清原和博!  甲子園の怪物!! 史上最強のバッター!!!
2019年8月10日 更新

清原和博! 甲子園の怪物!! 史上最強のバッター!!!

清原和博は、小学3年生で入ったリトルリーグから甲子園まで、野球の記録を破り続けた。

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岸和田のお祭り男

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清原和博は、1967年8月18日、大阪府の岸和田で生まれた。
岸和田は、「だんじり祭り」で有名な城下町。
4tもあるだんじりを、なぜか猛スピードで急カーブさせたりするため死人が出ることもある。
この地の泉州弁は大阪弁より早口でキツく、強面で一般的にガラの悪いといわれるが情の深い町である。
清原は過激な任侠映画が好きだったというが、
「お祭り男」
「だんじりファイター」
などというニックネームは、甲子園やオールスター、日本シリーズなどの大舞台でこそ力を発揮し、サヨナラホームラン、サヨナラヒットがプロ野球史上1位であることなどからつけられた。
いかにも岸和田らしい清原は生まれたときから4200gとデカかった。
大の阪神タイガースファンである父親の清文氏は「東芝ストアー 清原電気商会」という店を構え外で電気工事の仕事をし、大の巨人ファンの祖父が店番をしていた。
母親の弘子氏も巨人ファンだった
清原は昼は巨人のキャップをかぶって、寝るときは、パジャマは母親手作りの背番号1の王貞治パジャマと3の長嶋茂雄パジャマがあり、その日活躍した方を選んで寝た。
岸和田市立八木南小学校では、授業中、長時間ジッとすることができず、隣の席にちょっかいを出したり、前の席に消しゴムをぶつけたりした。
そして教師に怒られ廊下に立たされても、すぐにおちょけ、再び怒られた。
やがて
「先生、トイレに行きたいです」
というと授業中に教室を脱け出せるという裏技を発見。
そのまま学校探検に出かけ、授業が終わるまで教室に戻らなかった。
しかし
「校庭で遊んでいる人、すぐに教室に戻りなさい」
と学校放送され、清原のクラスでは「授業中はトイレ禁止」ルールがつくられた。
そのせいでおもらししてしまう子が続出した。
校庭でボール遊びをしていてボールを拾いにいったとき、勢いよく漕いでいたブランコを衝突。
額が割れ流血したが、
「ブッチャーや」
と人気プロレスラーだったアブドラ・ザ・ブッチャーの真似をしてみんなを追い回した。
このころから体の痛みには強く、一見、鈍感、そして心は繊細だった。

