この試合でPL学園が作った記録
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この試合が後世にもたらした意味。
ちなみにこの屈辱的な大敗を喫した山形県では、県議会で「どうしてこんなに弱いのか」という議題があがったほどで、この後、指導者を招くなど強化策を導入した。これがようやく、実を結んだのは05年の春。羽黒が山形県勢として春夏を通じて初めてベスト4に進んだ。高校野球の地域格差を解消させる方向へと動き出すきっかけとなった試合だったといえるかもしれない。
テレビだけ見ていては、山形県に住んでいる人、山形県出身の人はあまりの負けっぷりに情けなくなった人も多かったのではないかと思います。
県議会にまでこの議題が上がったというのもわかります。
県議会にまでこの議題が上がったというのもわかります。
山形県代表は夏の甲子園大会において初戦敗退するケースが非常に多く、1978年・第60回大会以降初戦突破したチームは延べ12校のみである。特に1985年・第67回大会の東海大山形は、初戦(2回戦)で優勝したPL学園(大阪)に、甲子園大会(春・夏共に)において史上唯一の毎回得点を許すなどで、結果スコアは「7-29」という歴史的な大敗の屈辱を味わった(かつて山形県勢は、1973年・第55回大会の日大山形が夏の甲子園で初勝利する迄「初戦13大会連続敗退」の不名誉な記録が続いていた。尚初戦13連敗は青森県勢・秋田県勢と同じワーストタイ記録)。
2006年・第88回大会では日大山形が3回戦で、今治西(愛媛)戦で延長13回の末11x-10で逆転サヨナラ勝ちを収め、山形県勢としても夏の甲子園で初のベスト8進出を果たす。準々決勝では優勝した早稲田実(西東京)に2-5で敗れ、山形県代表の準決勝進出はならなかった。
それから7年後の2013年・第95回大会では同じく日大山形が、日大三・作新学院・明徳義塾と過去の優勝校を次々と破り、山形県代表としては初めて、かつ全代表の中では48番目のベスト4進出を果たした。しかし、準決勝では優勝した前橋育英(群馬)に1-4で敗れ、山形県代表の決勝進出は惜しくもならなかった。なお夏の甲子園において、ベスト4進出を果たしていない都道府県は、2016年現在富山県勢のみである。
また、夏の甲子園大会で山形県代表の通算成績は23勝56敗(勝率.291)で、2016年現在49都道府県の中ではワースト記録である。
山形県を含む東北地方だけは、長い高校野球の歴史で、今まで一度も全国制覇をした県がありません。
あのダルビッシュ投手を擁した東北高校、大谷翔平選手を擁した花巻東高校など、非常に有力な高校がありながら、決勝までは何度もいきながら、どうしても深紅の大優勝旗は「白河の関」を超えることができていません。
あのダルビッシュ投手を擁した東北高校、大谷翔平選手を擁した花巻東高校など、非常に有力な高校がありながら、決勝までは何度もいきながら、どうしても深紅の大優勝旗は「白河の関」を超えることができていません。
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東海大山形・藤原投手について。
試合終了後ダグアウトに向かう際、藤原に向かって桑田が「ヒジは大丈夫か」と声をかけたそうです。エースで4番・背番号1という看板を背負って投げられない状態ながらも21本のヒットを浴びて5回を投げ抜いた藤原のことを思うと、同じ投手として桑田も同情したのでしょうね。この頃から桑田はこういった人に対する思いやりがあったのでしょうね。
そんな藤原は卒業後は社会人野球の世界に入り打者転向。その後は理髪店を営んでいるということです。そんな藤原にとある人から送られた言葉はこれです。
「甲子園の大敗を引きずるな。前を向いて頑張れ」
いつまでも過去に囚われることなく、前に向かって突き進めということが込められています。彼はこの言葉を胸に今も人生に立ち向かっています。そう、あのPL学園打線に向かったマウンド上のように。
非情なまでに容赦なく得点をもぎ取ったPL学園。しかし、決して相手を見下すことなどなく、相手のことを気遣う桑田投手。おそらく桑田投手以外の選手も、同じ気持ちだったと思います。7回まで両チームのエラーが0というのが、大差がつきながら引き締まった試合だったのを物語っています。
また、夏の高校野球の季節がやってきます。
また、夏の高校野球の季節がやってきます。
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こちらの書籍をご紹介します。藤原投手のことについても書いてあるようです。