Chernobyl 1986 チェルノブイリ原発事故 みえない放射能 英雄の戦い  国の理論
2021年7月4日 更新

Chernobyl 1986 チェルノブイリ原発事故 みえない放射能 英雄の戦い 国の理論

1986年4月26日の早朝、ソ連(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原発4号機が爆発。人類史上最悪の放射能汚染が引き起こされた。そして25年後、東京電力福島第一原発で事故が発生。事故原因は異なるものの、事故直後、体を張った現場の人たち、被害者への補償が不十分なまま再稼動させようとする原発産業と政府という構図は重なってみえる。

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1時28分、
爆発から5分後、発電所の消防隊が現場に到着。
原子炉から炎と黒煙が上がり、隣のタービン建屋や3号炉の屋根でも火災が発生していた。
消防隊長:プラヴィーク中尉(24歳)は
「まず延焼を防ぐべき」
と判断。
タービン建屋屋上の消火を開始。
1時33分、
爆発から5分後、発電所消防隊から5分遅れ、キベノーク中尉を隊長とするプリピャチ市の消防隊が到着。
原子炉建屋中央ホールの消火に着手。
放射能を恐れて消火活動を拒否する者は1人もいなかったが、途中から気分が悪くなりおう吐する者が続出。
放射線によって目の色が茶から青に変色した者もいた。
この2隊から17名が病院へ運ばれ、6人が死亡。
そのうち5人はキベノーク隊の隊員で、彼らは後から到着し被爆時間は短かったが、4号炉に近く、被爆強度が高かったためと考えられる。
もう1人は、タービン建屋の火災を鎮火させた後、キベノーク隊の応援に入ったプラヴィーク中尉だった。
救急隊も燃える炉の中から数十人もの人を助け出した。
この夜、総員186人、車両81台の消防隊が出動。
(被爆した車両は2度と使われることはなかった)
彼らの活躍で火災は夜明けまでに消された。
しかし原子炉そのものは燃え続けていた。
 (2285070)

2時30分、
爆発の7分後、ブリュハノフ所長が発電所内の緊急シェルターに到着。
「重大な放射線事故が発生したが原子炉は無事だと思うし、火事も消防隊が消しつつあり、原子炉への給水作業も進みつつある」
と報告を受けた。
3時、モスクワのソ連共産党中央委員会原子力発電部長:マリインの自宅に電話し
「事故が起こったが原子炉は無事」
と報告すると
「とにかく原子炉への給水を続けるように」
と指示を受けた。
その頃、現場では原発防衛隊が到着。
ソロビョフ隊長が持っていた線量計は250レントゲン/時まで測れるものだったが、至るところで振り切れた。
ソロビョフ隊長は、それをブリュハノフ所長に報告したが、
「ソロビョフのは故障している」
と取り合わなかった。
4時30分、
フォーミン技師長が緊急シェルターに到着。
ブリュハノフ所長同様、原子炉そのものが破壊したことを受け入れようとしなかった。
シトニコフ副技師長(45歳)は、ブリュハノフ所長とフォーミン技師長の指令を受け、事故現場の状況を確かめるため中央ホールなどをみてまわったことが死につながった。
彼は、原子炉は破壊されたと報告したが、所長らはそれを無視し、炉心への給水作業を続けさせた。
チェルノブイリ市から出張し制御室で電源テストに立ち会っていたパラマルチゥクは、運転員らと一緒に負傷者の救出に当たった。
ハリコフ市から出張していたタービン技術者のポポフも、タービン係と一緒に消火を行い、犠牲となった。
さらに原子炉建屋の外にいた女性警備員、ルズガーノフとイワニェンコも死亡。
事故当日、約300人が病院に収容され、約240人が急性放射線障害と診断され、その中には5、6号炉の建設作業員、釣り人(チェルノブイリ原子力発電所は、ドニエプル川沿いの人工湖畔にあった)も含まれていた。
事故当日に亡くなったのは31名(放射線障害28人、行方不明1人、火傷1人、病気1人)だった。
医師たちは全力を尽くし、自ら輸血に参加した医師もいた。
 (2285036)

