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6月、
火災は止まったといっても、破壊された原子炉はムキ出しのままで放射能を放出し続けていた。
これをまるごとコンクリートで覆ってしまおうという工事が始まった。
高さ60m×縦70m×横70m、巨大な「石棺」の建設だった。
大量の技術者と作業者、遠隔操作の建設機械が投入された。
周辺の地面はコンクリートで覆われたり、土を入れ換えられた。
それでも放射線量は、150~180レントゲン/時もあるところもあったが、まず石棺の壁の建設が始まった。
また1号炉と2号炉の運転再開が決定され、その準備も進められていった。
6月4日、
モスクワのソ連首相:ルイシコフを議長とする対策グループは、国内および外国に対し
「急性放射線障害の診断は187名の被災者(全員発電所職員)に対してなされ、うち24名が死亡(他に2名が事故時に死亡)した。
病院に収容された住民には、子供も含め、放射線障害の診断は認められていない」
と発表することを決定。
実際は多くの一般住民や子供、幼児が急性障害が出して病院に収容されていた。
6月末、
溶岩化した燃料が基礎コンクリートを貫くのを防ぐためにトンネルを掘ってコンクリートを流し込み補強すると共に冷却用配管を設置する工事が完了。
400人のリクヴィダートルは、機械はほとんど使えないまま、24時間3時間8交替で140mのトンネルを掘り切った。
火災は止まったといっても、破壊された原子炉はムキ出しのままで放射能を放出し続けていた。
これをまるごとコンクリートで覆ってしまおうという工事が始まった。
高さ60m×縦70m×横70m、巨大な「石棺」の建設だった。
大量の技術者と作業者、遠隔操作の建設機械が投入された。
周辺の地面はコンクリートで覆われたり、土を入れ換えられた。
それでも放射線量は、150~180レントゲン/時もあるところもあったが、まず石棺の壁の建設が始まった。
また1号炉と2号炉の運転再開が決定され、その準備も進められていった。
6月4日、
モスクワのソ連首相:ルイシコフを議長とする対策グループは、国内および外国に対し
「急性放射線障害の診断は187名の被災者(全員発電所職員)に対してなされ、うち24名が死亡(他に2名が事故時に死亡)した。
病院に収容された住民には、子供も含め、放射線障害の診断は認められていない」
と発表することを決定。
実際は多くの一般住民や子供、幼児が急性障害が出して病院に収容されていた。
6月末、
溶岩化した燃料が基礎コンクリートを貫くのを防ぐためにトンネルを掘ってコンクリートを流し込み補強すると共に冷却用配管を設置する工事が完了。
400人のリクヴィダートルは、機械はほとんど使えないまま、24時間3時間8交替で140mのトンネルを掘り切った。
チェルノブイリ原発事故 ワレリー・レガソフ回想録 Part 4/4
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7月3日、
ヴァレリー・レガソフは、モスクワに呼ばれ、事故後の経過を報告。
説明を聞いたミハイル・ゴルバチョフは、1ヵ月後にウィーンで行われるIAEA(国際原子力機関)の会議に自分の代わりに出席するように指示。
ヴァレリー・レガソフは、他の専門家たちと膨大な資料をチェックし、事故の主な原因は、RBMK型原子炉の構造的な欠陥であると確信していた。
「爆発は原子炉の構造上の欠陥やヒューマンエラーなど数多くの要因によるものだという結論に達した。
原発の職員は欠陥に気づいておらず、彼らが行った試験が爆発を招いた可能性があった」
しかし会議前、ソ連共産党は、ヴァレリー・レガソフのつくったレポートを改ざんし、ウィーンでは事故原因を「人為的ミス」と発表するよう要請。
熱心な党員でもあったヴァレリー・レガソフは仕方なく同意した。
「事故から2週間後に4号炉の制御室にいた職員たちが亡くなり始めました。
みんな自業自得だと思っていました。
しかしそこにはむごい真実がありました。
彼らは体を張って被害を食い止めようとしました。
そんな職員たちに我々上層部は隠していたのです。
制御棒や原子炉の構造に致命的な欠陥があったという事実を・・・」
(ヴァレリー・レガソフ)
事故直後から、
「事故は原子炉の構造的な欠陥が原因」
といわれていて、1991年に行われた調査でも
