90年代屈指の悪名高き助っ人「メル・ホール」を知っているか?
2020年5月10日 更新

90年代屈指の悪名高き助っ人「メル・ホール」を知っているか?

良い意味で記憶に残る外国人は数知れず。その一方で、悪い意味で記憶に刻まれてしまった助っ人も少なくない。 ロッテ・中日に在籍していた野手、メル・ホールもその一人。愛甲猛が「史上最低の野球選手」、小宮山悟が「はらわた煮えくり返った」、山崎武司が「僕の中で、助っ人としてNo.1にダメだった人」と酷評した悪名高き同選手は、いったい、どんな悪行を働いていたのか?今回、振り返っていきたい。

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ヤンキースの4番も務めた1流メジャーリーガーだったメル・ホール

はじめに断っておくが、ホールは決して助っ人外国人選手として結果を出せなかったわけではない。むしろ、かなりの好成績を残している。

ホールがロッテに入団したのは、1993年のこと。当時、2年連続最下位と暗黒期を迎えていた同球団の救世主として迎えられた。

ホールのメジャーリーグにおける実績は際立っていた。そのキャリアは、高校卒業後の1978年、MLBドラフト2巡目でシカゴ・カブスに指名されて契約したところから始まる。メジャーのドラフト制度は、1巡目から40巡目まで。その2巡目で指名されているあたり、どれほど将来を嘱望されていた選手だったかわかるというものだろう。

その後、1981年にメジャーデビュー。その後、クリーブランド・インディアンス、ニューヨーク・ヤンキースと渡り歩き、主に4番打者として活躍した。

ロッテ移籍初年度はチーム四冠王を獲得!

ロッテ入団時はまだ32歳。この時点で、メジャー通算1168安打、615打点、134本塁打を達成し、前年はヤンキースの主軸打者として、打率.280、15本塁打、81打点の好成績を残していた。正真正銘、一線級の現役メジャーリーガーだ。そんなホールに球団も出し惜しみせず、推定年俸2億2000万円で獲得。当時高給取りの代名詞だった落合博満の年俸が2億5000万円だったことを考えると、破格の条件と言える。

その大きな期待にホールも応える。入団初年度には打率.296、30本塁打、92打点、21盗塁で、チーム四冠王に。下馬評通りの活躍をして見せた。94年にも引き続きロッテで活躍するも、オフに就任したボビー・バレンタイン監督の構想から外れて退団。95年シーズンは中日ドラゴンズでプレーし、96年のサンフランシスコ・ジャイアンツ移籍を機にNPBを去っている。
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Mel Hall - 1989 Fleer - 来日外国人(ロッテ/中日) メル・ホール

ロッテ移籍初年度はチーム四冠王を獲得!

このように、助っ人としての働きは申し分なかったのだが、ホールはとにかく素行が悪く、なによりも日本球界を見下していた。

ホールは守備が不得手で、ロッテ時代は基本的に指名打者としての出場。それをいいことに自分の打席が終わると、さっさとクラブハウスに戻ってテレビゲームに興じ、自分の出番が近づくとシレっと手袋をしてネクストバッターズサークルに入っていたという。こうしたホールのプロとは思えない舐め腐った態度に、当時のチームメートだった小宮山と愛甲は憤慨し、後年、冒頭で紹介したようなコメントを残したというわけだ。

さらにホールには、自分の実績を鼻にかけ、同じ助っ人外国人をいじめるというマウント癖があった。最大の標的にされたのは、ヤンキース時代の同僚・ミューレン。ヤンキースの主力級だったホールに対して、ミューレンは同球団で1軍とAAAを行ったり来たりするマイナーリーガーとメジャーリーガーの中間にあたる選手だった。その格の違いをいいことにホールは、ロッテでも同僚となったミューレンのロッカーを破壊し、使いっ走りにするなど、子供じみたいじめを繰り返したのだった。当時のロッテ監督・八木沢荘六から2度も注意されるも、いじめをやめることはなかったという。
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1991 Donrussレギュラー# 31ヘンスリー・ミューレンス、ニューヨーク・ヤンキース野球カード
ホールは95年に中日に移籍すると、同じ年にヤクルトへ移籍したミューレンをいじめるべく、ヤクルト戦のたびにわざわざ敵軍ベンチを訪れてたというから、執拗極まりない。加えて、中日の同僚、アロンゾ・パウエルにも不遜な態度を取っていたらしく、よほど他人を虐げることが好きな性分なのだろう。

未成年へのわいせつ行為によって懲役45年。今も塀の中に……

プロ野球選手引退後、女子バスケットボール・チームのコーチをしていたホールだったが、1998年~1999年の間に、複数の未成年の選手をレイプ。2007年6月に逮捕されると、2009年には懲役45年の判決が下ることに。仮釈放にも22年と4ヶ月を要するため、現在も塀の中にいる。

ちなみに、ホールが見下していたミューレンは引退後、母国オランダの代表監督として第3回、第4回のWBCに出場。2017年オフにはヤンキースの新監督候補に最終まで残り、現在はニューヨークメッツのベンチコーチを務めている。

一方は母国の英雄で、一方は囚人……「憎まれっ子世に憚る」というが、ホールとミューレンのキャリアを見ていると、最後のところではその限りでなさそうだ。もっとも、ホールがク〇過ぎるだけかもしれないが……。
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