5時、
事故から3時間半後、ウクライナの反応は早かった。
ウクライナは、ソ連(ソビエト連邦)に所属する一国で、チェルノブイリ原発は、その国土の北端にあり、首都のキエフ市は、その近くにあった。
内務省次官:ヴェルドフ少将は現場を確認すると、すぐに1000人以上の治安警察隊で周辺の道路を封鎖。
住民を避難させるためのバスをキエフ市に集めた。
7時、
原発から北西に3kmのプリピャチ市は、人口5万人の大半がチェルノブイリ原子力発電所の従業員とその家族で、独身者や子供も多く、平均年齢は26歳と若かった。
市章に原子モデルをあしらい、エレベーター完備の集合住宅、学校、病院、文化会館、室内プール、公園、スタジアム、遊園地などがある近代的な街だった。
一部の住民は発電所で事故が起きたことを把握していて、窓を閉め切ったり、外出を控えたり、自主的に避難する人もいた。
街から煙を上げる4号炉が目視でき、病院はいっぱいで、警官の数も普段より多かったが、多くの市民は、普段通り土曜日を過ごし、子供たちは(屋外活動が中止された)学校にいき、店は買い物客で賑わい、ホールでは結婚式が行われ、乳母車を押す母親や外で遊ぶ子ども多くいた。
空は晴れ渡り、アパートの屋上で4号炉を眺めながら日光浴をした人もいたが、普段よりよく焼けたという。
しかし一帯はすでに汚染されていた。
事故当日のプリピャチを撮った映像をみると、ときどき画面上の一部が白く光っていた。
強烈な放射線にフィルムが感光したためだった。
建物にも地面にも人にも放射性物質が付着していた。
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9時、
ソ連政府が専門家に招集をかけた。
ソ連軍化学部隊のピカロフ大将も、参謀総長アフロメーエフ元帥から緊急指令を受け、隊員と共に、ウクライナのハリコフ州の森の外れにある演習場から出発した。
彼らは通常訓練に加え、核兵器・化学兵器・生物兵器に備え訓練を積んでいた。
16時、
政府関係者と政府に集められた専門家たちが、モスクワ市内にあるヴヌーコヴォ国際空港国際空港を飛び立った。
彼らは、ソ連の政府委員会となった。
議長は、ソ連副首相:シチェルビナ。
メンバーは、電力電化大臣:マイオレーツ、保健省次官:ウォロビョフ、原子力産業省次官:シャシャーリン次官、原子力発電部長:マリイン、クルチャトフ原子力研究所副所長:レガソフなどだった。
1時間後、キエフに着くと空港にはウクライナの政治家が待っていて、黒塗りの公用車に乗り込み、事故現場へと向かった。
18時、
政府委員会が、プリビャチに入ると、プリビャチの党幹部に出迎えられ、中央広場の横のあった市議会の建物に入り
「第4発電所で規定を外れたタービンの慣性回転実験が行なわれ、その過程で2回の爆発が起こり、原子炉建屋が破壊されました。
数百人が放射線を浴び、2名が死亡しました。
他に市内の病院に収容されている者もいます。、
第4ブロックの放射線の状態は相当やっかいなようですが、プリビヤチ市内は、平常のレベルを大幅に上回っていますが、住民に大きな危険をもたらすまでにはいたっていません」
という報告を受けた。
数km手前からみえる原発は設備やパイプが非常に整っていて、何も放出していないようにみえた。
20時、政府委員会が事故現場に到着。
事発電所幹部とエネルギー省の幹部が出迎え、1号炉、2号炉、3号炉の運転員は勇敢にも職場を離れておらず、4号炉の中にさえ、さまざまな任務を遂行している人間がいた。
深夜1時半に事故が発生し消火作業が開始されて以来、まだ4号炉に向かって放水が続けられていて周辺は水浸しになっっていた。
政府委員会は、直ちに1~3号炉の運転停止と冷却を命じた。
そしてピカロフ大将率いる化学部隊と空軍のヘリコプター部隊が呼ばれ、4号炉を空から観測。
原子炉が完全に破壊され、原子炉室を覆っていた蓋は吹き飛ばされ、隅の方でほぼ垂直に突っ立ち、原子炉上部は完全に壊れ、断片となったり、原型をとどめたままの黒鉛ブロックが転がっていて、黒鉛の燃焼による煙が、原子炉の上にあいた穴から、数百m上空まで絶え間なく煙が立ち上っていた。
原子炉の炉心内部には、白く光るいくつかの大きな斑点がみえた。
空中視察の結果、2つの重要なことがわかった。

