民俗学を勉強していると、普段当たり前のように使っている単語の由来に触れることがある。今回はそんな「単語」について。
桜は桜では!?「桜(サクラ)」という単語にまつわる由来
例えば「桜」。春になれば桜を愛でながら花見をする方もいらっしゃるだろう。かくいう自分も花見は大好き。
ではなくて(汗)。
ではなくて(汗)。
ところで、「桜」はなぜ「サクラ」というのか。こんな事を悩んだ人は居ないと思うが、まあ、コネタとして聞いていただきたい(笑顔)。
日本的には漢字の由来より音の由来がポイントなのです(※漢字は中国大陸由来だしね)。
日本的には漢字の由来より音の由来がポイントなのです(※漢字は中国大陸由来だしね)。
「サ」「クラ」という二つの単語から構成される「桜」
「サ」は「田の神様」
「桜」は「サ」と「クラ」という二つの単語から構成されている。つまり、正しくは「サのクラ」なのである。
まず『サ』。これは「田の神様」を意味している。古来、日本では田の神(サ)に関わる行事として「田植神事」「田楽」などを行ってきた。広島県で毎年6月に豊作を願って行われる行事「壬生の花田植」は平安時代の田植神事を今に伝えている。
まず『サ』。これは「田の神様」を意味している。古来、日本では田の神(サ)に関わる行事として「田植神事」「田楽」などを行ってきた。広島県で毎年6月に豊作を願って行われる行事「壬生の花田植」は平安時代の田植神事を今に伝えている。
この行事含め、神事として田植えを行う時、田植えを担う女性には若い未婚女性(乙女)たちが選ばれた。田の神にささげる稲を植える巫女と思っていただいてよい。そして、そのような女性たちのことを「早乙女(サオトメ)」と呼んだ。「サのオトメ」である。
「クラ=坐(座)」は「神様が座る場所」
次に『クラ』。これは「坐(座)」と書き、これは、神様が座る場所を意味する言葉である。
つまり、『サクラ』とは「田の神様がやって来て座る場所」を意味するのである。
田の神がやって来る=パワーをいただける➡よし!田植えをしよう!…というロジックである。だから、田植えを意識しはじめる春に花咲く樹を「サのクラ=桜」と呼んだのである。
つまり、『サクラ』とは「田の神様がやって来て座る場所」を意味するのである。
田の神がやって来る=パワーをいただける➡よし!田植えをしよう!…というロジックである。だから、田植えを意識しはじめる春に花咲く樹を「サのクラ=桜」と呼んだのである。
同様に「神」と「坐(座)」が合体した単語には「神楽(カグラ)」が
ちなみに、神への芸能を「神楽(カグラ)」と言うが、これも「神」と「坐(座)」が合体した言葉。語源は「神座(カムクラ)」である。某ラーメン店を思い出す方もいらっしゃる気がしないでもないが、民俗学的には「神座」は「神楽」の語源である。
最後に。
最後に。
田んぼの害虫(イナゴとか)についても昔は「サノムシ」
田んぼの害虫(イナゴとか)についても昔は「サノムシ」と呼んだ。「サの虫」だ。ところが、このサノムシ…ある時から怨霊と合体してしまった。その怨霊の名は「斎藤別当実盛(サネモリ。1111~1183年)」。
『平家物語』にも登場する、実在する平家方の武将である。死に様がよろしくなくて怨霊と化したと信じられたのは仕方ないとして、「実盛(サネモリ)」の「サ」と「サノムシ」の「サ」がなぜか一体化してしまい、武将だったはずが田んぼの害虫になってしまった。無残。
『平家物語』にも登場する、実在する平家方の武将である。死に様がよろしくなくて怨霊と化したと信じられたのは仕方ないとして、「実盛(サネモリ)」の「サ」と「サノムシ」の「サ」がなぜか一体化してしまい、武将だったはずが田んぼの害虫になってしまった。無残。
斎藤別当実盛の像
(以下、wikipediaによる)
寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。
寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。
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