イチロー‐95打数24安打 打率.253 5打点 0本塁打 3盗塁 OPS.581(1991年プロ入り)
via www.amazon.co.jp
5月3日に、シアトル・マリナーズのスペシャルアシスタントアドバイザー(会長付特別補佐に就任した現在44歳のイチロー。そのルーキーイヤーは、清宮がこの世に生を受ける7年前、1992年にさかのぼります。
高卒1年目から2軍で打率.366の首位打者に輝くほどの活躍を見せていたイチローでしたが、1軍での成績は上記のとおりまだ発展途上。彼の本領が発揮されるのは、この2年後の1994年。日本時代の代名詞だった「振り子打法」を完成させ、登録名を鈴木一朗から現在の「イチロー」に変更した年に、当時の日本プロ野球記録である210安打を放つなど、NPB史上最年少でのシーズンMVPを獲得する空前絶後の大活躍を見せ、その名を轟かせたのでした。
高卒1年目から2軍で打率.366の首位打者に輝くほどの活躍を見せていたイチローでしたが、1軍での成績は上記のとおりまだ発展途上。彼の本領が発揮されるのは、この2年後の1994年。日本時代の代名詞だった「振り子打法」を完成させ、登録名を鈴木一朗から現在の「イチロー」に変更した年に、当時の日本プロ野球記録である210安打を放つなど、NPB史上最年少でのシーズンMVPを獲得する空前絶後の大活躍を見せ、その名を轟かせたのでした。
松井秀喜‐184打数41安打 打率.223 27打点 11本塁打 OPS.747(1992年プロ入り)
via www.amazon.co.jp
そのイチローと共に一時代を築いた松井は、清宮同様、オープン戦でプロの速球に苦戦を強いられます。オープン戦の成績は、53打数5安打 打率.094と散々。一時期はプロの投手と対峙するのが恐いとさえ感じたといいます。
しかし、開幕後は徐々にプロの球にも対応できるようになり、終わってみればセ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打をマーク。翌1994年は高卒2年目にして全試合出場を果たし、打率.294、60打点、20本塁打の活躍を見せるなど、早くにその才能を開花させました。
しかし、開幕後は徐々にプロの球にも対応できるようになり、終わってみればセ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打をマーク。翌1994年は高卒2年目にして全試合出場を果たし、打率.294、60打点、20本塁打の活躍を見せるなど、早くにその才能を開花させました。
1993/05/02 松井秀喜 プロ初ホームラン
via www.youtube.com
立浪和義‐336打数75安打 打率.223 18打点 4本塁打 22盗塁 OPS.626(1987年プロ入り)
via www.amazon.co.jp
PL学園時代からその類まれな才能により、監督から特別扱いを受けていたという立浪和義。中日入団1年目からその能力の高さを傑出しており、開幕戦からフルイニング出場を果たすと、そのまま、遊撃手のレギュラーに定着。高卒新人としては初となるゴールデングラブ賞を獲得するなど、好守に渡って活躍し、チームのリーグ優勝に大きく貢献しました。
松井稼頭央‐204打数45安打 打率.221 15打点 2本塁打 21盗塁 OPS.549(1994年プロ入り)
via www.suruga-ya.jp
その立浪同様、PL学園で1年次から特別待遇だった松井稼頭央も、高卒2年目で1軍デビューし、打率.221、21盗塁と、偉大なる先輩・立浪に負けず劣らず、まずまずの活躍を披露。3年目に入ると全試合出場で、打率.283、50盗塁と順調な成長曲線を描いていきました。
張本勲‐418打数115安打 打率.275 57打点 13本塁打 10盗塁 OPS.765(1959年プロ入り)
via www.amazon.co.jp
エンゼルス・大谷への辛辣発言で最近何かとメディアを賑わせる張本勲ですが、偉そうなことを言うだけあって、その高卒1年目の成績はなかなかのもの。東映フライヤーズでレギュラーに定着し、6月23日からは4番に抜擢。高卒新人としては規格外の存在感を放ち、その年の新人王も獲得しました。
豊田泰光‐402打数113安打 打率.281 59打点 27本塁打 25盗塁 OPS.874(1953年プロ入り)
via www.amazon.co.jp
その張本をも上回る成績を残したのが、西鉄ライオンズ・国鉄スワローズなどで活躍したプロ野球黎明期の名プレイヤー・豊田泰光です。
高校時代から「高校No.1遊撃手」と称されていた豊田は、1953年のプロ入り1年目から、西鉄における遊撃手のレギュラーとして躍動。俊足巧打のプレースタイルを買われて、2番に抜擢されると、当時の新人選手の最多記録となる27本塁打を放ち、かつ、25盗塁を記録するなど、およそ新人とは思えない活躍を見せたのでした。
高校時代から「高校No.1遊撃手」と称されていた豊田は、1953年のプロ入り1年目から、西鉄における遊撃手のレギュラーとして躍動。俊足巧打のプレースタイルを買われて、2番に抜擢されると、当時の新人選手の最多記録となる27本塁打を放ち、かつ、25盗塁を記録するなど、およそ新人とは思えない活躍を見せたのでした。