1.強力な放射性物質が測定され原子炉、またはその一部が働いている、つまり核分裂反応が続いている
2.4号炉の開口部から、放射性微粒子の強い流れが放出されている

黒鉛が燃焼して生じる粒子が、かなり多くの放射能を運び出す。
黒鉛の燃焼速度は通常、1時間でおよそ1t。
4号炉には2500tの黒鉛が積んであったので、240時間、燃え続け、放射能が広い地域に拡散し、強度に汚染されることになる。
政府委員会は会議を開き、まず原子炉は無事だというブリュハノフ所長ら発電所幹部の報告は偽りで、事態は極めて深刻なものであることを認めた。
そしてその後、精力的な会議が行われ、まずすべきことは

・住民の避難
・燃え続ける原子炉の火災をどうやって消すか

とした。
23時、
28名の重傷患者が、バスでプリピャチ市を出発し、キエフ空港から特別機でモスクワへ向かった。
(モスクワ第6病院は、13名に骨髄移植を行うなど努力したが、全員が2~3週間後に亡くなった)
同じ頃、
「放射線の状況はよい方向へ変化しないことが予想され、避難が必要である」
という医療と科学の専門家の強い主張を聞いて、シチェルビナ議長は、翌日にプリピャチ市の住民を強制避難させることを決定。
その後の過程で、政府委員会は、現場の人間とも会議を行った。
彼らから意見を聞くと共に、いついかなるときにどんな任務も応じられる用意をしておくことを求めた。
あらかじめ書かれた指示書も参考文献もなしに、状況を判断し、仕事の計画を立て組織化することができたのは政府委員会だけだった。
事故処理は長期で巨大なものだったため、彼らの責任と権限も非常に大きくなっていった。
 (2285314)

原子炉の消火については、大議論の末、ヘリコプターで上空から、砂を投下することになった。
ヘリコプターから砂を投下することを提案したのは、ヴァレリー・レガソフだった。
「原子炉が燃え尽きるまで待つべき」
という意見も出たが
「2500tの黒鉛が燃え尽きるまで3ヵ月かかり、1日にまき散らされる放射能は、過去のすべての原発事故で放出された量を上回るのです。
今、止めなければ、放射能は世界に拡散する」
と猛反対。
事故翌日、核分裂反応が続いているかどうか確認するため装甲車で4号炉の原子炉近くまでいったヴァレリー・レガソフは、絶えずモスクワにいるA・アレクサンドロフ(クルチャートフ原子力研究所所長)、原子力研究所の同僚たち、エネルギー省の専門家たちと連絡をとりながら進めていった。
事故翌日には、早くも諸外国から、さまざまな黒鉛火災を鎮火させる方法が、電報で提案されてきて、それらを検討した結果、温度の安定剤として2つの物質、鉛とドロマイトも投下物に選ばれた。
また研究室が設置し、ヴァレリー・レガソフはピカロフ大将の化学部隊、原発職員、専門家らと綿密に放射線の測定と管理を実施。
放射性物質の組成、その活動分布の特徴を調べ、それに基づいて対策が決められた。
しかし空気の動きの変化に伴い、4号炉の燃焼とそれに伴う物質の放出も移り変わった。
チェルノブイリ原発には、周辺数km範囲の放射線レベルを自動的に測定記録する装置がなく、測定データを得るために、多くの人を組織しなければならなかったが、放射能防護マスク、個人用線量計は必要なだけそろっていなかった。
放射線測定器を積んだ無人飛行機もなく、相当数の飛行士も必要だった。
「準備不足、無秩序、恐怖。
1941年の(ドイツのモスクワ侵攻)ようだったが、なお酷かった」
という現場で、ヴァレリー・レガソフは線量計に注意を払わないこともしばしば
「滞在は最大2週間」
とされた現場で4ヵ月間休みなく働き続けた。
すぐに放射線ヤケド、脱毛、やがて咳、睡眠障害も起こり始めた。
「自分が何をしているか、自分がどれくらいの放射線に晒されているか、よく理解していた」
ヴァレリー・レガソフは、事故処理の責任者として過酷な仕事に負けず,ソ連体制側の学者でありながら国のずさんさを鋭く批判する良心と勇気を持つ人だった。

