桑田真澄 桑田ロード、すなわち野球道 小さな体をした真のエース
2019年10月4日 更新

桑田真澄 桑田ロード、すなわち野球道 小さな体をした真のエース

本来、「すみませんでした」という謝罪は「澄みませんでした」 ということ。そういう意味で桑田真澄はほんとうに澄んだ男なのかもしれない。数字や勝ち負けなどの結果や巨額の年俸がクローズアップされやすいプロ野球において、「結果はクソ」とプロセス主義を貫き、「試練や困難は自分を磨くための砥石」「努力している自分が好き 」と自分を磨くこと「人間力」を上げることを人生の価値とした。そしてライバル清原和博同様、スケールの大きな、そして好対照な野球道を歩んだ。

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リアル巨人の星

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桑田真澄に初めて野球をやったのは小学低学年の頃。
教えたのは父親(桑田泰次)だった。
父親は、キャッチボールで、息子の返球を、自分の体の正面に来た球しか捕らず、外れたボールは
「取ってこい!」
と取りに行かせた。
トスバッティングも、自分が投げたボールを、息子がノーバウンドかワンバウンドで自分に打ち返さなければ、取りに行かせた。
桑田真澄は、うまく投げ返されなかったり、打ち返せないと、その度、ボールを取りにいった。
桑田真澄のグローブは、父親が綿を全部抜いたためペラペラだった。
ペラペラのグローブでは痛いので、ネットの部分で捕球すると父親は怒った。
痛くても、ちゃんと真ん中で
「パンッ」
と音が鳴るように捕るように教えた。
桑田真澄は、小学校2年からソフトボールチームに入り、いきなり6年生のAチームに入った。
小学4年からは少年野球に入り、ここでもすぐにAチームになった。
年上のチームに1人上がると、妬みからか、イジメに遭遇した。
桑田は小中高と通じて、常にイジメられ、そしてへこたれない一匹狼だった。
父親は野球が好きで好きで仕方ない人だったが、仕事は長続きせず、よく酒を飲み、ケンカもした。
家では食卓をひっくり返し、モノを投げつけた。
そしてやがて離婚し、姿を消した。
桑田真澄も小学校ではワルかった。
ケンカと野球ばかりして、勉強は全くせず、テストは0点ばかり。
母親はしょっちゅう学校に呼び出された。
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中学進学時、成績は230人中、220番だった。
しかし桑田真澄は、ここから勉強をし始めた。
そして成績は上がっていった。
ケンカと野球ばかりだった小学生は、勉強と野球ばかりの中学生となった。
これは後にPL学園高校で進んでからも続き、成績は常にクラスで2番か3番だった。
中学の野球部でも1年生からAチームだった。
朝練は、まず、ランニングをグラウンド5周。
次に、タイヤを引いて5往復。
それからキャッチボール。
夕方の練習は、ランニングをグラウンド10周。
そしてタイヤを引いて走ってから野球の練習がは始まった。
部活が終わってヘトヘトで家に帰り、食事をして、素振りやランニングなど自主練習を行った。

