友人・広山望が福田の父に懇願
母の死後、福田は施設に入れられそうになりながらも、最終的には父のいる千葉へ身を寄せることになる。
「オヤジには『サッカーは金がかかるから辞めろ』と言われました。
『勉強も役に立たない』と教科書を捨てられて。中学の時は荒れてたし、先輩から『調子に乗っ ている』としめられました。一匹狼みたいな感じで突っ張っていて、その筋の人に入らないか、とも誘われました。
俺が信じられるのは兄貴だけだった」
中学2年生のとき、練習場へ向かうたった800円の電車賃を捻出できず、練習に行けなかったという。また、全日本クラブユース出場も遠征費が払えないからという理由で辞退する。
そんな中、中学3年生の冬の大会では当時チームメイトだった広山望が福田の父に懇願して、足りない旅費はチームのオーナーが肩代わりしてくれたことでピッチに立つことができた。
名選手ストイコビッチとのエピソード
名古屋ではドラガン・ストイコビッチの勝利への執着心に刺激を受け、その姿勢を学びとろうと片言の英語を使って話しかけている。
英語は元々好きだったが「ストイコビッチと少しでも会話がしたくて」熱心に英語のレッスンを受けたという。
1999年3月27日、グランパス対ヴィッセル戦。福田健二のゴールをアシストしたストイコビッチは、着ていたユニフォームをたくし上げ、スタジアムに向かって咆哮した。彼と肩を組んだ福田が「これを見てくれ!」とユニフォームの下のアンダーシャツを指差す。そこにはこう書かれていた。
「NATO STOP STRIKES!」(NATOは空爆を止めろ!)
国内外のチームを渡り歩く!
FC東京、ベガルタ仙台の後、2004年にパラグアイ1部リーググアラニに移籍その後、メキシコ2部リーグのパチューカ、イラプアトでプレー。
2006年にスペイン2部リーグのカステリョンに移籍。ヌマンシアを経て2007年はラス・パルマスでフォワードとして活躍。
via dol.ismcdn.jp
6年振りの日本復帰!
2009年9月、予てから移籍を打診されていたという故郷・愛媛県のJリーグクラブ愛媛FCと契約締結。
10月に加入が発表され、実に6年ぶりの日本復帰となった。
なお、この時既にJリーグの選手登録期限を過ぎていたため、同年の公式戦出場は不可。
2010年は前所属クラブであるイオニコスが移籍証明書の発行を拒否したために開幕戦への選手登録が叶わず、已む無くFIFA承認の下での暫定登録という措置を取り第2節以降の出場が可能となった。
サッカー人生初となる主将を任され、巧みなポストプレーや相手DFを引き付ける潰れ役として貢献し、チーム最多の7得点を記録した。
しかし2011年、2012年と徐々に出場機会を減らしていき、2012年限りで契約満了により退団。
2013年からは香港甲組(1部リーグ)へ完全移籍し、レギュラーとして活躍。
2015年1月には、ハットトリックも達成しました。
いつまでも衰えない福田のサッカーへの情熱を応援しています!
2015年1月には、ハットトリックも達成しました。
いつまでも衰えない福田のサッカーへの情熱を応援しています!
福田の恩人でもありますね。
誠実で穏やかな廣山ですが、熱いハートを持った人物でもあります。
福田とはユース代表でも一緒でした。