「事故の原因は、運転員の規則違反ではなく、設計の欠陥と責任当局の怠慢にあり、チェルノブイリのような事故はいずれ避けられないものであった」
と結論づけられた。
ヴァレリー・レガソフは、モスクワに呼ばれ、事故後の経過を報告。
説明を聞いたミハイル・ゴルバチョフは、1ヵ月後にウィーンで行われるIAEA(国際原子力機関)の会議に自分の代わりに出席するように指示。
ヴァレリー・レガソフは、他の専門家たちと膨大な資料をチェックし、事故の主な原因は、RBMK型原子炉の構造的な欠陥であると確信していた。
「爆発は原子炉の構造上の欠陥やヒューマンエラーなど数多くの要因によるものだという結論に達した。
原発の職員は欠陥に気づいておらず、彼らが行った試験が爆発を招いた可能性があった」
しかし会議前、ソ連共産党は、ヴァレリー・レガソフのつくったレポートを改ざんし、ウィーンでは事故原因を「人為的ミス」と発表するよう要請。
熱心な党員でもあったヴァレリー・レガソフは仕方なく同意した。
「事故から2週間後に4号炉の制御室にいた職員たちが亡くなり始めました。
みんな自業自得だと思っていました。
しかしそこにはむごい真実がありました。
彼らは体を張って被害を食い止めようとしました。
そんな職員たちに我々上層部は隠していたのです。
制御棒や原子炉の構造に致命的な欠陥があったという事実を・・・」
(ヴァレリー・レガソフ)
事故直後から、
「事故は原子炉の構造的な欠陥が原因」
といわれていて、1991年に行われた調査でも
「事故の原因は、運転員の規則違反ではなく、設計の欠陥と責任当局の怠慢にあり、チェルノブイリのような事故はいずれ避けられないものであった」
と結論づけられた。
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7月半ば、
「石棺」の最初の壁が完成。
それが放射線の遮蔽物となり、作業はかなりやりやすくなり、さらに上へと壁が重ねられていった。
現場から少し離れた場所でコンクリートを流し込む枠をつくり、原子炉建屋まで運び、組み立てられ、コンクリートを流し込まれた。
作業は24時間、急ピッチで進められ、毎日5000tのコンクリートが使われた。
また防疫施設が設けられるなど、放射線管理の体制も整えられてきた。
作業員は仕事が終わり、発電所を出ると防疫施設にいき、服や靴を脱ぎ捨て、さらに宿舎に入る前にもう1度体を洗った。
それまでは原発内にいた人間が宿舎のいたるところで放射能のチリをまき散らし、部屋の中の方が屋外より放射線量が高かった。
8月、
ウィーンのIAEA(国際原子力機関)でチェルノブイリ事故についての会議が開かれた。
ソ連は、それまでの秘密主義を覆し、400頁を超える詳細な報告書を提出。
そのオープンな態度で西側を驚かせた。
「事故原因は、運転員による規則違反の数々のたぐいまれな組み合わせ。
6つの違反の結果、原子炉が暴走をはじめ、それに気づいた運転員が制御棒一斉挿入ボタン(AZ-5)を押したが、間に合わなかった」
「急性放射線障害が現われたのは237名。
全員が発電所職員と消防士で、うち28名が放射線障害により3ヵ月以内に死亡。
その他、傷で死亡した1名、行方不明1名、放射線障害以外の病気で1名を加え、死者は31名。
周辺住民には1件の急性障害も認められなかった」
「原子炉の埋葬はもうじき終了し、1号炉、2号炉が運転再開を準備中」
などとヴァレリー・レガソフは、ソ連代表として5時間、口頭で事故の様子と原因を報告。
終始、誠実で科学者らしい姿は、国際社会を安心させ、称賛を受けた。
ヴァレリー・レガソフは一躍有名となり、ヨーロッパで「今年の人」に選ばれ、「世界の科学者トップ10」にも入った。
しかしソ連の一部は
「機密情報の暴露」
「裏切り者」
ととらえた。
以後、レガソフは理解できない悪意に苦しみ続けることになった。
ミハイル・ゴルバチョフは
「他の科学者らが推薦していない」
という理由で、チェルノブイリでの活動に対する表彰者リストからレガソフを削除。
クルチャートフ研究所(ソ連最大の原子力発電所)の所長選でも、副所長のヴァレリー・レガソフは落選。
表彰されなかったことにはあまり落胆しなかったが、被災者のため、再発防止のために積極的に動けないことに苛まれた。
何度も「チェルノブイリは人災だった」という定説を覆す事実を公表しようとしたが、そのインタビューや論文が表に出ることはなかった。
