熱闘開始前
1998年8月16日、日曜日。この日、筆者は甲子園球場の外野席で売り子のアルバイトをしていました。この年の大会は後に「松坂世代」と呼ばれる選手達がしのぎを削り、そして、その中心にいた松坂大輔投手擁する横浜高校が、春夏連覇を果たす大会になるわけですが、この時点では、まだ松坂投手は「春の大会で優勝した投手」の域を出ておらず、PL学園との延長17回の死闘。明徳義塾戦での奇跡の逆転劇。決勝戦でのノーヒットノーラン・・・これらが生まれるのは1週間ほど先になります。
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この日の第一試合に関西の名門・智弁和歌山高校対岐阜三田高校の試合。更に第三試合には、大会NO.1左腕と呼ばれ、1回戦でノーヒットノーランを達成していた、杉内投手擁する鹿児島実業高校と、春の優勝投手・松坂大輔投手擁する横浜高校の対決。その上、お盆休みと日曜日が重なっていて、朝早くから非常に多くの観衆が詰め掛けていました。そんな中で、第二試合の豊田大谷対宇部商業戦というのは、正直あまり注目されている試合ではなかったのですが、この試合が、高校野球史上に残る大熱戦になるのです。
どっち、勝つんかなあ・・・。
第一試合の智弁和歌山高校対岐阜三田高校戦が終わり、(6-2で智弁和歌山高校の勝利)豊田大谷対宇部商業戦が開始されたのは、ちょうど12時頃の事でした。この試合が開始されたのと同時にカキ氷を買ってくれた少年野球のユニフォームを着た子供が私に「なぁ、おっちゃんは松坂君と杉内君どっちが勝つと思う?」と聞いてきます。「ん?まず、おっちゃんじゃなくて、お兄さんね。あと、松坂君と杉内君の試合の前に、この試合もちゃんと見ときや」などと話をしたのを今でもなぜか覚えています。
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豊田大谷高校には後に横浜入りする古木克明選手。そして、宇部商には、埼玉西武入りする上本達之選手、一学年下にはオリックス・横浜でプレーする嶋村一輝選手(プロでの登録名は一輝)というプロでも注目される選手が出場していましたが、この試合で一番注目されたのは、彼らではなく宇部商業高校の2年生藤田修平投手の投球でした。
1998夏甲子園「豊田大谷対宇部商業」(熱闘甲子園)
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横浜高校対鹿児島実業という「お目当て」の試合前に、図らずも繰り広げられた大熱戦に観客は酔いしれました。それだけに、2-2の同点で迎えた延長15回裏無死満塁という場面において、あえてボークを宣告する必要があったのかという空気に包まれ、藤田投手をたたえる拍手に混じって、審判団に対する「空気読めー」というヤジも聞こえてきました。
ウイニングボールの行方
さて、この「サヨナラボーク」が生まれた背景にはセカンドランナーの【あるジェスチャー】も関係していると言われています。【このジェスチャー】を、現在もしもランナーがやったとしたら、間違いなく警告を受けるでしょう。と・・・すればここで「ボーク」をとられた藤田投手は不運であるかもしれませんが、動画を改めて見直すと藤田投手の投球動作は明らかに「ボーク」です。(セットポジションに入り、腕を出した後、投球動作を中断して腕を後ろに戻してしまった行為)
サヨナラボークの原因
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高校野球の場合、通常、ウイニングボールは勝利校の主将に渡されます。つまり、この試合のウイニングボールは、ボークを宣告された時に藤田投手が手に持っていた事になります。
放心状態の藤田投手が林審判にウイニングボールを渡そうとしたところ「持っておきなさい。そして来年、また甲子園に来なさい」と、林審判は藤田投手に手渡し、勝利校の豊田大谷には別のボールが渡されたという逸話が残っています。
放心状態の藤田投手が林審判にウイニングボールを渡そうとしたところ「持っておきなさい。そして来年、また甲子園に来なさい」と、林審判は藤田投手に手渡し、勝利校の豊田大谷には別のボールが渡されたという逸話が残っています。
林主審と、藤田投手は後にとある野球関係のイベントで再会します。再会時、二人は顔を紅潮させ、がっちりと握手。藤田投手が「今日は林さんに会って、『僕は元気でやっています』と伝えたくて、山口県から来ました」と話すと、林氏は目を真っ赤にしながら「感無量です」とうなずいた。この二人の再会に会場は大いに盛り上がったという事です。
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「悲劇だ」「かわいそうだ」だと書きたて、騒いだ観客やマスコミが時間と共に、この試合の事を忘れていっても、林主審と藤田投手の当事者のお2人はこの試合を忘れられるはずはありません。そして、果たして藤田投手が本当に「かわいそう」だったとしたら・・・こんな再会はなかった事でしょう。ものすごく暑かった日に行われたこの試合の結末の記憶をほんの少し変える必要があるのかもしれません。
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