PL学園

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桑田真澄は、PL学園高校に進学した。
PL学園の受験は、英語や数学などの試験もあったが「21ヵ条のPLの教え」を丸暗記すれば合格だった。
PL学園野球部員は、全員、寮(研志寮)に入らなければない。
家には年末年始以外、帰れず、電話も手紙も禁止だった。
そして年末年始以外は練習日だった。
入寮式後、27名の1年生は、「指導員」の3名の2年生の先輩から、「絶対にしてはいけない3ヵ条」を含む多くの決まり事についてレクチャーを受けた。
絶対してはいけないことの3ヵ条は、嘘、ケンカ、陰口だった。
入寮して1週間後に入学式があったが、初練習は入寮翌日からだった。
1年生は指導員と一緒に別メニューをこなした
研志寮は、8人部屋が8室あり、1、2、3年生が共同生活をするため、特に1年生は安らげない。
また1年生には仕事があり、
「炊事当番」
「ロッカー当番」
「風呂当番」
の3班に分けられた。
炊事当番は、練習が終わると基本的に食堂にいき、食事中の世話やが食後の片付けを行い、全員が食事を終わるまで食堂を出られない。
基本的に、食事は事前に用意されている通常メニューがあったが、先輩に
「チャーハンつくって!」
といわれたら
「はい!」
とつくらなければならない。
1年生は、追加メニューを作ることはできても食べることは許されず、通常メニューしか食べられない
醤油とソースは常備されていたが、砂糖とマヨネーズは2週間に1度の買い物のときに入手しなければならず、1年生が強制的に買わされた。
買い物は2週間に1度、PLの敷地内にある小さなスーパーに全員揃っていく。
所持金は2000円。
先輩は、お菓子やアイスクリーム、ウインナー、カップラーメン、卵、ジュースなど、好きなものを買えるが、1年生は、マヨネーズ、塩こしょう、テーブルガーリック、砂糖などを買わなければならない。
また1年生はよく便箋を買った。
ポケベルも携帯電話もない時代。
寮の電話が使えるのは先輩だけで、1年生の外部との連絡法は手紙しかない。
親や友達に手紙を書いては返事を心待ちにした。
ロッカー当番は、練習終了後、ボールがグラウンドに落ちてないかチェックし、ノック用、バッティング練習用などボールに分け、内野ノック用ボールなどは、ユニフォームにこすりつけるなどして、ビカビカに磨かなければいけなかった。
風呂当番は、全員が風呂に入ったあと、掃除をした。
ちなみに1年生は、お風呂に入っても湯船につかること、シャンプーを使うこと、バスタオルを使うことは禁じられ小さなタオルでふいた。
この仕事は、毎週、ローテーションで変わった。
また寮内では「付き人制度」がしかれ、1年生は、毎日、数名の担当の先輩のユニフォームの洗濯、スパイク磨き、ご飯の用意、夜間練習の相手を行った。
仕事は深夜にまで及ぶこともあった。
先輩後輩の上下関係は厳格で、下級生はちょっとした言葉遣いで厳しく怒られ、基本的に1年生は、上級生に対して「はい」と「いいえ」しか使えなくなった。
寮内で何かをしでかしたり、やらかすことを「事件」、事件が重なり集合がかかることは「説教」と呼ばれ、1つの部屋に集められ全員正座。
V字腹筋、空気イスなどのトレーニング、手や足が飛ぶこともあった。
まだ体力的に未熟で練習にも慣れていない下級生は、グラウンドでは意識朦朧で練習し、学校では死んだように寝て、寮では熟睡すらできない緊張の日々を繰り返した。
当然、脱落者も出たが、去っていく戦友より、自分の仕事の量が増えることが気になった。
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「起床、起床、起床の時間です。
皆様おはようございます。
起床の時間です。
5分後に全員Bグラウンドに集合してください」
6時、寮にアナウンスが響き、PL学園野球部の1日が始まる。
1年生は、起床コールの前に起きて、洗濯物をたたんだり、朝ご飯の準備を行う。
コールが鳴った時点で布団の中にいたら大事件となるので、目覚まし時計で起きるが、その音で同部屋の先輩を起こしてしまうとこれも事件となった。
起床コールから5分後、サブグラウンドで朝練が始まり、体をほぐしながらグラウンドを走る。
その後は朝食。
ご飯、味噌汁、漬物。
たまに納豆。
7時30分、2㎞離れた学校に登校。
その後、5時間、授業を受ける。
野球部員は体育の授業以外は睡眠に充てた。
しかし桑田真澄だけは真面目に授業を受けていた。
14時、授業が終了すると寮まで帰る。
1年生は、グラウンド整備があるので走って帰った。
まず鉄のとんぼで土を柔らかくし、その上から木のとんぼをかけ、ラインを引き、水をまいた。
そして15時、練習開始。
練習時間は、冬は3時間、夏は4時間程度。
まずはウォーミングアップとして、ランニング、体操、ストレッチ、腹筋、背筋、スクワット、バービー、腕立て伏せなどのトレーニング、キャッチボール。
それらが終わればシートノック(各選手が各守備位置につき、ノックを受ける守備練習)。
各ポジションに4~5人くらい選手がいて、順番にボールを受ける。
続いて2ヵ所にゲージ(バッティングピッチャーを打球から保護するネット)を置きバッティング練習。
ウォーミングアップやバッティング練習では、リラックスするためにグラウンドに音楽が流された。
バッティング練習が終わると全員でグラウンド整備。
最後にランニングをして終わる。
このランニングは、
「100mmダッシュ17秒以内を20本」
「5周走6分以内5本」
と周回数やタイムが日替わりで決められた。
例えば、グラウンドを5周を6分と設定されると、全員がその時間内にゴールできないと何周か追加された。
19時、寮に戻り食事。
20時半、全員で寮内掃除。
その後は自由時間となるがほとんどの部員が、素振り、ティーバッティング、筋力トレ、ランニングなど自主練習を行った。
レギュラーは9人、大きな大会でベンチに入れるのは18人。
熾烈な争いにみんな必死だった。
そして2、3年生は23時頃に就寝。
1年生は先輩が寝た後、担当のユニフォーム洗濯。
寮にある洗濯機の数が限られているので、激しい洗濯機争奪戦が繰り広げられ、敗れると深夜まで順番待ちをして、洗濯物を干して乾燥室を出るのは24時を過ぎた。

