「We Are the World 」の志士たち。「USA for AFRICA」のUSAは「United States  America 」ではなく「United Support  Artists 」
2024年8月25日 更新

「We Are the World 」の志士たち。「USA for AFRICA」のUSAは「United States America 」ではなく「United Support Artists 」

ときは来た!今こそ世界が1つになるとき!!1枚のレコードが世界中の人々の心をつなぎ、食糧、薬品、物資となって飢えた子供たちに届けられ、1枚のレコードが人々の魂を揺り動かし、多くの命を救った。

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35歳のスティービー・ワンダーは、6人兄弟の3番目として6週間の早産で生まれ、保育器内での過量酸素が原因で生まれてすぐに目がみえなくなった。
(未熟児網膜症、全盲ではない)
4歳のとき、夫の暴力とギャンブルに見切りをつけた母親と一緒に移住。
盲学校で実験用のネズミが逃げ、担任の先生に探すように頼まれ、聴覚だけで見事に捕獲。
「先生が僕の能力を認めてくれたそのとき、新たな人生が始まった」
音楽の神様に選ばれたスティービー・ワンダーは、学校や街角、パーティーやダンスイベントでピアノ、ドラム、ベース、ハーモニカを大人顔負けで演奏し、ときに指揮も務めるなど驚異的な才能を発揮。
11歳のとき、自作の曲を歌っていたところをスカウトされ、レコード会社と契約し、12歳でデビュー。
13歳のとき、4枚目のシングル「フィンガーティップス パート1&2」が全米ナンバー1(史上最年少記録)
1970年、20歳のときにレコード会社の秘書でシンガーソングライターでもあるシリータ・ライトと結婚。
(2年後、離婚。
「女性のブラウスの袖を触るだけで、その人のセクシーさがわかる」
というスティービー・ワンダーは、3度結婚し、5人の女性との間に9人の子供がいるが、第1子のアイシャ・モリスは「Isn’t She Lovely(かわいいアイシャ)」という名曲のモチーフとなった)
高い歌唱力とあらゆる楽器を高いレベルで演奏できるスティービー・ワンダーは、
「太陽の当たる場所」
「マイ・シェリー・アモール」
「迷信」
「悪夢」
「レゲエ・ウーマン」
などのヒットを放った。
プレーヤーとしてだけでなくクリエイターとして他のミュージシャンに数々の名曲を提供。
天才でありながら職人気質なスティービーワンダーが求めるクオリティが非常に高く、お蔵入りになった曲は数千曲以上。
慈善活動や平和活動にも積極的で、南アフリカのアパルトヘイト政策に反対する歌、公民権運動の指導者であるキング牧師を讃える歌も発表。
ビルボードTop10ヒット、30曲以上
グラミー賞ノミネート74回、受賞25回
ロックの殿堂入り
ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー第9位
国連平和大使
など別格の活躍をみせるアーティストである。