エースで4番、完全試合、3打席連続ホームラン。

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体がデカくて力が強く、やりたい放題だった清原がとんでもない悪ガキにならずに済んだのは、1枚のポスターのおかげだった。
『岸和田リトルリーグ 部員募集』
そのポスターを発見した小学3年生の清原は武者震いがした。
学校で自分でかなうものはいないが、岸和田全体ではどうなのか?
力試しがしたかった。
リトルリーグは、アメリカ発祥で、ベースとベースの塁間は野球より短く、イニング数は原則6回まで、投手には球数制限がある。
毎年4~6月に全国12地区で予選があり、7月に予選を勝ち抜いた12チームで日本一を争われる。
そして毎年8月、アメリカのペンシルベニア州ウィリアムズポートで、アメリカの各地区代表8チーム、日本代表、アジア・オセアニア・中東代表、カナダ代表、ラテンアメリカ代表、カリブ海代表、メキシコ代表、ヨーロッパ・アフリカ代表、オーストラリア代表の8チームがそれぞれ予選リーグを戦い、1位同士が対決し世界一を決める。
岸和田リトルリーグの練習グラウンドは、実家から自転車で30分、岸和田の埋め立て地帯にあった。
祖父が運転する自転車の荷台に乗り、その入団テストに挑んだ。
テストは50m走と遠投。
受けるのは4年生と5年生ばかりだったが、3年生の清原は圧倒した。
50m走で岸和田リトルリーグの過去最高記録を破りトップ。
遠投の合格ラインは40m。
過去最高記録54m。
清原は70mを投げた。
グラウンドは、シーンと静まり返り、その後どよめきが起こった。
1週間後、合格通知が届いた。
以後、野球漬けの毎日が始まった。
岸和田リトルリーグの休みは月曜だけ。
土日はもちろん、火~金曜日は学校後、夜遅くまで練習だった。
清原は月曜も河原に行き、ビニールテープを巻いた角材をバット代わりにして石コロを打った。
ピッチャーが投げるボールをみてからスイングしたのでは間に合わない。
ボールがそこに来たとき、バットがそこに出ていなければジャストミートは生まれない。
だからバットを振りはじめるときには、どこにボールが来るか知っていなければならない。
その0.何秒を、肉体的、感覚的に把握できなければならない。
清原和博のバッティングは、力やフォーム、技術に加え、そういう本能的なものも鍛えたものだった。
下半身にタメをつくって、左足で地面を思い切り踏ん張って、0.何秒先にボールが存在するべき空間めがけてバットを走らせる。
全身の感覚で読み切ったその場所でバットの芯がボールの芯を迎えた。
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リトルリーグには、試合に出られるのは4年生の2学期からという規定があり、清原は4年生の9月にレギュラーに選ばれた。
周囲は5、6年生ばかりで4年生レギュラーは1人だけで、ポジションはピッチャーだった。
5年生になると清原はエースで4番になった。
ピッチングについては
「小学生から小手先の変化球など覚えたら将来に響く」
と直球を指導され、下半身を鍛えるため毎日ランニングやダッシュを繰り返した。
あるとき、ヒットを打たれ、頭にきてしまいフォアボールを連発し1点を失った試合があった。
与えたのはその1点のみで、清原は4安打を放った上、完投し、チームは2対1で勝った。
「ヒットを打たれたのは仕方ない。
でもヒットを打たれ頭に来たのは自分のことしか考えていないからだ。
野球は1人でするものではない。
お前の投げる1球はお前1人で投げているんじゃない。
内野も外野もベンチの補欠も含めて全員で投げてるんや。
失投で自分を見失うのは、それを知らないということや」
試合直後、清原は怒られ、100本ノックが課された。
途中、脱水症状を起こし倒れ、病院で点滴を受け、グラウンドに戻って再開した。
バッティングも、センター返しを指導され、できるだけ遠くに飛ばそうとひっぱってレフト方向にホームランを打っても
「バットは内側から外側に出すんや。
そんな打ち方では大振りになるだけや」
と怒られた。
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(ホームラン打って怒られてたらやってられへん)
チームプレーに徹し、その結果味わえる歓喜を学び知りながらも、清原は球場にいる全員が驚くようなホームランを打ちたくて仕方なかった。
大きなホームランを打つと、ゾクゾクと喜びが沸き上がった。
そしてダイヤモンドを回ってベンチに戻るとみんなに頭や背中を叩かれ、再び人生の喜びを味わった。
テレビで阪神タイガースの田淵幸一のホームランをみれば
「どうすればあんな大きなホームランを打てるのだろう」
と思い、756本のホームランを打って世界記録を樹立した王貞治のバッティングの分解写真が雑誌に掲載されていると、切り抜き部屋に張り
「王さんは左利きだから・・・」
と鏡に映してそのフォームを真似た。
王は清原のヒーローだった。
後年、清原は拘置所で王の本を読むことになるが、ボールにバットを当てて弾き返すのではなく
「刀でボールの芯を切り進み、真っ二つにする」イメージで打っていたり、
1年で当時、最多となる55本のホームランを打ったときも
「今まで以上にしごいてください」
とコーチに頭を下げたことなどを知り、自分との違いに驚くことになる。
こうして小学生の清原は毎日、何百回と素振りを繰り返し、頭の中はバッティングのことでいっぱいで、寝ていてもよくバットを振る夢をみた。
よく夢の中でバッティングのアイデアを思いついたため枕元にバットを置いて寝るようになった。
(こう振ればいいのかも!)
思いついたときに枕元にバットがあれば実際に振って確かめられるが、翌朝になると忘れてしまうからだ。
「人が与えられた時間は1日24時間。
それは誰だって同じなわけで、その24時間でどれだけ自分を成長させられるかが勝負。
自分は24時間のすべてを野球に打ち込めばいい」
清原が6年生のとき、岸和田リトルリーグは関西秋季大会でベスト4に進出。
この中にピッチャーとして完全試合を成し遂げた。
岸和田市立久米田中学校に進学すると、野球もシニアリーグ
(中学1~3年生で構成され、塁間やルールは大人とと同じだが、イニング数は7回)
に進み、2年生のときに全日本大会で2位となった。
シニアリーグではバッターとして、大阪の藤井寺球場で3打席連続ホームランという記録をつくった。
シニアリーグ最後の試合は、神宮球場で行われた全国大会の決勝戦だった。
清原は、浜松シニアの浜崎淳と投げ合い1点差で負けた。
浜崎とは、後(1985年、高校3年生のとき)に再戦することになる。