事故後(事故翌日以降)

 (2285037)

27日12時、
事故翌日正午、プリピャチ市民は、ラジオと拡声器で、原発事故が発生したことを伝えられ、身分証明書と3日分の食料、貴重品を持って集まるよう指示された。
14時、
45000人が1100台のバスで避難。
パニックと荷物の氾濫を防ぐために、
「避難は3日だけ」
と伝えられていたが、実際に戻れたのは数ヶ月後、しかも一時帰宅だった。
プリピャチ市内の放射線量は、

26日(事故が起こった日)9時 14~140ミリレントゲン/時
27日7時 180~600ミリレントゲン/時
27日17時 360~1000ミリレントゲン/時

と上昇しており、すでにたくさんの人が高レベルの放射性物質にさらされていた。
避難先で避けられたり、
「出て行け」
と非難される人もいた。
 (2285808)

一方、現場では、ヘリコプターが4号炉へ消火物の投下を開始。
初日、110回の飛行で150tの砂袋が投下された。
高度100~200mからのぞくと、破壊された屋根が半開きのまぶたのように開いていて、その下に太陽のように熱せられた光がみえた。
クレーターからは放射能をタップリ含んだ熱気が上がってきて、投下の衝撃でさらに放射能が舞い上がり、高度110mの線量計は500レントゲン/時にも達っした。
担当したのは、キエフ軍のヘリコプター部隊。
アントキシン空軍少将は、ヘリコプターとパイロットの招集、投下する資材の確保から袋づめまで行った。
当初、袋詰めの作業員が足りず、政府要人もそれを手伝った。
「空軍、ヘリコプター部隊は実に正確に働いた。
これは高度の組織性を発揮した手本だった。
あらゆる危険を無視し、すべての乗組員がいかに困難かつ複雑な任務であろうとも、常にそれを遂行すべく努力した。最初の日々はとくに困難だった。
砂入りの袋を投下せよとの命令が出された。
なぜか地元機関は袋と砂を準備するのに十分な人数を、ただちに組織することができなかった。
乗組員の若い将校が、砂袋をヘリコプターに積み込み、飛び立ってそれらを目標に投下し、舞い戻ってきて、再び同じ作業をするのを私はこの目で見た。
もし私の記憶に誤りがなければ、その数は最初の一昼夜に数10t、次の3日目(昼夜)では数百t、最後にはアントシキン少将が夕刻の報告で、一昼夜に1100tの資材を投下したというまでになった」
(ヴァレリー・レガソフ)
 (2285315)