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ケン・クレイガンは、全米トップチャートをみながら100人以上のアーティストに声をかけていったが、様々な理由から大半のアーティストに断った。
その中には、
ロックバンド「ヴァン・ヘイレン」のボーカル、デビッド・リー・ロス
ロックバンド「トーキングヘッズ」のデビッド・バーン
ソウルの帝王、ジェイムス・ブラウン
もいた。
コメディ俳優で音楽活動も行っていたエディ・マーフィは、スタジオでスティービー・ワンダーに
「こっちに来てよ」
と誘われたが、
「いやいや、僕は「パーティー・オール・ザ・タイム」って曲を収録しているから」
とオファーを断ってしまい、「We Are The World」のリリース後に後悔した。
「後になってなんだったのか気づいて、バカな思いをしたよ。
彼らが「We Are The World」ですごく重い歌を歌っているのに、僕はパーティー・オール・ザ・タイム!お尻を振って!振って!って歌ってたんだから」
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ケン・クレイガンの呼びかけに応えたアーティストたちによって、
「United Support of Artists for AFRICA」
略して
「USA for AFRICA」
を結成された。
最初、ケン・クレイガンは、
「クリスマス直前に電話でチャリティーコンサートをやりたい」
といっていたが、クインシー・ジョーンズの意見でコンサートではなくレコーディングを行うことになった。
「ケン(・クレイガン)とハリー(・ベラフォンテ)が「We Are the World」の話を持ちかけてきたとき、最初はツアーにしようと考えていたんです。
しかしそれでは参加アーティスト全員とはうまくいかず、音楽史上最も短いツアーになっていたでしょうね」
(クインシー・ジョーンズ)
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またハリー・ベラフォンテは、
「ただ歌うだけじゃなくて,レコーディングを全部ビデオに収めたい」
とリクエスト。
「だってここはアメリカ.多様性の国だ。
白人も黒人も、女も男も、年寄りも若者も,スターをひとそろいにそろえるだけで『世界の縮図』になる。
私は世界の人にみて欲しかった。
肌の色の違い、性別、政治的主張の違い、いろんな違いを乗り越えて1つになっているところを。
それは曲を聞くだけだとわかりづらいけど映像でみれば一目瞭然だ。
あそこに私の仲間がいるってね」
そしてレコーディングは、多くのスターが集まりやすいように「アメリカン・ミュージック・アワード」終了直後に行うことが決まった。
「アメリカン・ミュージック・アワード」は、「ビルボード・ミュージック・アワード」「グラミー賞」と並ぶアメリカ3大音楽賞の1つ。
この生放送で行われるイベントをマイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズは準備を理由に欠席することにしたが、ライオネル・リッチーは2年連続で司会を務めることが決まっていたので参加した。
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最初、クインシー・ジョーンズは、作詞作曲をスティービーワンダーとライオネル・リッチーに任そうと思っていたが、スティービーワンダーが翌年にリリースするアルバムの制作に没頭していたので、ちょうどツアーを終えたばかりのマイケル・ジャクソンにライオネル・リッチーとの共作を提案。
承諾を得ると2人に、
「『レット・イット・ビー』や『明日に架ける橋』のようなデッカいアンセム(賛歌)をつくってほしい」
と依頼。
1985年1月19日、27歳のマイケル・ジャクソンと36歳のライオネル・リッチーは、ロサンゼルス郊外にあるマイケル・ジャクソンの自宅スタジオで曲づくりを開始。
マイケル・ジャクソンがシャイで人見知りで頻繁に「断る男」なのに対し、7歳上のライオネル・リッチーは、オープンで基本的に「引き受ける男」
性格が異なる2人は「ザ・コモドアーズ」が「ジャクソン5」の前座をしたときからのつき合いで、ライオネル・リッチーはマイケル・ジャクソンが子供の頃から知っていた。
「僕はマイケルの寝室の床にいた。
ベッドはなかったように思う。
彼は床の上に寝ていたんだよ。
壁には大量のアルバムがあって、カーペットとベンチがあった。
そして肩ごしにフーッという音が聞こえたんだ。
みるとニシキヘビがいたんだよ。
大蛇だよ。
僕はアラバマ出身だけど、ヘビといったら警察を呼んで撃っちゃうだろ?
僕は叫んだね。
でもマイケルはいった。
『ここにいたよ、ライオネル。
探していたんだ。
アルバムの裏側に入り込んでいたんだね。
部屋にいるのはわかっていたけど、部屋のどこなのかはわからなかった』
だから僕は『君はかなり変わってるな』といったよ。
落ち着くのに2時間はかかったね」
マイケル・ジャクソンは、蛇だけでなく九官鳥や犬、テキサス州のガン研究施設から引き取った 3歳のチンパンジー「バブルス」を紹介し、仲良くなるように勧めた。
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2人は、最初に
「ビッグで風格のあるもの」
ということでいろいろな国歌を聞いて、作詞作曲を開始。
3日間スタジオにこもった末、出来上がったのが「We Are The World」
作曲に関してはAメロからサビのタイトルの導入部分までライオネル・リッチー、サビ後半部とブリッジをマイケル・ジャクソンが担当した。
「僕らは普通のサウンドの歌はやりたくなかった。
大きな、とてつもなくデカいやつが欲しかったんだ。
聴いてすぐに普通じゃないとわかるようなもの、世界規模でアピールする力を持つものをつくる必要性を理解していたので、アメリカ、イングランド、ドイツ、ロシアなどの国々の国歌を聞いて曲づくりの準備をした。
全部を頭の中で1つのポットに入れて、世界の国歌という感じのなじみやすいリズムをつくり出したんだ」
(ライオネル・リッチー)
「この歌は僕が歌って終わる歌じゃない。
地球上の誰もが歌ったり口笛を吹いたりするための歌なんだ。
たとえ英語がわからない人でも,あのサビの部分は絶対に歌える。
♪We are the world♪
Very Good! 」
(マイケル・ジャクソン)
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1985年1月22日、
クインシー・ジョーンズ、
ドラマーのジョン・ロビンソン
ベーシストのルイス・ジョンソン
鍵盤奏者のグレッグ・フィルゲンス
ミキサーのウンバルト・ガテゥカ
ボーカルアレンジャーのトム・ベイラー
マイケル・ジャクソン
ライオネル・リッチー
そしてスティービィー・ワンダーも少しの時間、参加し、スタジオで「We Are The World」のセッションが行われた。
途中、スタジオにレイ・チャールズから電話がかかってきたため、クインシー・ジョーンズが、
「ハロー、元気か、レイ?」
と聞くと
「Fine!
and you?」
と力強い声が笑い声と共に返ってきたので、
「こっちは最高。
スティービー、マイケル、ライオネルもいるよ」
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翌23日午前1時30分、完成したメロディにマイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチーの歌声を乗せて録音し、「We Are The World」は産声を上げた。
クインシー・ジョーンズは、この音源を録音したカセットテープを参加予定アーティストたちに宅急便で送った。
「MP3なんてなかったからね。
当時はカセットだった。
送る必要があるんだよ」
デモテープは、参加アーティストに曲のイメージをつかんで、メロディをを身体に入れ、歌詞を覚えてもらうためのものだったが、

