物心ついたときには阪神ファンになっているのが関西人かもしれません。私も子どもの頃から野球は阪神と当たり前のように考えていました。
70年代のタイガース
阪神相撲部屋、などと呼ばれていた時代ぐらいからが記憶にある阪神です。70年代初頭、巨人のV9や巨人の星をやっていた時期ですね。
江夏、田淵のバッテリーはすでに太っていました。上田二郎(次郎)のピッチングフォームがとてもかっこいいと思っていました。
江夏、田淵のバッテリーはすでに太っていました。上田二郎(次郎)のピッチングフォームがとてもかっこいいと思っていました。
もっさりした走れないイメージの阪神に、新風を吹き込んだのが掛布でした。ルーキーの元気いっぱいのプレイはまさに若トラと呼ぶにふさわしく、大人気となりました。
阪神タイガース 若トラ 掛布 - YouTube
GO!GO!掛布のTシャツ買ってもらいました。懐かしいです。
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70年代後半から80年代初頭、チームは低迷。コミックがんばれタブチくんでは、後藤監督が首をつってタブチがぶら下がっているシーンが描かれたりと、弱い阪神が定着していた時代でもありました。
まさかの江夏放出、続いて田淵と、主力選手を入れ替える大型トレードが断行されました。
まさかの江夏放出、続いて田淵と、主力選手を入れ替える大型トレードが断行されました。
岡田彰布
監督としても活躍した岡田ですが、入団当初は藤山寛美に似ているなーというのが第1印象。しかし、阪神ファンの女友達は、すごいハンサムと言っておりました。男は、実力があればイケメン認定されるのかもしれません。
この頃は、とりあえずAクラスに入るということが、目標になっていたように思います。とはいえ、最下位を経験しながら、走行守のバランスをとりつつ、だんだんとチームが強くなっていったのも、逆にこの時期だったようにも思えます。
そしてバースがやってきた
バースが、阪神に入団したのは1983年。当時のプロ野球は、外国人枠が2までとなっており、阪神フロントらしいと言えばそうなのですが、無計画に選手を取って入れ替えるようなことも、時にあり、バースも83年の時点で解雇される可能性があったそうです。
ランディ・バース
持ち前の長打力と、研究熱心さから、高打率もマークするようになり、85年には3番に定着します。
ロングヒッターであることももちろんでしたが、打率の高さもすばらしかったです。当時の外人選手にありがちな(日本人的には)マナーの悪さもなく、頼りになる上にいいやつという、ほんとうに阪神の守護神のような存在でした。
ロングヒッターであることももちろんでしたが、打率の高さもすばらしかったです。当時の外人選手にありがちな(日本人的には)マナーの悪さもなく、頼りになる上にいいやつという、ほんとうに阪神の守護神のような存在でした。
あの85年。毎日野球を見るのが楽しくて楽しくてしょうがありませんでした。昨日も今日も六甲颪を歌いながら野球が終わるとか、ちょっと前まではほとんど考えられなかったことだったのです。
伝説の3連続バックスクリーンホームラン - YouTube
TVで見てました!ありえないことが起きてしまったと狂喜しました!
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1985年には掛布雅之、岡田彰布と強力なクリーンナップを形成。同年4月17日の対巨人戦、槙原寛己からのバックスクリーン3連発での1本がバースのこの年の第1号本塁打である。この年は打率.350、54本塁打、134打点の成績を残して三冠王に輝き、阪神の21年ぶりのリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。また、セントラル・リーグ初の外国人選手による本塁打王となった。
バースがバッティングボックスに立った時の期待感。そしてそれにきっちり応えてくれるバース。85年のバースは、阪神ファンにとって後光が差すような存在でした。
悲願の優勝
リーグ優勝!
序盤はとばして尻つぼみになることに慣れていた私は、阪神がリーグトップを走っていたときも、敢えて「優勝」とは考えないようにしていました。
今日も六甲颪が歌えることだけでありがとうの気分で毎日を過ごしていましたが、ペナントレースもいよいよ終わると言う頃には、祈るような気持ちで優勝してくれーと思うようになっていました。
今日も六甲颪が歌えることだけでありがとうの気分で毎日を過ごしていましたが、ペナントレースもいよいよ終わると言う頃には、祈るような気持ちで優勝してくれーと思うようになっていました。