人間山脈 アンドレ・ザ・ジャイアント
アンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant、本名:André René Roussimoff、1946年5月19日 - 1993年1月27日)は、フランス・グルノーブル出身のプロレスラー。
公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされ、北米では "The 8th Wonder of the World"(世界8番目の不思議)、日本では「大巨人」などの異名で呼ばれていました。
圧倒的な体格もさることながら、アームロックなどのレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる巨人レスラーとして、世界各地で活躍したレスラーです。
初来日は国際プロレス。「モンスター・ロシモフ」時代。
初来日は1970年、国際プロレスに「モンスター・ロシモフ」のリングネームで来日しました。
この頃はまだ線が細く、カール・ゴッチに投げられたりサンダー杉山のヒップドロップの餌食になっていたりしていたのですが、フィニッシュホールドとしてここ一番の時に使用していたツームストン・パイルドライバー等巨体のアドバンテージを生かしたいくつかの技には、この当時から危険な香りを漂わせていたようです。
残念ながらツームストン・パイルドライバーは、ターザン・タイラーを頸椎損傷に追い込んだアクシデントの後、自ら封印してしまいましたが、この頃から170キロ前後の体重が200キロ以上にまで増え、いよいよ敵うものが居なくなってきます。
そしてWWFを経て1974年に新日本プロレスに主戦場を移したあたりから、怪物レスラーとして本領を発揮することになります。
アントニオ猪木でもフォール出来ない最強のライバルとして、70~80年代の日本マットで「無冠の帝王」の名を欲しいままにしてきたのです。
この頃はまだ線が細く、カール・ゴッチに投げられたりサンダー杉山のヒップドロップの餌食になっていたりしていたのですが、フィニッシュホールドとしてここ一番の時に使用していたツームストン・パイルドライバー等巨体のアドバンテージを生かしたいくつかの技には、この当時から危険な香りを漂わせていたようです。
残念ながらツームストン・パイルドライバーは、ターザン・タイラーを頸椎損傷に追い込んだアクシデントの後、自ら封印してしまいましたが、この頃から170キロ前後の体重が200キロ以上にまで増え、いよいよ敵うものが居なくなってきます。
そしてWWFを経て1974年に新日本プロレスに主戦場を移したあたりから、怪物レスラーとして本領を発揮することになります。
アントニオ猪木でもフォール出来ない最強のライバルとして、70~80年代の日本マットで「無冠の帝王」の名を欲しいままにしてきたのです。
アンドレVSハンセン 伝説の田園コロシアム決戦!
得意技はヒッププッシュ、ヒップドロップ、そして230kgの全体重で相手を押しつぶすジャイアント・プレス。
また、自分の体重を巧みに使ったレスリングテクニックの上手さは特筆するべきものであり、他の巨漢レスラーにないものでした。
対猪木、対ホーガン等名勝負も多いアンドレですが、その中でも伝説の名勝負と称されたのが、この1981年に東京田園コロシアムで行われた対スタン・ハンセン戦。
このド迫力のスーパーバトル、戦った両者にとってもベストバウトの呼び声の高い試合です。
またこの年にはレネ・グレイとのタッグで「第2回MSGタッグリーグ戦」に優勝しています。
このタッグリーグ、コーナーでフランス語で小声で指示を飛ばすレネ・グレイのコントロールで、ほとんどハンディキャップマッチと呼べる無類の強さを発揮し、大本命の猪木、藤波組を破って堂々の優勝を飾っています。
ちなみに、このレネ・グレイという人、かつてはカール・ゴッチのパートナーとしてWWWFタッグチャンピオンにもなった実力者らしいのですが、「アンドレに指示を飛ばす謎のフランス人」といった風体で妙な存在感を放っていたことも記憶に残っております。
また、自分の体重を巧みに使ったレスリングテクニックの上手さは特筆するべきものであり、他の巨漢レスラーにないものでした。
対猪木、対ホーガン等名勝負も多いアンドレですが、その中でも伝説の名勝負と称されたのが、この1981年に東京田園コロシアムで行われた対スタン・ハンセン戦。
このド迫力のスーパーバトル、戦った両者にとってもベストバウトの呼び声の高い試合です。
またこの年にはレネ・グレイとのタッグで「第2回MSGタッグリーグ戦」に優勝しています。
このタッグリーグ、コーナーでフランス語で小声で指示を飛ばすレネ・グレイのコントロールで、ほとんどハンディキャップマッチと呼べる無類の強さを発揮し、大本命の猪木、藤波組を破って堂々の優勝を飾っています。
ちなみに、このレネ・グレイという人、かつてはカール・ゴッチのパートナーとしてWWWFタッグチャンピオンにもなった実力者らしいのですが、「アンドレに指示を飛ばす謎のフランス人」といった風体で妙な存在感を放っていたことも記憶に残っております。
ジャイアント・マシーン
アンドレに関する珍?エピソードとして外すわけに行かないのが「ジャイアント・マシーン」への変身でしょう。
将軍KYワカマツ率いる「マシン軍団」の新メンバーとしてマスクド・スーパースターの変身であるスーパー・マシーンと共に登場したジャイアント・マシーン。
結果的に1シリーズだけの企画に終わりましたが、この世界最大のマスクマンは大当たり!