ヴァレリー・レガソフの放射線障害は進行し、だんだん食事をしなくなり、眠らなくなっていった。
「石棺」の最初の壁が完成。
それが放射線の遮蔽物となり、作業はかなりやりやすくなり、さらに上へと壁が重ねられていった。
現場から少し離れた場所でコンクリートを流し込む枠をつくり、原子炉建屋まで運び、組み立てられ、コンクリートを流し込まれた。
作業は24時間、急ピッチで進められ、毎日5000tのコンクリートが使われた。
また防疫施設が設けられるなど、放射線管理の体制も整えられてきた。
作業員は仕事が終わり、発電所を出ると防疫施設にいき、服や靴を脱ぎ捨て、さらに宿舎に入る前にもう1度体を洗った。
それまでは原発内にいた人間が宿舎のいたるところで放射能のチリをまき散らし、部屋の中の方が屋外より放射線量が高かった。
8月、
ウィーンのIAEA(国際原子力機関)でチェルノブイリ事故についての会議が開かれた。
ソ連は、それまでの秘密主義を覆し、400頁を超える詳細な報告書を提出。
そのオープンな態度で西側を驚かせた。
「事故原因は、運転員による規則違反の数々のたぐいまれな組み合わせ。
6つの違反の結果、原子炉が暴走をはじめ、それに気づいた運転員が制御棒一斉挿入ボタン(AZ-5)を押したが、間に合わなかった」
「急性放射線障害が現われたのは237名。
全員が発電所職員と消防士で、うち28名が放射線障害により3ヵ月以内に死亡。
その他、傷で死亡した1名、行方不明1名、放射線障害以外の病気で1名を加え、死者は31名。
周辺住民には1件の急性障害も認められなかった」
「原子炉の埋葬はもうじき終了し、1号炉、2号炉が運転再開を準備中」
などとヴァレリー・レガソフは、ソ連代表として5時間、口頭で事故の様子と原因を報告。
終始、誠実で科学者らしい姿は、国際社会を安心させ、称賛を受けた。
ヴァレリー・レガソフは一躍有名となり、ヨーロッパで「今年の人」に選ばれ、「世界の科学者トップ10」にも入った。
しかしソ連の一部は
「機密情報の暴露」
「裏切り者」
ととらえた。
以後、レガソフは理解できない悪意に苦しみ続けることになった。
ミハイル・ゴルバチョフは
「他の科学者らが推薦していない」
という理由で、チェルノブイリでの活動に対する表彰者リストからレガソフを削除。
クルチャートフ研究所(ソ連最大の原子力発電所)の所長選でも、副所長のヴァレリー・レガソフは落選。
表彰されなかったことにはあまり落胆しなかったが、被災者のため、再発防止のために積極的に動けないことに苛まれた。
何度も「チェルノブイリは人災だった」という定説を覆す事実を公表しようとしたが、そのインタビューや論文が表に出ることはなかった。
ヴァレリー・レガソフの放射線障害は進行し、だんだん食事をしなくなり、眠らなくなっていった。
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9月、
地上の除染はかなり進み、石棺の建設も屋根を乗せる段階に入ったが、3号炉建屋の屋上には、まだ事故のまま4号炉の破片が散らばっていた。
放射線量は500~800レントゲン/時もあり、屋根ができる前に、それらを石棺の中に投げ入れねばならなかった。
まずロボットが投入されたが、障害物や段差がある上、強い放射線で基盤を破壊され使いものにならなかった。
そこで大量の兵士を投入し、人海戦術で除染する「バイオロボット作戦」が決まった。
まず偵察隊が放射線量の測定し、上空から写真撮影。
屋上に散らばっている破片の量は140~150tと推定された。
バイオロボットには、志願者の中から35歳以上の精神的にも肉体的にも頑健な3000人が選ばれ、建設中だった5、6号炉の屋上で、ダミーの黒鉛や燃料棒片が置かれ訓練が行われた。
9月19日、
作業開始。
被曝線量の目安は20レントゲン。
例えば現場の線量が500レントゲン/時なら、作業時間は2.4分。
20~25kgの装備をつけたバイオロボットに与えられたノルマは、1人、黒鉛なら50kg、燃料片なら10~15kg。
彼らはそれらをシャベルで4号炉に投げ降ろした。
作業の様子はテレビカメラでモニターされ、時間になるとサイレンで知らせた。
10月1日、
黒鉛123.6t、圧力チャンネル管やその破片26.1tを撤去したバイオロボットは、勝利の証にソ連国旗を掲げた。