PL

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シニアリーグを全日本2位で終えた清原の次の目標は、高校野球で日本一になること、つまり「甲子園」だった。
北海道から沖縄まで全国の高校からお誘いがあった。
奈良県天理市出身の母親は、息子を天理高校に入れるために天理教に入信。
「どんな悩みがあって入信されるのですか?」
担当者に問われ
「いや、わたしに悩みはないんです。
ただ息子をここの高校に入れたいので入信させてもらいたいんです」
と答えて担当者を笑わせた。
しかし中学3年生の夏休み、岸和田シニアリーグの練習をみていたPL学園の関係者が、
「ウチに来たら彼はきっといい選手になりますよ」
と進言。
すぐに清原は父親と車で富田林市まで見学にいった。
正面入口の守衛所を抜けると、そこに街があった。
PL(パーフェクト リバティー)教団の本部だった。
天に向けた人差し指の形をしたPLタワー、PL学園、PLランド、そして病院やゴルフの練習場なども敷地内にあった。
PL学園野球部を訪ねると、緑の芝と高い金網のフェンスに保護された大きなグラウンドに屋根つきの雨天練習場と部員寮(研志寮)が隣接していた。
その施設に清原は一目惚れした。
(ここしかない)
また天理紅絳は部員が多く1年生は球拾いだったが、PLは1年生も練習をしていた。
(これはイケるかもしれない)
こうして清原の志望校は天理高校からPL学園に変更された。
天理教に入信していた母親は、すぐに謝りに行った。
「息子をここに入れてもらうつもりで入信させてもらったんですけど、実はその息子がPL学園に行くと言い出しまして・・・
息子がPL学園を志すからには私もPL教に入信しようと思ってます。
勝手いうて悪いんですけどやめさせてもらいます」
また母親は、
「野球だけで入ったと人からいわれたら悔しいから」
と清原を塾に入れた。
しかし息子が、いつも1番前の席に座って居眠りしているのがわかると、娘(清原の姉)に家庭教師を命じた。
そして小学3年生からシニアリーグが終わるまで野球漬けだった息子が遊びに走ってしまうのを恐れ、中学校から帰ってくるとすぐに実家近くの久米田池を6周、約20㎞を走らせた。
こうして清原はPL学園に合格した。
PL学園の受験は、英語や数学などの試験もあったが「21ヵ条のPLの教え」を丸暗記すれば合格だった。
PL学園野球部員は、全員、寮に入らなければならず、家には年末年始以外、帰れず、電話も手紙も禁止。
そして年末年始以外は練習日だった。
入寮するために父親の車で送られているとき、清原は外の景色を真剣に眺め、目印となりそうな建物を覚えようとした。
これまで家と学校とグラウンドの往復だけで、1人では電車に乗れないので、厳しい練習に耐えられず逃げ帰るときは歩くしかなかったからだ。
バッグの底に隠し持った10円玉20枚も公衆電話を探して家に電話し迎えに来てもらうためのものだった。
入寮式後、27名の1年生は、「指導員」の3名の2年生の先輩から、「絶対にしてはいけない3ヵ条」やたくさんの決まり事についてレクチャーを受けた。
絶対してはいけないことの3ヵ条は、嘘、ケンカ、陰口だった。
入寮して1週間後に入学式があったが、初練習は入寮翌日からだった。
1年生は指導員と一緒に別メニューをこなした。
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研志寮は、8人部屋が8室あり、1、2、3年生が共同生活をするため、特に1年生は安らげない。
また1年生には仕事があり、
「炊事当番」、
「ロッカー当番」、
「風呂当番」
の3班に分けられた。
炊事当番は、練習が終わると基本的に食堂にいき、食事中の世話やが食後の片付けを行い、全員が食事を終わるまで食堂を出られない。
基本的に、食事は事前に用意されている通常メニューがあった。
しかし先輩に
「チャーハンつくって!」
といわれた
「はい!」
と人気メニュー「PLチャーハン」をつくらなければならない。
まず卵を炒めて、いったん別の皿にあげる。
強火のフライパンにマヨネーズとご飯を投入。
塩こしょう、テーブルガーリックで味を調え、卵を戻し、醤油を加え、混ぜ炒めたら完成。
マヨネーズとソースを混ぜておかずにつけたり、鶏肉や豚肉を砂糖醤油炒めも人気があった。
1年生は、追加メニューを作ることはできても食べることは許されず、通常メニューしか食べられない
醤油とソースは常備されていたが、砂糖とマヨネーズは2週間に1度の買い物のときに入手しなければならず、1年生が強制的に買わされた。
買い物は2週間に1度、PLの敷地内にある小さなスーパーに全員揃っていく。
所持金は2000円。
