ連政府発表

キエフから北に130kmに位置するチェルノブイリ原子力発電所において事故が発生しました。
事故現場では、ソ連政府副首相同志シェルビナ・B・Eの指導の下、関係省庁幹部、著名な学者や専門家から成る政府委員会が対応にあたっています。
最新の情報によれば、事故は第4発電ユニットの建屋のひとつで発生し、原子炉建屋の構造物の一部崩壊、破損、一定量の放射性物質の漏出につながりました。
他の3基の発電ユニットは正常に停止し、稼動待機状態にあります。
この事故によって2名が亡くなりました。
事故被害を防ぐため緊急措置が講じられています。
現時点では、発電所及びその周辺地域の放射線量は平常値に戻っており、被害者には適切な医療サービスが提供されています。
原発村及びその近隣の3居住区の住民は避難を終えています。
チェルノブイリ原発及び周辺地域の放射線量について常時モニタリングが続けられています」

-------------
という記事が掲載された。

Chernobyl. Helicopter crashes.

5月1日、
4号炉の黒鉛がほぼ燃え尽き、放射性物質の放出が増え始めた。
ソ連は総力を上げてこの事態に取り組んでいて、チェルノブイリ原発へ向かう道路にはトラックが延々とつながっていた。
幾重にも検問所が設けられ、兵士が、人や機械の除染と検知を行い、放射能の拡散を防止する防壁となっていた。
「事故後2ヵ月間は本当に戦争のようだった」
(参謀総長アエロメーエフ元帥)
5月2日、
政府委員会が、4号炉から北西に3kmのプリピャチ市から南東12kmのチェルノブイリ市に移動。
政府委員会の入った建物は、関係者でゴッタ返し、道路の両脇は軍の野営地となり、テント、軍用車両、建設車両などでビッシリ埋まった。
同日、
現場では投下される資材の重さで原子炉の基礎コンクリートが破壊される恐れが指摘され、ヘリコプター作戦が中止となった。
原子炉の下には大量の水があり、核燃料と接触すれば大規模な水蒸気爆発が起こる可能性があった。
予測される爆発の規模は、200km²。
周囲の原子炉も吹き飛び、さらに大量の放射能汚染の恐れがあった。
ここまで
27日、150t
28日、300t
29日、750t
30日、1500t
1日 、1900t
と鎮火のための砂と粘土1800t、放射線吸収のため鉛2400t、中性子の吸収剤としてホウ素40t、ヒートシンク(放熱・吸熱)としてドロマイト600tなど合計5000tが投下されてきた。
30人のパイロットは、血液中からウランやプルトニウムを除去するために何度も血液交換が行った。
その英雄的な活動と犠牲は、原子炉を密封して放出される放射性物質の量を著しく減少させた。
しかし完全に封じ込めることはできなかった。
この後、放射能に汚染され使用できなくなったヘリコプターは、原発から南に25kmのラッソハ村に移動し、10年以上、放置された。
5月3日、
プリピャチ市以外の原発周辺30km圏内、70余りの市町村の住民、約12万人の強制避難が開始。
こうして3700km²(東京都面積の 1.7倍)は立ち入り禁止となった。
チェルノブイリ市を除いて多くは農村地域だったが、人々は先祖伝来の農地や牧場から追い出され、放射性物質が付着しているという懸念から家畜も処分された。
多くの人が仕事を失い、慣れない生活環境に放射能汚染はもちろん、将来へ不安を募らせた。
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当初、マスコミが事故現場に入ることは許されなかった。
ある記者は、それを記事にし、当局に現地にマスコミを入れて公開することを要請。
共産党の重鎮で「グラスノスチ(情報公開)の父」と呼ばれたアレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフが、その記事に注目。
事故発生から1週間後、記者はマスコミとして初めて現場に入れ、収束作業を撮影。
高線量の現場で、原子炉内から飛び散った黒鉛を手で除去する姿を目撃した。
「まさに地獄だった」
カメラマンのイーゴリ・コスティンは、何も知らない鳥が4号炉の上を飛んでいるのを目撃。
その背後には事故が起きた瞬間に止まった時計台があった。
「事故発生の11 時間後に撮った写真は、残念なことに、フィルムが放射線によって処理を受けてしまって、画像が砂を振り撒かれたような状態になった。
私が5 枚ないし10 枚の写真を撮影した後、カメラは作動しなくなった。
撮影はヘリコプタ-の窓越しに行った」
こうして撮影された映像は、翌年(1987年)まで公開を禁じられた。
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依然、原子炉の真下にはコンクリートの壁を隔てて500万ガロンの水が入ったプールがあり、もし核反応を続ける燃料と接触すれば、大規模な爆発と核の拡散が起こる恐れがあった。
早急に水を抜く必要があったが、そのためには排水バルブを開かなくてはならず、ボリス・バラノフ、タービン、ワレリー・ベスパロフ、アレクセイ・アナネンコ、3人の原発職員は4号炉の真下にいくことになった。
厚いウェットスーツを着た3人は、防水ライトをもってに進み、水に潜って手でバルブを開いた。
次に消防隊の志願者12名が建屋に入り、24分間で排水ホースを引く作業を行ったが、その後、ホースが漏れたりしたため、何度か現場に戻らなければならなかった。