それをみた上官は、すぐに地上から旗を撃ち落とさせた。
地上の除染はかなり進み、石棺の建設も屋根を乗せる段階に入ったが、3号炉建屋の屋上には、まだ事故のまま4号炉の破片が散らばっていた。
放射線量は500~800レントゲン/時もあり、屋根ができる前に、それらを石棺の中に投げ入れねばならなかった。
まずロボットが投入されたが、障害物や段差がある上、強い放射線で基盤を破壊され使いものにならなかった。
そこで大量の兵士を投入し、人海戦術で除染する「バイオロボット作戦」が決まった。
まず偵察隊が放射線量の測定し、上空から写真撮影。
屋上に散らばっている破片の量は140~150tと推定された。
バイオロボットには、志願者の中から35歳以上の精神的にも肉体的にも頑健な3000人が選ばれ、建設中だった5、6号炉の屋上で、ダミーの黒鉛や燃料棒片が置かれ訓練が行われた。
9月19日、
作業開始。
被曝線量の目安は20レントゲン。
例えば現場の線量が500レントゲン/時なら、作業時間は2.4分。
20~25kgの装備をつけたバイオロボットに与えられたノルマは、1人、黒鉛なら50kg、燃料片なら10~15kg。
彼らはそれらをシャベルで4号炉に投げ降ろした。
作業の様子はテレビカメラでモニターされ、時間になるとサイレンで知らせた。
10月1日、
黒鉛123.6t、圧力チャンネル管やその破片26.1tを撤去したバイオロボットは、勝利の証にソ連国旗を掲げた。
それをみた上官は、すぐに地上から旗を撃ち落とさせた。
チェルノブイリ原発の内部
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3号炉屋上の除染終了を受け、石棺に屋根を乗せる工事が開始。
72m、165tの鉄骨をクレーンで持ち上げ、壁の上に設置。
その上にパイプを並べ、さらに薄い鉄板を敷かれた。
政府委員会の議長であるシチェルビナ副首相は、その上にコンクリートを乗せることを要求したが、設計グループ長のクルノソフは
「強度の保証ができない」
と拒否。
9月29日、
1号炉が運転再開。
11月、
「石棺」が完成
6000tの鋼材、50万m³のコンクリート、20億ドル(2000億円)を投じた石棺は、そのの大きさでアメリカの自由の女神像を凌いだ。
11月9日、
2号炉が運転再開。
12月、
3号炉が運転を再開。
チェルノブイリ原子力発電所を統括する企業「コンビナート」がつくられ、30km圏内の処理と管理を行うことになった。
ソ連は、巨額を原発政策に注ぎ込む一方、事故被害者への補償責任を放棄し、被害者が日々直面している被爆の現実を隠し、事故の被害を極小化を図った。
一方、原子力発電所を廃止する国もあった。
オーストリアは、事故から1ヵ月後、議会で廃止を決定。
イタリアは、事故から1年後、国民投票を行い、原子力発電所の運転や建設を禁止することを決めた。
フランス、ドイツ、イギリスでも、原子力発電所の必要性や安全性に疑問や不安をもつ人が多くなり、運転や建設に反対する声が高まった。
日本でも「反原発」という言葉が使われ始めた。
Chernobyl: Valery Legasov Tapes - Legasov's Original Own Voice HD Compilation #01
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1988年4月26日、
事故2周年にあたるこの日、51歳のヴァレリー・レガソフは自殺。
4月27日、
ヴァレリー・レガソフの遺体が自宅で発見。
5月20日、
ヴァレリー・レガソフの告白を、ソ連共産党機関紙 「プラウダ」が掲載。
-------------
ヴァレリー・アレクセーゲィチ・レガソフは「プラウダ」のためにこの手記を書いた。
現代科学技術の発展、とくに原子力発電についで思いを述べてくれるようかれに依頼したのは、昨年のことだった。
当時すぐに同アカデミー会員は、自分で「回想記」と名づけたこの手記にとりかかった。
レガソフは常に時間に追われていたので、彼は自分の考えをテープに吹きこんだ。
彼の悲劇的な死の直前、我々は彼と話をする機会があった。
「残念ながらチェルノブイリについての本はまだ少ない。
あの事故のあらゆる教訓はまだ分析されつくしていない」
と彼は述べた。