先輩は、お菓子やアイスクリーム、ウインナー、カップラーメン、卵、ジュースなど、好きなものを買えるが、1年生は、マヨネーズ、塩こしょう、テーブルガーリック、砂糖などを買わなければならない。
また1年生はよく便箋を買った。
ポケベルも携帯電話もない時代。
寮の電話が使えるのは先輩だけで、1年生の外部との連絡法は手紙しかない。
親や友達に手紙を書いては返事を心待ちにした。
ロッカー当番は、練習終了後、ボールがグラウンドに落ちてないかチェックし、ノック用、バッティング練習用などボールに分け、内野ノック用ボールなどは、ユニフォームにこすりつけるなどして、ビカビカに磨かなければいけなかった。
風呂当番は、全員が風呂に入ったあと、掃除をした。
ちなみに1年生は、お風呂に入っても湯船につかること、シャンプーを使うこと、バスタオルを使うことは禁じられ、清原は大きな体を小さなタオルでふいた。
この仕事は、毎週、ローテーションで変わった。
また寮内では「付き人制度」がしかれ、1年生は、毎日、数名の担当の先輩のユニフォームの洗濯、スパイク磨き、ご飯の用意、夜間練習の相手を行った。
仕事は深夜にまで及ぶこともあった。
手紙で惨状を知った実家は、靴下の中にキャラメルを入れて送ったが、清原は洗濯機が回っている間、その靴下をはいてトイレに行き、先輩や同級生がいないのを確認してからドアを閉め、靴下の中から取り出して食べた。
食べた後は甘い匂いを消すためにトイレの水道で口をゆすいだ。
先輩後輩の上下関係は厳格で、下級生はちょっとした言葉遣いで厳しく怒られ、基本的に1年生は、上級生に対して「はい」と「いいえ」しか使えなくなった。
寮内で何かをしでかしたり、やらかすことを「事件」、事件が重なり集合がかかることは「説教」と呼ばれ、1つの部屋に集められ全員正座。
V字腹筋、空気イスなどのトレーニング、手や足が飛ぶこともあった。
まだ体力的に未熟で練習にも慣れていない下級生は、グラウンドでは意識朦朧で練習し、学校では死んだように寝て、寮では熟睡すらできない緊張の日々を繰り返した。
当然、脱落者も出たが、去っていく戦友より、自分の仕事の量が増えることが気になった。
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「起床、起床、起床の時間です。
皆様おはようございます。
起床の時間です。
尚、5分後に全員Bグラウンドに集合してください」
6時、寮にアナウンスが響き、PL学園野球部の1日が始まる。
1年生は、起床コールの前に起きて、洗濯物をたたんだり、朝ご飯の準備を行う。
コールが鳴った時点で布団の中にいたら大事件となる。
そうならないために目覚まし時計で起きるが、その音で同部屋の先輩を起こしてしまうと怒られてしまう。
起床コールから5分後、サブグラウンドで朝練が始まり、体をほぐしながらグラウンドを走る。
その後は朝食。
ご飯、味噌汁、漬物。
たまに納豆。
7時30分、2㎞離れた学校に登校。
その後、5時間、授業を受ける。
野球部員は体育の授業以外は睡眠に充てた。
しかし桑田真澄だけは真面目に授業を受けていた。
14時、授業が終了すると寮まで帰る。
1年生は、グラウンド整備があるので走って帰った。
まず鉄のとんぼで土を柔らかくし、その上から木のとんぼをかけ、ラインを引き、水をまいた。
そして15時、練習開始。
練習時間は、冬は3時間、夏は4時間程度。
まずはウォーミングアップとして、ランニング、体操、ストレッチ、腹筋、背筋、スクワット、バービー、腕立て伏せなどのトレーニング、キャッチボール。
それらが終わればシートノック(各選手が各守備位置につき、ノックを受ける守備練習)。
各ポジションに4~5人くらい選手がいて、順番にボールを受ける。
続いて2ヵ所にゲージ(バッティングピッチャーを打球から保護するネット)を置きバッティング練習。
ウォーミングアップやバッティング練習では、リラックスするためにグラウンドに音楽が流された。
バッティング練習が終わると全員でグラウンド整備。
最後にランニングをして終わる。
このランニングは、
「100mmダッシュ17秒以内を20本」
「5周走6分以内5本」
と周回数やタイムが日替わりで決められた。
例えば、グラウンドを5周を6分と設定されると、全員がその時間内にゴールできないと何周か追加された。
19時、寮に戻り食事。
20時半、全員で寮内掃除。
その後は自由時間となるがほとんどの部員が、素振り、ティーバッティング、筋力トレ、ランニングなど自主練習を行った。
レギュラーは9人、大きな大会でベンチに入れるのは18人。
熾烈な争いにみんな必死だった。
そして2、3年生は23時頃に就寝。
1年生は先輩が寝た後、担当のユニフォーム洗濯。
寮にある洗濯機の数が限られているので、激しい洗濯機争奪戦が繰り広げられ、敗れると深夜まで順番待ちをして、洗濯物を干して乾燥室を出るのは24時を過ぎた。

ライバル 桑田真澄

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DVD映像で蘇る高校野球不滅の名勝負 vol.2 1983年夏決勝PL学園VS横浜商


清原はそれまで自分よりすごい選手に会ったことはなかった。
しかしPl学園に入って生涯のライバルと出会った。
桑田真澄である。
桑田も清原同様、中学では4番でエースだった。
しかし清原はそのピッチングをみて衝撃を受けた。
(こいつには勝てない)
そんなことを感じたのは初めてだった。
監督からいわれるまでもなくピッチャーは諦めた。
練習で桑田は200球も300球も投げさせれた。
キャッチャーは構えた位置からミットを動かさない。
コントロールが狂うとボールはキャッチャーの後方にいく。
すると桑田はダッシュで拾いに行き、ダッシュでマウンドに戻る。
投げる、外す、走るをフラフラになるまで繰り返した。
「ピッチャーやめてよかったわ」
そういって清原は仲間を笑わせたが、内心は
(負けられん)
と思っていた。
しかも桑田は1年生としての仕事や先輩のパシリが終わった後、深夜、1人黙々とグラウンドを走った。
「僕は、清原や他の選手より体が小さい。
みんなと同じことをやっているようではダメだ。
2倍も3倍も練習しないと……」
そして清原も、素振りを行った。
「あいつが先にあがるまで、バットを振り続けてやる……」
桑田真澄と清原和博は、3年間、すっと同じ教室で席は隣同士だった。
野球部の寮の部屋も隣同士。
仲は良く、共に野球バカだったが、性格は正反対。
清原は明るく、桑田は無口。
清原は番長。
桑田はケンカの止め役。
桑田は勉強好きで、熱心に授業を受けたが、清原は寝ていた。
清原を中心に同級生がみんなでワイワイしていても、桑田は1人ポツンとしていた。
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