4月28日(事故2日後)8時30分、
チェルノブイリ原発から北西へ約1100km、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で、職員の靴からアラームが鳴るほど高線量の放射性物質が検出された。
フォルスマルク原発は、すぐに通報。
11時、
マスコミが
「フォルスマルク原発で放射能漏れ」
を報じ始め、120kmほど離れた首都:ストックホルムでも動揺が始まった。
12時、
スウェーデン国防軍の 防衛研究所は、国内7ヵ所の観測所で飛来してくる放射性物質を計測していた。
この日の朝7時に回収された観測装置のフィルターを分析器にかけられると、
「どこかの国で核戦争や核実験が起こったのかもしれない」
と思うほどの過去に例がない大量の放射性物質が検出された。
さらに詳しく分析してみると、原子爆弾ではほとんど生成されず、原子力発電で多量に生成されるセシウム-134が検出された。
13時30分、
スウェーデン政府は、フォルスマルク原発以外の国内の発電所や隣国フィンランドからも
「高い濃度の放射性物質を確認した」
という報告を受けた。
14時、
防衛研究所の要請を受け、スウェーデン気象庁は過去数日間の気象データから発生源を予測。
ソ連(ベラルーシ、ウクライナ)から放射性物質が風によって流れてきた可能性が出てきた。
スウェーデン空軍は、偵察機にサンプル収集装置6つを取りつけ、バルト海上300mを低空飛行しソ連領海ギリギリまで接近。
サンプルを分析した結果、「発生源はソ連」説が有力になった。
ときは東西冷戦中、西側に属するスウェーデン政府は、鉄のカーテンの向こうにいるソ連政府に説明を求めた。
15時30分、
フォルスマルク原発が運転を再開。
21時
ソ連政府は、
「2日前にチェルノブイリ原発で大爆発があった」
と短く発表。
世界は衝撃を受けた。
 (2286145)

4号炉から放出された膨大な量の放射性物質は、まずロシアからスカンジナヴィア、ブリテン、次に風向きが変わってチェコやドイツなどの中欧へ拡散し、やがて北半球全体へと広がった。
放射性物質は空から落ち、土、水、植物、動物、そして食品や飲料に混入し、世界中に拡散した。
ヨーロッパ各国は国民に事故による大気と土壌の汚染を説明し、窓と戸を常に閉め、できるだけ外出を控えるように指示。
するとスーパーは買いだめ客であふれた。
事故前、あるいは屋内で生産された食品が売れ、生鮮食品や汚染の恐れがあるものは残った。
国は、汚染が予想される食品は残留放射能テストが行い、安全値を越える食物や汚染された恐れのある食物は破棄し、生産者に補償金を支給。
牛乳の汚染について、イオン交換法によって汚染が中和され解決したのは15ヵ月後。
チーズなどの乳製品、肉、野菜、果物、ヨーロッパの食卓は、大きな被害を受けた。
西ヨーロッパから輸入された缶詰から放射性物質が検出されたり、東ヨーロッパから輸入された羊200頭が盲目だったり、事故現場から2000km以上離れたイギリスの羊からセシウムが検出されたり、 オランダ製の粉ミルクから放射性物質検出されたり、被害は世界中に拡散。
 (2285317)

放射性物質は、8000km離れた日本にも飛んできた。
日本で「チェルノブイリ」という聞き慣れない言葉が広まったのは、事故から3日後、4月29日の天皇誕生日。
事故1週間後の5月3日、大阪府泉南にある京都大学原子炉実験所が雨水からチェルノブイリからの放射能を初観測。
日本政府は、
「日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きない」
と説明。
連日、マスコミは放射性物質の飛来を報道。
人々は、
「大丈夫なのか?」
と心配する一方、
「仕方ない」
と通常通りの生活を続けた。
チーズやパスタなどのヨーロッパ産食品を買わなくなり、
「ヨード卵・光が放射線に効く」
「雨を浴びたらハゲる」
などといわれブランド卵や傘が売り上げを伸ばした。
甲状腺にヨウ素を蓄積させておくと放射能(ヨウ素131)を体外へ排出させるため、原子力発電所とその周辺には、ヨード(ヨウ素)を含む薬剤が配備されていた。
大阪では「放射能予防お好み焼き」というヨード卵・光とわかめをつかったメニューを出す店もあった。
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