我々はレガソフを、チェルノブイリの核の炎を最初に消し止めた人の1人と呼んで間違いでないと思う。
私の考えでは彼がチェルノブイリで果たした功績は、まだ正当に評価されていない。
レガソフは、ドン・キホーテであると同時にジャンヌ・ダルクでもあった。
彼は周囲の人たちにとってなかなか厄介な、気むずかしい人物だったが、しかし人々は彼がいなければ人生にとって誰か近しい人を失ったような、空虚な感じをいただいた。
レガソフがなぜ死んだのか。
彼は人生の盛りのときに自ら死を選んだ。
その理由を理解したり説明したりすることは困難である。
我々のすべてがこの悲劇を教訓としなければならないが、またそれは、何ものにもまして平安と安泰のうえにあぐらをかいている人たちにとって、教訓とならなければならないだろう。
Ⅴ・グーバレ゙フ (「プラウダ」科学部長)
注:レガソフは 1988 年 4 月27日にピストル自殺した。
-------------
という前書きに続いて、告白文が掲載された。
-------------
50年の人生を生きただけだというのに、回想記を書かされるなど、私には思いもよらないことだった。
けれどもあれほどの大事故が起きてしまい、真っ向から対立する利害を持ち、その事件の原因についてさまざまな異なる解釈を持つ多数の人たちが、事件のかかわりをもった。
したがってここで私に求められているのは、あのできごとついて私が知り、理解し、見たことについて語ることだろう。
1986年4月26日のことだった。
土曜日ですばらしい天気だった。
大学の研究室に行くのもやめて(土曜日は私が研究室に出る日だった)、また朝10時から予定されていた党・経営活動者会議に行くのもよしにして、妻と友人とともに、どこかへ休息に出かけたいなどと思っていた。
だが私の性格と、長年の間培った習慣からして、私は党・経営活動者会議へ出かけた。
会議が始まる前に、チェルノブイリ原発で事故が起こったことを聞いた。
それを私に告げたのは、私たちの研究所を管轄している役所の幹部だった。
彼はいまいましそうな口ぶりだったが、落ち着いて話してくれた。
会議の報告が始まった。
正直にいって、その報告は決まり文句の、もう沢山というものだった。
我々の役所では万事順調でうまくいっている、業績指標はいいし、目標も立派に遂行している、といった報告には、馴れっこになっていた。
報告は勝った戦闘の報告に似ていた。
原子力発電を褒め称え、達成された大きな成果をうたい上げた報告者は、チェルノブイリで何か事故が起こったらしいことを、そそくさと付け加えた。
(チ原発は電力電化省の管轄だった)
「チェルノブイリで何かまずいことをしでかしたようです。
事故だと言っていますが、それが原発の発展をおしとどめるようなものではありません・・・・・
-------------
それはソ連への批判を含む事故の真相で、この告白を元にイギリスBBCはドキュメンタリー番組「Surviving Disaster: Chernobyl Nuclear Disaster」 を制作した。
(2006年1月24日放映)
事故2周年にあたるこの日、51歳のヴァレリー・レガソフは自殺。
4月27日、
ヴァレリー・レガソフの遺体が自宅で発見。
5月20日、
ヴァレリー・レガソフの告白を、ソ連共産党機関紙 「プラウダ」が掲載。
-------------
ヴァレリー・アレクセーゲィチ・レガソフは「プラウダ」のためにこの手記を書いた。
現代科学技術の発展、とくに原子力発電についで思いを述べてくれるようかれに依頼したのは、昨年のことだった。
当時すぐに同アカデミー会員は、自分で「回想記」と名づけたこの手記にとりかかった。
レガソフは常に時間に追われていたので、彼は自分の考えをテープに吹きこんだ。
彼の悲劇的な死の直前、我々は彼と話をする機会があった。
「残念ながらチェルノブイリについての本はまだ少ない。
あの事故のあらゆる教訓はまだ分析されつくしていない」
と彼は述べた。
我々はレガソフを、チェルノブイリの核の炎を最初に消し止めた人の1人と呼んで間違いでないと思う。
私の考えでは彼がチェルノブイリで果たした功績は、まだ正当に評価されていない。
レガソフは、ドン・キホーテであると同時にジャンヌ・ダルクでもあった。
彼は周囲の人たちにとってなかなか厄介な、気むずかしい人物だったが、しかし人々は彼がいなければ人生にとって誰か近しい人を失ったような、空虚な感じをいただいた。
