速球派サウスポー・松本投手(東洋大姫路)
東洋大姫路高校のエース、松本正志投手は、2年生の時に出場した第48回選抜高等学校野球大会で、チームの準決勝進出に貢献。コントロールにやや難があるものの、速球派サウスポーとして既に全国に名が知られている存在で、松本選手擁する東洋大姫路高校は大会前から優勝候補の一角に挙げられていました。大会が始まると、松本選手は全国の強豪高校を相手に快投。
準々決勝の対豊見城高校戦で許した3失点以外の3試合を全て完封。強豪校ぞろいのブロックを勝ち上がって決勝戦に進出します。
準々決勝の対豊見城高校戦で許した3失点以外の3試合を全て完封。強豪校ぞろいのブロックを勝ち上がって決勝戦に進出します。
via www.jiji.com
【東洋大姫路高校が決勝戦進出するまでのスコア】
東洋大姫路 4 - 0 千葉商、東洋大姫路 5 - 0 浜田、準々決勝:東洋大姫路 8 - 3 豊見城、準決勝:東洋大姫路 1 - 0 今治西(延長10回)
東洋大姫路 4 - 0 千葉商、東洋大姫路 5 - 0 浜田、準々決勝:東洋大姫路 8 - 3 豊見城、準決勝:東洋大姫路 1 - 0 今治西(延長10回)
一年生エース・「バンビ坂本」(東邦)
愛知の強豪・東邦高等学校に進学し、野球部へ入部した坂本佳一選手。中学校までは打者としての経験しかなかったものの、監督にその強肩を見込まれて投手に転向すると、みるみるうちに頭角を現し、上級生の助けもあって、愛知大会を制し、1年生で甲子園出場を果たします。華奢な体つきの1年生が上級生を相手に好投。あれよあれよと勝ち上がっていきます。その姿が高校野球ファンの心を捉え、試合ごとに坂本選手の人気はどんどんと膨れ上がっていきます。
※代名詞となった「バンビ」というあだ名は大会後に名付けられたと言われています。
※代名詞となった「バンビ」というあだ名は大会後に名付けられたと言われています。
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【東邦高校が決勝戦に進出するまでのスコア】
東邦 6 - 2 高松商、東邦 8 - 0 黒沢尻工、東邦 4 - 0 熊本工、東邦 5 - 3 大鉄
東邦 6 - 2 高松商、東邦 8 - 0 黒沢尻工、東邦 4 - 0 熊本工、東邦 5 - 3 大鉄
大熱戦の決勝戦
東洋大姫路高校有利の下馬評の中、始まった決勝戦。東洋大姫路は初回にいきなりノーアウト満塁のチャンスをつかみますが。このピンチを坂本選手が無失点で切り抜けると、持ち前の飄々としたピッチングで東洋大姫路打線を封じ、試合は1-1のまま延長戦に入りました。
1977年夏決勝・優勝決定のシーン
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10回裏、東洋大姫路はツーアウト2塁と一打サヨナラの場面を迎えます。ここで東邦高校ベンチは3番の松本選手を敬遠。4番のキャッチャー・安井選手との勝負に出ました。
しかし、それが結果的に裏目に出ます。上の動画の様に、史上初の決勝戦におけるサヨナラ本塁打が飛び出し、試合は決着。喜びに沸く東洋大姫路高校の選手たちに対し、淡々とマウンドを降りていく一年生エース坂本選手の姿が対照的であり、その後「悲劇のヒーロー」として、坂本選手の人気はさらに増していったのです。
しかし、それが結果的に裏目に出ます。上の動画の様に、史上初の決勝戦におけるサヨナラ本塁打が飛び出し、試合は決着。喜びに沸く東洋大姫路高校の選手たちに対し、淡々とマウンドを降りていく一年生エース坂本選手の姿が対照的であり、その後「悲劇のヒーロー」として、坂本選手の人気はさらに増していったのです。
熱戦、その後は…(坂本選手)
一年生エースとしてチームを準優勝に導き、全国的な人気者となった坂本佳一選手ですが、結局その後、甲子園出場は果たせず、卒業後、法政大学、日本鋼管(現JFE西日本)で野球を続けましたが、周囲の期待された成績を残すことができませんでした。
坂本さんはサラリーマン活動と並行してNHK高校野球の解説者やNPO法人「フィールドオブドリームス」理事長として甲子園での経験を交えた講演活動を行なっています。
坂本さんはサラリーマン活動と並行してNHK高校野球の解説者やNPO法人「フィールドオブドリームス」理事長として甲子園での経験を交えた講演活動を行なっています。
東邦高校の後輩、藤嶋健人選手が1年生で甲子園で活躍。「バンビ2世」と呼ばれた際、取材に答えた坂本佳一さんは「彼は1年の夏以降、いろいろなものを背負いながら、再び甲子園で投げるチャンスをつかんだ。呼び名なんかにとらわれずに、堂々と投げてほしい」とのコメントを出しています。
藤島選手につけられた「バンビ2世」というあだ名に対し、「このあだ名はちょっと…。」「マウンド上で吠えるし、そもそもバンビという容貌ではないのでは?」と、疑問の声も上がりました。
熱戦、その後は…(松本選手)
1977年に行われたドラフトの1位指名を受けて阪急ブレーブスに入団した松本選手。チームの大先輩である梶本隆夫から背番号33を譲り受け、1年目から日本シリーズに出場するなどしましたが、2年目以降は、周囲のアドバイスを素直に聞きすぎたため、自分の投球フォームを崩したこともあって、本来の調子を取り戻すことなく、期待された活躍が出来ないまま1987年に引退します。