・絶対にダビングしないこと
・レコーディング当日に返却すること

と外部に情報が漏れないようにクギが刺された。
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1月25日、歌詞を記した楽譜も完成し、同様に各アーティストに送られた。
クインシー・ジョーンズは、集まってくるアーティスト全員のレコードを聴いて得意な音域をチェックし、パート、歌う順番、フレーズを割り当てたが、大スターたちの声をどう組み合わせるのか、頭を痛ませた。
一緒に作業を行ったボーカルアレンジャーのトム・ベイラーは、超豪華なメンバーに、
「これはまるで理想郷だな」
と幸せそうにいったが、現場で指揮を執るクインシー・ジョーンズは冷静な口調で、
「いや、コカ・コーラのボトルにデカいスイカを入れこむようなもんだ」
全員が超一流のスター。
何も起こらない方が不思議だった。
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1985年1月28日18時30分、ロサンゼルスの、6300人を収容できる世界的な劇場、シュラインオーデトリアム で「アメリカン・ミュージック・アワード」が始まり、ビッグ・アーティストたちがレッドカーペットを闊歩。
司会は2年連続でライオネル・リッチー。
プリンス、シンディ・ローパー、シーラ・E、ティナ・ターナー、ウェイロン・ジェニングス、ザ・ポインター・シスターズ、ダリル・ホール&ジョン・オーツらのライブ・パフォーマンスが行われた。
同じロサンゼルスにあるA&Mスタジオは、いつもより厳重なセキュリティーが敷かれる中、機材の搬入が行われ、「We Are The World」のレコーディングと映像撮影の準備が行われた。
A&Mスタジオは、1917年に喜劇王チャールズ・チャップリンによって建てられたスタジオで、1962年にA&Mレコード社に。
アメリカの超一流のアーティストたちが集まる上、レコーディングする時間は一晩しかなく、失敗は許されないという状況で、スタッフたちは極度の緊張の中、膨大な数の機材をセッティング。
しかしデジタルレコーダーにトラブルが発生。
ミキシングコンソールなど各種機材を配置されたコントロールルームで録音を仕切るウンバルト・ガテゥカは、冷や汗をかきながら
「お前ら、アナログか!
早くしないとマイケルが来るぞ」
「We Are The World」は、レコードや映像の制作に要した直接費用だけで75万ドル(1億6000万円)といわれているが、約300社から器材や録音媒体の無料提供を受け、150名を超えるスタッフはアーティスト同様、無報酬だった。
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  • 2024/9/9 05:41

    読み応えがある、よい記事でした!
    いくつかの知らなかった逸話、知らなかった人たちの背景を知れたのもよかった。
    ほとんどの大スターたちが何度も挫折を味わってきた苦労人だった事、スタッフもまた只働きで作品作りに取り組んでいたと知って曲の印象が一変しました。
    日本のチャリティー番組と同じ、上っ面なお涙頂戴企画と若かりし当時は見下していました。
    改めて聴いてみます、ありがとう!

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