レガソフがなぜ死んだのか。
彼は人生の盛りのときに自ら死を選んだ。
その理由を理解したり説明したりすることは困難である。
我々のすべてがこの悲劇を教訓としなければならないが、またそれは、何ものにもまして平安と安泰のうえにあぐらをかいている人たちにとって、教訓とならなければならないだろう。
Ⅴ・グーバレ゙フ (「プラウダ」科学部長)
注:レガソフは 1988 年 4 月27日にピストル自殺した。
-------------
という前書きに続いて、告白文が掲載された。
-------------
50年の人生を生きただけだというのに、回想記を書かされるなど、私には思いもよらないことだった。
けれどもあれほどの大事故が起きてしまい、真っ向から対立する利害を持ち、その事件の原因についてさまざまな異なる解釈を持つ多数の人たちが、事件のかかわりをもった。
したがってここで私に求められているのは、あのできごとついて私が知り、理解し、見たことについて語ることだろう。
1986年4月26日のことだった。
土曜日ですばらしい天気だった。
大学の研究室に行くのもやめて(土曜日は私が研究室に出る日だった)、また朝10時から予定されていた党・経営活動者会議に行くのもよしにして、妻と友人とともに、どこかへ休息に出かけたいなどと思っていた。
だが私の性格と、長年の間培った習慣からして、私は党・経営活動者会議へ出かけた。
会議が始まる前に、チェルノブイリ原発で事故が起こったことを聞いた。
それを私に告げたのは、私たちの研究所を管轄している役所の幹部だった。
彼はいまいましそうな口ぶりだったが、落ち着いて話してくれた。
会議の報告が始まった。
正直にいって、その報告は決まり文句の、もう沢山というものだった。
我々の役所では万事順調でうまくいっている、業績指標はいいし、目標も立派に遂行している、といった報告には、馴れっこになっていた。
報告は勝った戦闘の報告に似ていた。
原子力発電を褒め称え、達成された大きな成果をうたい上げた報告者は、チェルノブイリで何か事故が起こったらしいことを、そそくさと付け加えた。
(チ原発は電力電化省の管轄だった)
「チェルノブイリで何かまずいことをしでかしたようです。
事故だと言っていますが、それが原発の発展をおしとどめるようなものではありません・・・・・
-------------
それはソ連への批判を含む事故の真相で、この告白を元にイギリスBBCはドキュメンタリー番組「Surviving Disaster: Chernobyl Nuclear Disaster」 を制作した。
(2006年1月24日放映)
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1989年、
事故から3年、ゴルバチョフのペレストロイカは行き詰まり、ソ連共産党の権威は低下。
各国で情報公開や放射能汚染対策を求める運動が起こっていた。
ベラルーシでは、チェルノブイリ事故による放射能汚染地図が新聞で公開された。
それまで原発周辺だけとされていたが、飛び地のように200km以上離れたところに高汚染地域があって、より広大であることがわかった。
3ヵ月後、ベラルーシ政府は、11万人を新たに移住させることを決定。
その他の構成国も、独自の汚染対策と住民保障を行っていった。
そうした構成国の動きを受け、ソ連政府は、IAEAに事故による放射線の影響と汚染対策の妥当性の調査を依頼した。
1990年、
ジャトロフ元副技師長が釈放された。
事故後、ブリュハノフ所長、フォーミン技師長と共に責任を問われ、被爆による障害にもかかわらず10年の禁固刑を宣告され、キエフやポルタヴァ州で服役し、4年後、請願書や健康状態の悪さが考慮され釈放された。
その後、非常に苦しんだ末に放射線による心不全で1995年に亡くなったが、最後まで
「設計上の欠陥が悲劇を引き起こし、ソ連はこのことに対する責任を認めることができなかったので、欠陥のある機器に取り組まざるを得なかった人々を非難した」
と主張し続けた。
「原子炉は30を超える標準設計要件を満たしていなかった。
爆発には十分すぎるほどだ。
別の言い方をすると、プロテクトが解除される前には、原子炉は核爆弾のような状態に達していて、しかも警報信号はなかった。
スタッフはどうやってそれについて知ることができたか?
匂いや触れることによって?
