ノミの心臓
「あのころの阪急は投手王国。米田哲也さん、梶本靖郎さん、山田久志 さんたちがいた。二軍で好投して上げてもらってもなかなか登板機会がないから、調子を落としてしまう。いつごろからか、『今井は一軍のマウンドではアガる んだろう』と言われ始めた。確かに一軍のマウンドに立つと、打たれた過去ばかりが頭をよぎり、結果を出そうと気負ってしまった。入団から7年間で6勝。い つクビになってもおかしくなかった」
電車の連結手だった新潟鉄道管理局から70年ドラフト2位で阪急入り。毎年期待されながら7年目まで通算6勝8敗。1軍と2軍を行ったり来たりする“エレベーター”選手だった。「もう辞めようか」。オフになると妻とそんな話ばかり。大洋へのトレード話も出たのは完全試合達成の9カ月前だった。
29歳となった78年も前期は1勝止まり。いい投球していても、走者を出すと四球を連発してその後に痛打されるというパターンの繰り返しで、1軍ベンチにはいたが、役目は敗戦処理ばかりになっていた。
1978年5月6日”雄太郎伝説”の誕生
5月4日、大阪球場での南海6回戦。ローテーションの谷間で今井に先発のお鉢が回ってきた。試合前、梶本隆夫投手コーチに呼ばれた今井は紙コップを差し出された。「これ飲んで行け」。中身はビールだった。
「投手コーチの梶本(隆夫)さんがビールの入った紙コップを持ってき て、飲めと言うんだ。500mlだったかな。断ったんだけど、『どうせ、この試合が最後なんだから』って。酒は強かったから、『これくらいなら、なんてこ となかろう』と思って飲んだ。そしたら違ったんだよ。マウンドに上がったら、心臓がドキンドキンしてなぜか『キャッチャー、早うサインを出さんかい!』と 強気になれた。結局、7回まで投げて勝ったんだな」
「実はその後も2~3試合飲んだ(笑)。だけどそのうち、飲まずにマウンドに上がっても平気になった。勝ち星を重ね、自信が付いてきたんだろうね」
完全試合
「最後の打者はピッチャーゴロ。緊張してボールが指から離れないような感覚だった」と今井は語っている。
「パーフェクトは7回くらいから意識した。最後の打者を投ゴロに打ち取った時は、大声を上げたいぐらい嬉しかったけど、一塁がとても遠く感じてドキドキした。何が良かったか?うーん、分かりません。シュートかな…」。雪国新潟育ち。あまり弁がたつほうではない。とつとつと話すと、あとはニコニコするばかりだった。
そんな今井を見ながら上田利治監督が言った。「もともと力のある投手だったが、気迫というか、気持ちが弱い投手だった。それが変化球でストライクが取れるようになってから、マウンドでオドオドしなくなって見違えるような投手になった。もう8勝?2ケタ行くやろ」。
自信というのは恐ろしい。9月27日、川崎球場でのロッテ後期12回戦。この試合に勝てば阪急の前後期完全優勝という試合に先発したのは今井。パーフェクトに抑えた相手にグイグイ攻めの投球をみせ、8安打1失点完投勝利。完全試合に続いて、今度は正真正銘の胴上げ投手になった。
「夢のようです。完全試合よりうれしい」。リストラ寸前の男が最高の輝きを放った瞬間だった。
1984年阪急ブレーブス優勝の軌跡 - YouTube
酒にまつわる逸話
普段は存在感の薄い投手だったが、酒にまつわる伝説は数限りない今井。アルコールが入る快活になり、振る舞いも変わった。上田監督の前の西本幸雄監督時代は門限破りの常習犯。おまけに監督の部屋を自室と間違え、そこで眠ってしまうという信じられない逸話の持ち主でもあった。
完全試合をなしとげた試合にウイスキーを飲んで試合に臨んでいたといわれるが、上記の通り本人はこれを否定している。完全試合達成後の次の登板前に「完全試合して、そのあとたらふく飲んでるやろう、それを全部出せ」と練習中ずっとノックをさせられたという[5]。