アンドレ自身もノリノリで、後にWWFマットで再登場するという予想外のサプライズを生みました。
将軍KYワカマツ率いる「マシン軍団」の新メンバーとしてマスクド・スーパースターの変身であるスーパー・マシーンと共に登場したジャイアント・マシーン。
結果的に1シリーズだけの企画に終わりましたが、この世界最大のマスクマンは大当たり!
アンドレ自身もノリノリで、後にWWFマットで再登場するという予想外のサプライズを生みました。
謎のシュートマッチ。疑惑の前田戦。
そして、アンドレを巡る逸話と言えば1986.4.29津市体育館での「前田VSアンドレ」戦に触れないわけには行かないでしょう。
何の前触れも無く、突如地方試合で組まれたこのカード。
当初から「アンドレは前田にセメントを仕掛けるつもりだ」という噂が選手の間に流れるなど、不穏な空気が流れておりました。
それでも、試合当初は普通のプロレスをしていたのですが、アンドレはロープの反動を使って突進してきた前田に対し、”セメントモード”で容赦なくエルボーを顔面に叩き込んだり、己の全体重(約236kg)を浴びせて、前田をガブり、前田を「コ」の字状の、極めて窮屈な体勢を強いらせるなど明らかにプロレスの枠を超えた攻撃を浴びせかけるのです。
その後も全圧力をかけ、前田の背後からフルネルソンで絞り上げるなど、前田危機一髪の状況が続きます。
並みのレスラーならこの時点で簡単にギブアップするのですが、身体が人一倍柔軟な前田は、何とかこれを耐え忍びます。
その後も一進一退の展開が続きますが、不穏な試合に決着をつけるべく前田が遂に反撃に出ます。
腕ひしぎ十字固めやアキレス腱固めは、思ったほどの効果を上げられなかったものの、当時まだ正式名称のなかったヒール・ホールドでアンドレの左膝を破壊。
これにはさすがにアンドレも、グラウンドからスタンディングに移行した後、かすかに左足をかばい出しました。
やがて前田は、リングサイドで見ていた星野勘太郎に「本当に(セメントを)やっちゃっていいんですか?」と一応の確認をした後、覚悟を決め、重いローキックや、膝の皿にブチ込むセメント仕様の関節蹴りを多用、ついにアンドレを戦闘不能に陥れます。
そしてノー・コンテストの裁定が下った後、大の字で戦意喪失の大巨人アンドレに対し前田が問い詰めます。
それに対しアンドレは、
「This is not my business.」
俺のしわざじゃない、と手を広げて弁明したのです。
日本プロレス史上に残る謎の試合は、こうして幕を閉じました。
黒幕は猪木説、坂口説など様々な憶測が飛びましたが、真相は未だに明らかにされておりません。
また、アンドレにとってもこの試合がターニングポイントとなりました。
セメントで前田を仕留められず、逆に試合放棄に追い込まれるという失態を見せたことで「アンドレ最強伝説」に初めて陰りが見えた試合となったのでした。
何の前触れも無く、突如地方試合で組まれたこのカード。
当初から「アンドレは前田にセメントを仕掛けるつもりだ」という噂が選手の間に流れるなど、不穏な空気が流れておりました。
それでも、試合当初は普通のプロレスをしていたのですが、アンドレはロープの反動を使って突進してきた前田に対し、”セメントモード”で容赦なくエルボーを顔面に叩き込んだり、己の全体重(約236kg)を浴びせて、前田をガブり、前田を「コ」の字状の、極めて窮屈な体勢を強いらせるなど明らかにプロレスの枠を超えた攻撃を浴びせかけるのです。
その後も全圧力をかけ、前田の背後からフルネルソンで絞り上げるなど、前田危機一髪の状況が続きます。
並みのレスラーならこの時点で簡単にギブアップするのですが、身体が人一倍柔軟な前田は、何とかこれを耐え忍びます。
その後も一進一退の展開が続きますが、不穏な試合に決着をつけるべく前田が遂に反撃に出ます。
腕ひしぎ十字固めやアキレス腱固めは、思ったほどの効果を上げられなかったものの、当時まだ正式名称のなかったヒール・ホールドでアンドレの左膝を破壊。
これにはさすがにアンドレも、グラウンドからスタンディングに移行した後、かすかに左足をかばい出しました。
やがて前田は、リングサイドで見ていた星野勘太郎に「本当に(セメントを)やっちゃっていいんですか?」と一応の確認をした後、覚悟を決め、重いローキックや、膝の皿にブチ込むセメント仕様の関節蹴りを多用、ついにアンドレを戦闘不能に陥れます。
そしてノー・コンテストの裁定が下った後、大の字で戦意喪失の大巨人アンドレに対し前田が問い詰めます。
それに対しアンドレは、
「This is not my business.」
俺のしわざじゃない、と手を広げて弁明したのです。
日本プロレス史上に残る謎の試合は、こうして幕を閉じました。
黒幕は猪木説、坂口説など様々な憶測が飛びましたが、真相は未だに明らかにされておりません。
また、アンドレにとってもこの試合がターニングポイントとなりました。
セメントで前田を仕留められず、逆に試合放棄に追い込まれるという失態を見せたことで「アンドレ最強伝説」に初めて陰りが見えた試合となったのでした。
そして最後に全日本プロレスへ。馬場との大巨人タッグ結成!