スタッフの過失について話す前に、それについて考えてほしい。
原子炉はその緊急システムのせいで爆発した」
事故から3年、ゴルバチョフのペレストロイカは行き詰まり、ソ連共産党の権威は低下。
各国で情報公開や放射能汚染対策を求める運動が起こっていた。
ベラルーシでは、チェルノブイリ事故による放射能汚染地図が新聞で公開された。
それまで原発周辺だけとされていたが、飛び地のように200km以上離れたところに高汚染地域があって、より広大であることがわかった。
3ヵ月後、ベラルーシ政府は、11万人を新たに移住させることを決定。
その他の構成国も、独自の汚染対策と住民保障を行っていった。
そうした構成国の動きを受け、ソ連政府は、IAEAに事故による放射線の影響と汚染対策の妥当性の調査を依頼した。
1990年、
ジャトロフ元副技師長が釈放された。
事故後、ブリュハノフ所長、フォーミン技師長と共に責任を問われ、被爆による障害にもかかわらず10年の禁固刑を宣告され、キエフやポルタヴァ州で服役し、4年後、請願書や健康状態の悪さが考慮され釈放された。
その後、非常に苦しんだ末に放射線による心不全で1995年に亡くなったが、最後まで
「設計上の欠陥が悲劇を引き起こし、ソ連はこのことに対する責任を認めることができなかったので、欠陥のある機器に取り組まざるを得なかった人々を非難した」
と主張し続けた。
「原子炉は30を超える標準設計要件を満たしていなかった。
爆発には十分すぎるほどだ。
別の言い方をすると、プロテクトが解除される前には、原子炉は核爆弾のような状態に達していて、しかも警報信号はなかった。
スタッフはどうやってそれについて知ることができたか?
匂いや触れることによって?
スタッフの過失について話す前に、それについて考えてほしい。
原子炉はその緊急システムのせいで爆発した」
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1991年、
事故から5年後、ソ連政府の要請を受けたIAEAは、住民の健康状態を調査した結果
・放射能が直接に影響したと考えられる健康被害は認められない
・汚染対策はもっと甘くてもよいが社会状況を考えると現状でやむを得ない
・今後、起こり得る住民の健康被害については、将来、ガンあるいは遺伝的影響による増加があっても、それは自然の増加と見分けることは困難
と発表。
要は、汚染地域で、いろいろな病気が増加しているのは、ラジオフォビア(放射能恐怖症)による精神的ストレスが原因とした。
ベラルーシやウクライナは、抗議したが、結局、無視されてしまった。
事故から5年後、ソ連政府の要請を受けたIAEAは、住民の健康状態を調査した結果
・放射能が直接に影響したと考えられる健康被害は認められない
・汚染対策はもっと甘くてもよいが社会状況を考えると現状でやむを得ない
・今後、起こり得る住民の健康被害については、将来、ガンあるいは遺伝的影響による増加があっても、それは自然の増加と見分けることは困難
と発表。
要は、汚染地域で、いろいろな病気が増加しているのは、ラジオフォビア(放射能恐怖症)による精神的ストレスが原因とした。
ベラルーシやウクライナは、抗議したが、結局、無視されてしまった。
10年後のチェルノブイリ ベラルーシ・ウクライナの少女
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IAEAの報告に反して、深刻な事態が起きていた。
異変は、まず子供たちに起きた。
本来、100万人に1人か2人しかかからない小児甲状腺ガンが、事故から4年後の1990年から急増。
(事故後10年、800人、20年、4000人、25年、6000人と増加)
甲状腺は、全身の代謝をコントロールし、体や脳の発達に不可欠な甲状腺ホルモンをつくる重要な器官で、子供は甲状腺の細胞の分裂が大人に比べて活発だった。
事故によって放出された放射性物質の1つ、ヨウ素131は、体内に入ると甲状腺に蓄積しやすく、ガンを引き起こした。
その結果、甲状腺ホルモンの分泌異常が起き、成長期の子供の脳や体の発達が遅れてしまう恐れがあった。
チェルノブイリ型の甲状腺ガンは、通常のタイプに比べ進行が早く転移しやすい特徴があった。
このため発見され次第、すぐに手術を受け、その後、治療を受け続けなければならなかった。
汚染の高い地域ほど小児甲状腺ガンになる人が多く、ガンのタイプが通常のものと違うことから、原因は放射能の影響に間違いはなかった。
事故当日、プリピャチに来ていた少女は、10年後、甲状腺ガンと判明したとき、すでに肺と脳にも転移しており治療は不可能で14歳で死亡したり、プリピャチで被曝しキエフ市に避難した少女が26歳で脳腫瘍によって死亡したり、若い年齢で死亡する人が増えた。
