【1975年プロ野球】最下位なのに優勝!?日本シリーズまで制した阪急ブレーブス
2022年9月25日 更新

【1975年プロ野球】最下位なのに優勝!?日本シリーズまで制した阪急ブレーブス

かつて前期・後期の2シーズン制で、ペナントレースの優勝チームを決めていたパ・リーグ。制度の短所として、前期優勝を果たしたチームが、後期で勝てなくなったケースが多くありました。その顕著な例が、1975年の阪急ブレーブス。しかし、プレーオフからは覚醒し、最終的には日本一に輝きます。そんな1975年の阪急を振り返ります。

9,668 view

阪急の黄金時代

1970年代阪急ブレーブス黄金時代で、前半は西本幸雄監督、後半は上田利治監督が率い、6度のリーグ優勝3度の日本一を果たしています。中でも1975年は特別で、上田監督が初優勝し、その後のリーグ4連覇、日本一3連覇の最初となった年でした。

2シーズン制とは

パ・リーグは、1973年から1982年まで前期・後期の2シーズン制を採用していました。前期65試合、後期65試合が行われ、各期の優勝チームでプレーオフを行います。勝ったチームがリーグ優勝。日本シリーズへの出場権を得ます。

2シーズン制は、パ・リーグを盛り上げるための施策として行われ、一定の効果はありましたが、問題もありました。それは、前期に優勝したチームは、後期のモチベーションが低下しがちなこと、あるいは、プレーオフの準備に専念できることです。これに該当するかは不明ですが、1975年の阪急は、前期は優勝したものの、後期は最下位まで一気に転落。しかし、最終的には、プレーオフ、日本シリーズともに阪急が制します。ある種、2シーズン制の意義を問うようなシーズンでもありました。

1975年前期・・・優勝

前期の阪急は開幕から絶好調で、4月は12勝6敗。太平洋クラブライオンズ(太平洋)と首位争いを演じ、5月には2.5ゲーム差の首位に立ちます。最も貢献した選手の一人が、投手の竹村一義。前期だけで8勝1敗の好成績をあげます。加藤秀司も、打率.322、16本塁打、53打点と三冠王を取りそうな勢いです。6月も順調に勝ち越し、圧倒的な強さで前期優勝を果たしました。

前期・順位表

順位 チーム 勝率 ゲーム差
1 阪急 38 25 2 .603 -
2 太平洋 30 29 6 .508 6.0
3 近鉄 31 30 4 .508 6.0
4 日本ハム 27 30 8 .474 8.0
5 南海 27 32 6 .458 9.0
6 ロッテ 27 34 4 .443 10.0
現役時代の加藤秀司

現役時代の加藤秀司

1975年後期・・・最下位

後期に入っても、阪急の快進撃は止まらず、オールスター前までで5勝1敗。再び首位を独走します。ところが、オールスター後は状況が一変。いきなり3連敗し、7月はかろうじて勝ち越すも、8月、9月、10月はすべて負け越し。特に、苦手の太平洋には全く歯が立たず、後期だけで2勝10敗1分とカモにされました。終わってみれば、首位の近鉄バファローズ(近鉄)と14ゲーム差の最下位。2シーズン制で同じ年に首位と最下位になったチームは、後にも先にもこの年の阪急だけです。

後期・順位表

順位 チーム 勝率 ゲーム差
1 近鉄 40 20 5 .667 -
2 ロッテ 32 31 2 .508 9.5
3 南海 30 33 2 .476 11.5
4 太平洋 28 33 4 .459 12.5
5 日本ハム 28 33 4 .459 12.5
6 阪急 26 34 5 .433 14.0

1975年プレーオフ・・・リーグ制覇

プレーオフは、前期優勝の阪急後期優勝の近鉄の対戦となりました。近鉄の監督は西本幸雄監督。阪急の前監督で、上田監督はその時のコーチでした。まさに、新旧監督の師弟対決です。

