清原和博!  甲子園の怪物!! 史上最強のバッター!!!
2019年8月10日 更新

清原和博! 甲子園の怪物!! 史上最強のバッター!!!

清原和博は、小学3年生で入ったリトルリーグから甲子園まで、野球の記録を破り続けた。

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グラウンドでは実力主義。
先輩後輩は関係ない-ハズだが、清原が練習でホームランを打つと厳しいかわいがりを行う先輩もいた。
標的にされるのを嫌った清原は、打球が飛びにくいライト方向に打つようにした。
それでもだんだんライト方向にもホームランが出るようになり、わざと全力でバットを振らないこともあった。
いかに目立たないように工夫した結果、スイングがコンパクトになり、全方向に打つことができるようになった。
やがて清原の打球は、高いフェンスの上を超え、何度も寮のガラスを破壊した。
そのためフェンスの上にさらにネットが張られ
「キヨハラネット」
と呼ばれた。
5月、沖縄の興南高校との練習試合に清原は代打で出場。
ピッチャーは、後に阪神タイガースに入る仲田幸司だった。
1打席目はデッドボール。
カーブが全然みえず足に当たった。
2打席目は、とにかくストレートを狙い、2塁打を放った。
6月、夏に向け、練習時間も、質も上がっていった。
練習中は一滴も水を飲むことは禁じられた。
夏の甲子園に向け、レギュラー陣の練習が苛烈になり、その他の者はそのサポートに徹した。
7月中旬、夏の甲子園の大阪地区予選が始まった。
1回戦から、入学約3ヵ月の1年生の清原はレギュラーに大抜擢された。
しかも打順は4番だった。
(ポジションはファースト)
桑田も4回戦で吹田高校を2安打に抑え完投し、それまでは控え投手だったが、この試合以後、事実上のエースとなった。
7月31日、決勝戦が行われ、PL学園は大阪予選を制した。
翌日、8月1日にはPLの花火大会が行われた。

1年生の夏に甲子園初出場し初優勝

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清原は初めて甲子園に立った。
(自分のせいで負けたらどうしよう)
1年生の清原がレギュラーになったことで、厳しい練習に耐えてきた先輩が1人、最後の夏にメンバーから外された。
清原は、自分のエラーや打てないことで上級生の夏が終わってしまうことを恐れた。
そして神経性の下痢になった。
PL学園は、1回戦で所沢商業、2回戦で中津工業、3回戦で東海大一高、準々決勝で高知商業を下し、ベスト4に進出。
準決勝の相手は、夏春2連覇中の池田高校。
清原は、水野雄仁(巨人ジャイアンツ)に4打席4三振。
桑田は、ホームランを打った上(この大会で桑田は2ホーマー)、池田高校に1点も与えず、PL学園は7対0で圧勝した。
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1983年の夏の甲子園の決勝戦は、PL学園 vs 横浜商業だった。
清原は1打席目にホームランを打った。
甲子園第1号だった。
そしてチームも3対0で勝ち、優勝した。
決勝戦後は、勝っても負けても甲子園の土を持って帰るのが恒例行事だったが、清原はそれをしなかった。
(来年も必ずここに来る)
清原と桑田は、「KKコンビ」と呼ばれ、毎日、練習グラウンドには、たくさんのマスコミと観客、そして女性ファンが来るようになった。
しかし清原も桑田もレギュラーになったからといって特別扱いはなく、1年生として寮での雑用や仕事をこなし、試合に出るということを繰り返した。
決勝戦の前日も夜の洗濯をしていた。

甲子園は清原のためにあるのか!

清原和博が輝いていたPL学園時代『甲子園は清原のためにあるのか!』

夏の甲子園が終わると9月上旬の春のセンバツの予選に向けて練習が始めった。
大阪大会の3位以内に入り近畿大会に進み、大阪、兵庫、奈良、京都、和歌山、滋賀から選ばれた16校の中から7校が甲子園行きの切符を手にする。
11月にすべての大会が終わり2月1日にセンバツ出場校発表。
3月下旬から、春のセンバツが始まる。
こうして地獄のような1年が過ぎ、2年生のなると新入部員が入ってきて仕事から解放される。
洗濯もスパイク磨きも食事の用意も、全部後輩がしてくれる。
「3年神様、2年平民、1年奴隷」
といわれ、耐えて続けていれば、部屋でお菓子を食べたり、ウォークマンを聴いたりできるようになっていく。
ただしレギュラー争いは激化し、焦りと不安は増大していく。
清原と桑田は、1年生の夏の甲子園から3年間、春夏すべての甲子園に出場し、優勝2回、準優勝2回というすごい戦績を残した。
しかし1983年、1年生の夏に優勝した後は
1984年春 - 決勝敗退
1984年夏 - 決勝敗退
1985年春 - 準決勝敗退
と2年生の春から3年生の春までは頂点に立つことはできなかった。
1年生は抑圧され、必死に耐え、気づかないうちに優勝していたが、2年生になり解放されると逆に甲子園で勝つことが難しくなった。
1985年の夏の甲子園は、最後のチャンスだった。
春の甲子園の準決勝で、3三振、1四球に終わった清原は、毎日、素振りの数を増やし、ピッチングマシンもいつもより前に出して速球を打つ練習を始めた。
「精一杯やったか?」
「悔いはないか?」
日々自分に問いかけた。
結局、清原和博には、科学的なトレーニングや練習の効果、合理的な技術ではなく
「自分はこれだけやった」
という自信を武器にするタイプの男だった。
1回戦はシードで不戦勝。
2回戦、東海大山形、29対7。
3回戦、津久見高校、3対0。
準々決勝、高知商業、6対3。
準決勝、甲西高校、15対2。
そして決勝戦は、宇部商業高校だった。
清原は2打席目にレフトスタンド前のラッキーゾーンにホームランで同点に追いつき、3打席目もセンターのバックスクリーン左横にホームランを叩き込み、再度同点にした。

PL学園 KK最後の夏…優勝を決めた主将・松山のサヨナラ打

そしてPL学園は、4対3で9回裏を迎え、サヨナラ勝ちした。
清原にとって2度目の甲子園優勝だった。
決勝戦だけで2本、準々決勝から決勝に5本のホームランを放った清原は、植草貞夫アナウンサーに
「甲子園は清原のためにあるのか!」
と実況された。
高校での甲子園の通算成績は

26試合
91打数40安打 
打率.440 
ホームラン13本

となった。
高校通算では64本のホームランを打った。

運命のドラフト会議

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このときも清原は甲子園の土を持ち帰らなかった。
(来年からは1年に何度もここに来る)
超楽観的な清原は自分のプロ入り、また巨人に入ることを疑っていなかった。
このときの巨人は王貞治監督の2年目。
1983年に優勝したが、王貞治が監督になった1984年、1985年は2年連続で3位に低迷していた。
清原は子供のころから目標だった王が監督になったことに運命を感じていた。
「オレが王監督を助ける!」
王貞治が
「清原君が木のバットで打つ姿が見たい」
とコメントしたことを知ると甲子園の後に行われた国体で清原は木のバットを使用した。
そして国体後、巨人への入団希望を報道陣の前で発表した。
清原と桑田は卒業後も野球を続けるため、国体後もPL学園のグラウンドで練習を続けた。
そのときに1度だけ進路について話し合った。
「俺はプロ野球に行く。
第1志望は巨人や」
清原がいうと、桑田は
「早稲田大学に進む」
といった。
11月のドラフト会議までに各球団のスカウトが清原に接近したが、その中には巨人もいた。
「もしウチが1位指名したら来てくれますか?」
「はい、よろしくお願いします」
うれしくて飛び上がりそうになりながら清原と両親は3人で頭を下げた。
ドラフト会議において、ある選手を複数の球団が指名した場合、交渉権はクジ引きで決まる。
仮に12球団が指名すれば、その確率は1/12となる。
指名された選手は意中の球団でなければ入団を拒否できる。
例えば江川卓は、1973年に阪急ブレーブスに1位指名されたが拒否して法政大学へ進学、1977年に福岡クラウンライターライオンズに1位指名され拒否してアメリカ留学、1978年に巨人に入団した。
清原は、もし巨人が交渉権を獲得できなければ、阪神。
それもなければ社会人野球(日本生命)に進むつもりだった。

王貞治 KKドラフトの真相を語る

1985年11月20日、ドラフト会議当日、清原は授業を受けていたが、居ても立ってもいられなくなり、こっそり教室を脱け出し、PL教の聖地の1つである奥都城へいった。
すると偶然が必然か、両親もそこに来ていた。
「お前が巨人に入れますようにってお祈りしとこうと思ってな」
親子そろって手を合わせた。
(ジャイアンツが1番クジを引いてくれますように)
3時間目の授業中、教師から知らせが入った。
「巨人の1位指名は桑田や!」
桑田は、巨人に指名されたらプロ入り、指名されなければ早稲田大学へ進学と決めていた。
うれしかったが、清原を傷つけないように下を向いた。
清原は校長室に呼ばれ、ドラフト会議の録画をみながら説明を受けた。
6球団から1位指名を受けたが、その中に巨人はいなかった。
そして清原との交渉権を得たのは西武ライオンズだった。
関西人の清原は西武が関東のチームであることはわかったが何県なのか知らなかった。
そして巨人が1位指名したのは桑田だった。
清原と桑田は別々の部屋で記者会見を行った。
『西武が交渉権を得ましたがいつ知りましたか?』
「授業中に聞きました」
『現在、どういう心境ですか?』
「・・・・・・」
『気持ちの整理はついていますか?』
「いまはついていません」
『西武に対するイメージは?』
「日本一にもなられたしいいチームだと」
『巨人に指名されなかったことについては?』
「いまはなにもいえません」
『聞きにくい質問なんですが、清原君が1番望んでいた巨人が、桑田君を指名したことについては?』
「いまは考えたくないです」
巨人に指名されなかったこと、大学に行くといっていた桑田が実は巨人を志望し、それを教えてくれなかったことが悔しくて悲しくて、清原は涙を流した。
その後、密かに桑田が巨人を蹴ることを期待していたが、早稲田大学進学を取り消して巨人と契約を結んだことを聞いて再びショックを受けた。
小学3年生から野球を始めて18歳にして初の挫折だった。
清原は桑田を、そして王を憎んだ。
ドラフトにおいて巨人は1位から4位まですべてピッチャーを指名していた。
2年連続で優勝から遠ざかっていた巨人に必要なのはピッチャーだった。
しかし清原は、毎日、王の写真を目の前においての腕立て伏せ200回を開始した。
当時はまだFA(フリーエージェント、自由契約選手となり国内外どの球団とでも契約交渉ができる)制度がなかったため、いつか巨人を倒し自分を指名しなかったことを後悔させることが1つの目標となった。
卒業式のとき、桑田はしゃべりかけようとしたが清原は無視。
マスコミに握手をして2ショット撮影をリクエストされたときも目は合わせなかった。
しかし桑田の手の温かさに心が痛かった。
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