2017年3月27日 更新
【北島三郎】北島ファミリーを率いる演歌会の大御所でありながら、「サブちゃん」と呼ばれ慕われるこの人は、後継者問題で悩んでいるって本当?!
紅白歌合戦のトリといえば、この人「北島三郎」。山本譲二や歌手の小金沢君などを率いて演歌会を驀進していました。しかし、娘がとある弟子と恋に落ちたことで、だんだんと雲行きが怪しくなって…?そんな疑惑をのぞいてみましょう。
北島三郎
北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年(昭和11年)10月4日 - )は、日本の演歌歌手、俳優、作詞家、作曲家、馬主。
『函館の女』に始まる「女」シリーズ、『兄弟仁義』などの「任侠」シリーズなど、数多くのヒット曲がある。
一般にはサブちゃんという愛称で呼ばれているが、原 譲二(はら じょうじ)のペンネームでも知られ、自身の楽曲の作詞・作曲ばかりでなく自身の舞台のシナリオ・演出や、北島ファミリーはじめ、他の演歌歌手への楽曲提供など、マルチな活動を精力的に行っている。
北島三郎、デビューまでの道のり
北島三郎は、北海道上磯郡知内村の産まれです。北海道函館西高等学校時代に、海で溺れた小学生を救助したという逸話があります。この人命救助の件は当時の『函館新聞』にも掲載され、その記事が函館市の北島三郎記念館に飾られています。
そんな高校在学中に函館で開催された『NHKのど自慢』に出場します。この時、鐘はたった2つでしたが、司会の宮田輝から「良い声して学生さんですか?お上手でしたのにねえ…」と優しく声をかけられたことで、「歌をやれば歌手の道あるかな?」と思うようになったそうです。
上京、そして結婚
1954年、17歳で高校を中退し、東京の親族を頼って上京しました。最初こそ東京声専音楽学校に入学し、通っていましたが、歌謡曲志向であったので、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指します。
この頃に北島が当時都内で下宿していたアパートの大家の娘であった雅子と結婚します。1959年11月30日、挙式。北島がレコードデビューする約3年前の挙式でした。北島は定収がなく、雅子の両親から結婚を反対されていた為、結婚式に出席したのは両家あわせて21人だけした。
作曲家、船村徹との出会い
1960年、流しの収入は3曲100円でしたが、ある日羽振りのいい客が1000円を出してくれました。北島はお礼を言いもう1曲歌うと「明日、新橋の○○って喫茶店で待っているから来なさい」と声をかけられました。実はその人は北島の評判を聞きつけた日本コロムビアの芸能部長で、その喫茶店で待つ相手は、作曲家、船村徹だったのです。
1961年、ある日のレッスン前、船村から「今日から他の歌はいいからこの歌を歌え、この歌を勉強しろ。」と譜面を渡される。これが後に最初のヒット曲となった『なみだ船』でした。
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