ボリス・バラノフ、タービン、ワレリー・ベスパロフ、アレクセイ・アナネンコの3人は致死的な被曝を受けたにも関わらず、その後も生存し、原子力の仕事を続けた。
彼らだけでなく多くの職員が、避難した家族と別れ、近くのキャンプ場「おとぎの国」を宿舎にして、当直制で事故処理作業に通った。
食事は、時間になると飛来する食堂ヘリで行われ、外から持ち込まれたものだけを食べた。
おとぎの国には設けられた掲示板には、全国各地から送られてきた励ましのメッセージが貼られた。
自分たちへの感謝のメッセージや家族からの手紙を読んだ職員は、
「どんなことがあっても守り抜く」
と強く意志を固めた。
多くが健康状態を悪化させ、やがて給料も未払いになったが、辞めるわけにはいかなかった。
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5月6日、
3号炉からパイプを通じて4号炉に窒素を送り込むことに成功。
火災は鎮火。
これにより遠方への放射性物質の拡散も阻止された。
それはまるで映画のような劇的な終わり方だった。
これまで質量の大きな放射性物質は発電所の周辺に、質量は小さい揮発性の高い物質は煙と共に遠くまで拡散。
汚染物質を含む雲は風向きによって刻一刻と進路を変え、空を通り過ぎただけの場所は汚染を免れたが、雨が降ると落下した水滴によって土地を汚染した。
結局、4号炉は、世界中の原子力発電所が1年間に排出する廃棄物の3万倍に相当する放射性物質を環境中に放出。
今日でも人類が日々浴びている放射線の3%はこのチェルノブイリに由来するといわれている。
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火災が止まり遠方への拡散が止まっても、放射能がなくなったわけではなく、4号炉はエネルギーを放ち続けていた。
この時点では不明だったが、後に調査によって、原子炉とその周辺の状態がわかってきた。
4号炉には10m以上の大きなコンクリートの壁が2枚、倒れ込んでいた。
水平だった2500tの上部構造板は、ほぼ垂直になって引っかかっていて、引きちぎられたチャンネル管が垂れ下がっていた。
下部構造板は、1/4が溶け、押し潰すように下に4mほど下がっていた。
1700 tあった黒鉛ブロックは少しだけ残っていて、それ以外は飛散したか、燃えてしまっていた。
事故時、4号炉には190tのウラン燃料が装てんされていた。
最も危惧されたのは残った核燃料が再び核分裂が始めることだったが、それはステンレスや岩、コンクリートなどと反応を起こし、溶岩状の物質となって流れ出て固まっていた。
原子炉下部のプールへ流れ落ちて固まった溶岩状物質は、その形状から「ゾウの足」と名づけられた。
もし水が抜かれていなかったら大惨事になっていた。
ゾウの足には、120tのウランが含まれ、その他、圧力チャンネル管の中、ガレキの下などにも大量の核燃料が埋まっていると推定された。
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5月9日、
事故発生から10日足らずで、空き地に3つのコンクリート工場が完成。
(それまでは市外から運搬されてきていた)
40mの深さまでコンクリートを流し込み、地下水がドニエブル川に流れていかないようにする工事が150名によって行われていた。
5月14日、
ソ連共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長が国営テレビで演説。
「先日、チェルノブイリ原発で不幸な事故が発生しました。
被害は深刻な事態を招いています。
暴走する原子力という巨大な力と我々は衝突してしまいました。
この非常事態に政治局は全力で処理に当たっています。
莫大な労働力と責任がウクライナとロシアにかかっています。
これまで299人が入院し、7人が死亡しました。
中央委員会および政府は、死亡者の家族、同僚、その他すべての被害者に同情の意を表します」
と事故原因にはふれず、死傷者数も少なく発表。
「ペレストロイカ(再建)」 と「グラースノスチ(公開)」をスローガンにソ連共産党のトップとなったミハイル・ゴルバチョフだったが、70年以上続く一党独裁体制の闇は深かった。
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一方、現場では4号炉建屋の外から原子炉の下へ向けてトンネルが掘られ始めた。
核燃料が基礎コンクリートを貫通しないよう、その下にコンクリートを流し込んで補強すると共に冷却用の配管を設置する工事だった。
この工事には、約400人が24時間、3時間8交替で従事。
地上では、飛び散った残骸の片づけが始まった。
4号炉の周りには、爆発で崩れた壁や屋根がガレキとなって積み上がり、黒鉛ブロックや燃料棒がゴロゴロ転がっていた。
ある黒鉛の塊に放射線測定器を近づけると、2000レントゲン/時を示していた。
ソ連軍化学部隊は、ピカロフ大将を含め、全員がバケツを持って、それらを手づかみで拾っていった。
そしてバケツがいっぱいになると金属のコンテナに歩いていって中身を移した。
この他にも化学部隊は、30km圏内を調査し、汚染地域を特定し、軍はプリビャチ市を含め、樹木、住宅、道路の除染作業をやりとげた。
彼らの3ヶ月間の活動によって、チェルノブイリは次のプロセスへ進むことができた。