その後、猪木からギブアップを奪われた1986年のIWGPを最後にWWFマットに専念する形で新日マットからフェードアウト。
そしてWWFをお払い箱になった1990年、アンドレが最後の戦い場所に選んだのが、なんと!ジャイアント馬場率いる全日本プロレスでした。
1990年4月13日に東京ドームで開催された日米レスリングサミットにて久々に日本マットに登場し、ジャイアント馬場と大巨人コンビを結成。同年9月30日、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは全日本プロレスへ主戦場を移し、1990年、1991年と世界最強タッグ決定リーグ戦には馬場との大巨人コンビで出場し、1991年には準優勝しています。
しかしコンディションはどんどん悪化して行き、やがて馬場や木村のファミリー軍団に加わり、悪役商会との明るく楽しいプロレスが中心となって行きました。
この当時のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスとなり。全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールを浴びせられる人気者として迎えられていました。
そしてWWFをお払い箱になった1990年、アンドレが最後の戦い場所に選んだのが、なんと!ジャイアント馬場率いる全日本プロレスでした。
1990年4月13日に東京ドームで開催された日米レスリングサミットにて久々に日本マットに登場し、ジャイアント馬場と大巨人コンビを結成。同年9月30日、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは全日本プロレスへ主戦場を移し、1990年、1991年と世界最強タッグ決定リーグ戦には馬場との大巨人コンビで出場し、1991年には準優勝しています。
しかしコンディションはどんどん悪化して行き、やがて馬場や木村のファミリー軍団に加わり、悪役商会との明るく楽しいプロレスが中心となって行きました。
この当時のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスとなり。全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールを浴びせられる人気者として迎えられていました。
稀代の怪物レスラー。仰天エピソード。
仰天エピソード
稀代のビール党。
アンドレのビール好きは有名。1ダースは余裕で1日に60本くらい飲む事もあった。晩年こそ身体を考えてワインを飲む様にしていたが、全盛期にはこんなエピソードもある。
新日本プロレス、北海道巡業の時、札幌ビール園に出かけていき、生ビールを大ジョッキで56杯。ジンギスカン焼肉を11人前ぺロリと平らげて、平気な顔をしていた。
札幌ビール園は飲み放題、食べ放題だが、あまりの食事ぶりにビール園からもうやめてくれと断られてしまった。
もし、そのまま続けていたら更に食べ続けていただろう。
もちろん、大食いが出来ればいいという訳ではないが、こういう一般人にはまず真似の出来ない驚愕な事を軽く成し遂げたからこそ、昔のプロレスラーは恐れられ、そして尊敬されたのだろう。
今もこうした怪物レスラーが出てきて欲しいものである。
アンドレには、このような仰天エピソードが山のようにあります。この常人離れしたエピソードの数々もアンドレの魅力の一つだったのですが、やがて自らのプロレス寿命、そして彼の命をも縮めてしまうことのなります。
ただ暴飲暴食だけは辞めなかった。
特に酒に関しては生涯辞めることはなかった。
それが原因でコンディションを落としたと指摘する者もいる。
ある時は車で800km移動する間に缶ビールを118本飲み、到着後更に5ガロン(約19リットル)のワインを飲み干したという。
ある時はアンドレともうひとりのレスラー二人で一度に瓶ビールを136本空けたという。
ある時は飛行機の機内にあったビールをなんと全部アンドレが飲み干してしまい、他の乗客からクレームがついたという。
ある時はビール園で大ジョッキ89杯を空け、空港で50分でビール108本を空け、ホテルのバーでビール327本を空けたという。
またビールだけでなくワインも飲んでいたという。白ワインが好みで、水のように飲み干していたという。
アンドレのライバルの一人であるハルク・ホーガン曰く「アンドレの誕生日の際に、移動バスにワイン1ダースをプレゼントとして用意したら、出発から2時間半で全部空けてしまった」と証言している。
酒が原因で晩年は歩行すらままならない状態となり、移動にバギーバイクを使用していた。
アンドレの人間離れしたエピソードは数々ありますが、暴飲暴食によって選手寿命どころか命さえも縮めてしまいました。
最晩年の馬場とのタッグ、もっと見たかったです・・・
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