「桑田だけもう200回」

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PL学園高校の野球部に入る中学生は、みんな全国的なチームのエースか4番バッターだった。
桑田真澄は、中学時代、チームのエースとして大阪の田舎の地区大会で優勝したが、PLではピッチャーとして目立たず外野手に回され球拾いをしていた。
ある日、ノックを受けて、外野から返球する桑田をみて、再びピッチャーに戻すよう監督に進言したのは、清水一夫だった。
清水一夫は、報徳学園などで監督をし、PL学園高校野球部には、臨時コーチとして来ていた。
フェンス際をベルトに手を突っ込んで前かがみで歩いている清水一夫を桑田は
(けったいなおじんやな)
と思っていた。
清水一夫は、投手陣が集まりスクワットを100回やり終えたときも、
「はい、桑田だけもう200回。
他の者は数を数えてやれ」
と指示した。
投球練習では自らキャッチャーとなり桑田に200球も300球も投げさせた。
そして構えた位置からミットを動かさず、コントロールが狂うとボールはキャッチャーの後方にいく。
すると桑田はダッシュで拾いに行き、ダッシュでマウンドに戻る。
桑田は、投げる、外す、走るをフラフラになるまで繰り返した。
練習後、1年生の桑田には、炊事や洗濯の仕事があったが、それが終わると清水一夫に呼ばれ、全身をマッサージさせられた。
マッサージの後は、ローソクに火をつけ、それが消えるまで、タオルを握ってのシャドーピッチング。
最初は殺意を抱いた桑田だったが、やがてマッサージは「指の力」を養うためのものだと気づく。
握力ではなく指の力。
握力が強いから肩を壊さないということはないが、指の力が強いと肩を壊しにくい。
「コントールが良ければ変化球はいらん。」
と清水一夫は、桑田に、ストレートのコントロールをつけることだけを教えた。
こうして指も腕も脚も鍛えられた桑田真澄は、やがて1年生でレギュラーとなり、ストレートとカーブだけで、3年間、甲子園を沸かせることになる。

ライバル 清原和博

 (2142433)

桑田真澄も清原和博も中学まではエースで4番で、それまで自分よりすごい選手に会ったことはなかった。
しかし清原は桑田のピッチングをみて衝撃を受けた。
(こいつには勝てない)
監督からいわれるまでもなくピッチャーは諦めた。
桑田も清原に同様のことを思った。
「僕は、清原君より体が小さい。
同じことをやっているようではダメだ。
2倍も3倍も練習しないと……」
そして1年生としての仕事や先輩のパシリが終わった後、深夜、1人黙々とグラウンドを走った。
清原も素振りを行った。
「あいつが先にあがるまで、バットを振り続けてやる……」
お互いに思っていた。
(負けられん)
桑田真澄と清原和博は、3年間、すっと同じ教室で席は隣同士だった。
野球部の寮の部屋も隣同士。
仲は良く、共に野球バカだったが、性格は正反対。
清原は明るく、桑田は無口。
清原は番長、桑田はケンカの止め役。
桑田は勉強好きで熱心に授業を受けたが、清原は寝ていた。
清原を中心に同級生がみんなでワイワイしていても、桑田は1人ポツンとしていた。

自信を持つこと、感謝すること、謙虚におごらないこと、三位一体。

 (2142434)

野球の試合で、大差で勝っていて楽勝ムードが漂うと、笑顔と楽しい会話が行われやすい。
しかし桑田真澄は、味方が点数をとればとるほど気を引き締める。
点差が開くほど笑顔をみせない。
おごりや油断を恐れる。
自信を持つこと、感謝すること、謙虚におごらないこと。
この3つの気持ちの三位一体を強調する。
自信を持ちながら、おごらず、謙虚な気持ちを持ちながら・・・
この3つが、うまくかみ合うときにいい野球ができるという。
例えば、バッターに打たれたときも、桑田真澄は、
「ボールが甘いところに行ったから打たれた。」
とは思わない。
「バッターをなめてかかったからミスをした。」
と反省する。
すべては自分の気持ちのミスだと反省するのだ。

1年生で甲子園出場 KKコンビ誕生

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