Chernobyl 3828

事故後、原発職員と軍人主導で処理が行われていたが、やがてソ連各地から予備役兵(平常は市民生活を送り、訓練や非常時に召集されて軍務に服する)や一般の専門家や愛国者たちが30km圏内に集められ、様々な作業を行うようになり、5月末には現場から正規軍人はほとんどいなくなった。
彼らは
「リクヴィダートル(事故処理作業従事者、ロシア語で「清算活動をする人」)」
と呼ばれた。
事故後、4年間で約80万人のリクヴィダートルが活動。
積極的な志願者もいたが、危険性が知ると作業を拒否する者も続出。
実際、4号炉の近い場所で作業を行ったリクヴィダートルは、事故時に現場に居合わせた原発職員や消防士たちに次いで被爆が大きかった。
リクヴィダートルのために新しい道路と町が建設され、原発への行き帰りは装甲車やバス。
チェルノブイリに集められた医師たちは、放射能による災害に初めて直面した。
最初は基本的な衛生習慣もなく、汚染されているはずの室内で食べ物や飲み物はむき出しで置いてあったが、注意すると数日後には手や口に入れるものは洗うようになった。
医療の専門家たちは、最悪の状況の中で、許容線量を定め、放射線による障害を予防しようとした。
作業者の被曝管理は、原子力産業省、中機械製作省、国防省の3つにわかれていて、中機械製作省と国防省は自分のところのスタッフ、それ以外は原子力産業省が担当。
被曝限度は25レントゲンとされ、それを超えると作業を離れるという規則だったが、愛国心か、管理の甘さか、かなりの人が基準をオーバーして作業した。
「深夜、仕事をしていると若い兵隊が私のところへやって来て、『被曝証明書を書いてくれ』という。
『いったいどこで作業をしていたのか』と地図を示しながら聞くと廃液貯蔵所を指した。
そこには60レントゲン/時と放射線量が記入してあった。
どのくらいの時間いたのか聞くと『約30分です』と答えた。
私は不意に気分が悪くなった。
彼らは測定器を持っていなかった。
『他にはどこにいたか』と聞くと35レントゲン/時の場所と50レントゲン/時の場所を示した。
それぞれに30分ずついたとすれば、合計で70~75レントゲンにもなる。
彼のグループ6人の名前を聞き、被曝証明書を作成してやった」
(医師)
多くのリクヴィダートルは、国に対する誇りと義務感を抱いていた。
なにか同意できないことがあっても、そのことについて話すのは難しいと感じていたかもしれない。
 (2285325)

建設現場の技術者や監督が、道具や材料の不足を訴えると迅速に補充された。
ある学者は、農作物をつくることが禁止された30km圏内の土地を元の土に戻す研究を行った。
ジャーナリズムを学んでいた大学生がチェルノブイリに入り、発電所の壁新聞「前線」の記事を書いた。
ある作業員は、大学を卒業したばかりで作業員として軍隊に採用され、制限区域のすぐ外の野営地で55日間を寝泊りしながら、4号炉の近くで毎日12時間、除染作業を行った。
ある作業員は、道路を通過する車両や機械にホースで水をかけて洗浄。
道路自体も洗浄車両で除染された。
ある作業員は、原発周辺の汚染された木々の伐採。
ある作業員は、原発周辺の村の建物を重機で壊して土に埋めた。
壊すことができない大きな建物は水をかけて洗われ、水が滴り落ちた地面は土を引っくり返さなくてはならなかった。
発電所内の作業は、分刻みで交代が行われた。
色も形も匂いもない放射線は作業中は気にならないが、確実に体に蓄積されていく。
先に調査を入れながら慎重に作業を進めていった。
ある作業員は、現場に大急ぎでかけこみ、シャベルで土を引っくり返して逃げてくる。
作業時間は6分間。
1日の作業はわずかそれだけだった。
その後はどこへいってもよいが、送迎バスは頻繁に運行されず、できるだけ放射線に曝されないよう地下2階にある食堂で待機。
ある作業員は、医師だったという理由で、爆発の現場をみたいというモスクワの党幹部に同行。
放射線を遮るために鉛で覆われた車に乗っていったが、現場に近づくにつれ車の中のガイガーカウンターが
「ツ、ツ、ツ」
と頻繁に鳴るようになり、さらに近づくと
「ツーーー」
と断続音ではなくひと続きの長い音になり、エンジンが止まったという。
リクヴィダートルの多くは、放射線についてほとんど何も知らなかった。
共産主義政権下、ほとんど何の装備もないまま機械が故障するような所に送り込まれ働いた彼らは、例えようもない「自己犠牲」だった。
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