また汚染地域に住む妊婦にも異変が起こった。
貧血が事故前に比べ10倍に増え、子宮内出血や早期破水など、主に母体の異常で死産や早産が多発。
出産した母親の母乳にセシウムやストロンチウムなどの放射性物質が含まれていることもあった。
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1991年3月、
ソ連政府が元リクヴィダートルへの支援を決定。
記憶力低下、うまくしゃべられない、幻覚や幻聴、、白内障、白血病、ガン、チェルノブイリから帰任したリクヴィダートルたちから深刻な症状が多く確認されていた。
にもかかわらず彼らは何の支援も補償も受けられなかった。
「生活を奪っておきながら、病気になれば事故とは関係がないといい張る。
まさに犯罪行為だった」
と声を上げる人もいた。
一方で退役軍人として扱われ年金をもらっているためか、国に尽くしたプライドのためか、国を悪くいうことをためらう人も多かった。
リクヴィダートルは、事故時に現場にいた人に次いで被ばく量が多いといわれているが、精神や脳の障害が多いのが特徴だった。
それまで脳は人体の中で最も放射能に対して耐性があるといわれていた。
元リクヴィダートルが起こすさまざまな精神症状も、原因はストレスとされた。
しかしその定説は覆された。
精神症状のある元リクヴィダートルの患者、173人を検査した結果、程度に差異はあるものの全員の脳に異常が発見された。
脳の血液の流れが悪いだけでなく、神経細胞の働きまで低下し、脳の萎縮もみられ、死亡した事故処理員の脳を解剖すると放射性物質が蓄積されていた。
作業中に大量に吸い込んだ放射性物質が血管を通って脳に入り込み、放射線を浴びせ続け、少しずつ神経細胞を破壊していった。
脳の中心部、脳幹や視床下部が破壊されると、食欲や性欲が失われたり、強い疲労感や脱力感に見舞われたり、手足の動きをうまくコントロールができなくなり、外側の脳が破壊されると知的な作業ができなくなったり、記憶力が低下した。
ソ連保険省は、事故から2年の間に事故処理に参加した1886人について8年間追跡調査した「事故処理員の後遺症と将来予測」で
・心臓病、脳、神経、精神の障害、ガンが多発している
・ガンの発病率は一般の人の3倍
・4人に1人は労働不能の状態に陥り
・30代の人がまるで50代の人のような体になっている
・事故のあった年の処理員の100%が西暦2000年には労働不能状態に陥り、平均死亡年齢は、44.5歳になるだろう
としている。
ソ連政府が元リクヴィダートルへの支援を決定。
記憶力低下、うまくしゃべられない、幻覚や幻聴、、白内障、白血病、ガン、チェルノブイリから帰任したリクヴィダートルたちから深刻な症状が多く確認されていた。
にもかかわらず彼らは何の支援も補償も受けられなかった。
「生活を奪っておきながら、病気になれば事故とは関係がないといい張る。
まさに犯罪行為だった」
と声を上げる人もいた。
一方で退役軍人として扱われ年金をもらっているためか、国に尽くしたプライドのためか、国を悪くいうことをためらう人も多かった。
リクヴィダートルは、事故時に現場にいた人に次いで被ばく量が多いといわれているが、精神や脳の障害が多いのが特徴だった。
それまで脳は人体の中で最も放射能に対して耐性があるといわれていた。
元リクヴィダートルが起こすさまざまな精神症状も、原因はストレスとされた。
しかしその定説は覆された。
精神症状のある元リクヴィダートルの患者、173人を検査した結果、程度に差異はあるものの全員の脳に異常が発見された。
脳の血液の流れが悪いだけでなく、神経細胞の働きまで低下し、脳の萎縮もみられ、死亡した事故処理員の脳を解剖すると放射性物質が蓄積されていた。
作業中に大量に吸い込んだ放射性物質が血管を通って脳に入り込み、放射線を浴びせ続け、少しずつ神経細胞を破壊していった。
脳の中心部、脳幹や視床下部が破壊されると、食欲や性欲が失われたり、強い疲労感や脱力感に見舞われたり、手足の動きをうまくコントロールができなくなり、外側の脳が破壊されると知的な作業ができなくなったり、記憶力が低下した。
ソ連保険省は、事故から2年の間に事故処理に参加した1886人について8年間追跡調査した「事故処理員の後遺症と将来予測」で
・心臓病、脳、神経、精神の障害、ガンが多発している
・ガンの発病率は一般の人の3倍
・4人に1人は労働不能の状態に陥り
・30代の人がまるで50代の人のような体になっている
・事故のあった年の処理員の100%が西暦2000年には労働不能状態に陥り、平均死亡年齢は、44.5歳になるだろう
としている。