後期の近鉄の勢いは凄まじく、戦前の予想は近鉄優勢の声が多数を占めました。ところが、初戦こそ近鉄が勝ったものの、その後は阪急が3連勝。大事な場面で2ホームランを打った主砲の長池徳二と、完投で2勝をあげた新人の山口高志の活躍が光りました。因みに山口は、引退後阪神タイガース(阪神)で、あの藤川球児を育てた名コーチでもあります。

プレーオフの結果、阪急が3年ぶりのリーグ優勝を果たしました。後期最下位から、まさかの日本シリーズ出場です。

プレーオフ結果

日付 試合 勝敗 スコア 球場
10月15日 第1戦 阪急 7-11 近鉄 阪急西宮球場
10月16日 第2戦 阪急 5-4 近鉄 阪急西宮球場
10月19日 第3戦 近鉄 0-3 阪急 藤井寺球場
10月20日 第4戦 近鉄 3-5 阪急 藤井寺球場
阪神コーチ時代の山口高志

阪神コーチ時代の山口高志

1975年日本シリーズ・・・日本一

波乱のセ・リーグ

26 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • ⚾ 🧤 Exciting League ”PA” 2022/9/27 08:18

    昭和時代(81年ころから?)最も怖れた「読売の日本一」
    80年代毎年埼玉西武の日本一と
    大相撲の「横綱千代の富士(58代)」”千代の富士光線!〃!”とTVの前で身を塞ぎ唱えさけび
    幕内最高優勝を祈った

    すべてのコメントを見る (1)

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

【プロ野球】1試合で記録!1人が9ポジション守った!10投手が登板した!1974年の珍記録

【プロ野球】1試合で記録!1人が9ポジション守った!10投手が登板した!1974年の珍記録

過去のペナントレース公式戦で、1人の選手が全9ポジションを守った試合がありました。しかも、1試合の中でのことです。さらにこの試合には、10人もの投手が登板しています。そもそも選手交代やポジション変更の厳密なルールを遵守した上で、そんな選手のやりくりが可能なのでしょうか?実際に何があったのか見てみましょう。
izaiza347 | 839 view
【昔の球団】覚えていますか?2年だけ存在した球団「クラウンライターライオンズ」

【昔の球団】覚えていますか?2年だけ存在した球団「クラウンライターライオンズ」

ライオンズといえば、昔は西鉄、今は西武。しかし、西鉄ライオンズが身売りされ、西武ライオンズが誕生するまでの6年間、別の名称で球団は存続していました。最初の4年間が、太平洋クラブライオンズ。そして残りの2年間が、今回ご紹介するクラウンライターライオンズです。短いながらも印象深いクラウンライターの2年間をご紹介します。
izaiza347 | 19,849 view
【訃報】「1時間19分の猛抗議」「ええで、ええで」の名将・上田利治氏死去

【訃報】「1時間19分の猛抗議」「ええで、ええで」の名将・上田利治氏死去

7月1日、阪急や日本ハムで監督を務めた上田利治さんが肺炎のため川崎市内の病院で亡くなりました。この記事では彼の冥福を祈るとともに、功績を振り返りたいと思います。
プロ野球パ・リーグ、往年の懐かしいユニフォームまとめ。

プロ野球パ・リーグ、往年の懐かしいユニフォームまとめ。

草野球に興じた少年が多かった70~90年代。好きなチームのユニフォームや帽子を身に着けていた人も多かったことでしょう。そんな懐かしい往年のプロ野球ユニフォーム、パ・リーグ編をまとめてみました。
青春の握り拳 | 183,622 view
昭和最後の完全試合投手【今井雄太郎】を変えたコップ1杯のビール

昭和最後の完全試合投手【今井雄太郎】を変えたコップ1杯のビール

今井雄太郎は1970年代から80年代にかけて活躍した阪急ブレーブスの「主戦(エース)投手」。大酒飲みだったことから授かった称号が”酒仙投手”。酒にまつわる逸話とともに今井雄太郎について振り返る。
tiro | 19,353 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト