ヤクルト一筋の名捕手【八重樫幸雄】の特徴的なフォームが生まれた訳!!
2017年1月19日 更新

ヤクルト一筋の名捕手【八重樫幸雄】の特徴的なフォームが生まれた訳!!

1971年~1993年まで23年間もの長い間、ヤクルトで現役を続けた八重樫幸雄。コーチ時代も含めると40年近くヤクルト一筋であります。あの独特なバッティングフォームは、よくみんな真似したものですよね。 そんな八重樫幸雄の軌跡をたどってみましょう。

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入団から40年間もヤクルト一筋だった男。八重樫幸雄。

八重樫幸雄(やえがし ゆきお)

八重樫幸雄(やえがし ゆきお)

1951年6月15日生まれ
身長180cm、体重92kg
右投げ右打ち
ポジション:捕手

ヤクルトスワローズのマスクを被り、投手の女房役に徹した男。その独特なバッティングフォームをみんなが真似した人気者でした。
タイトルや表彰といった記録を残せた選手ではありませんが、ヤクルトファン以外でも誰もが覚えている記憶のスター選手である。

八重樫幸雄の獲得タイトルや主な表彰や記録

ベストナイン:1回(1985年)

オールスターゲーム出場:3回 (1984年、1985年、1987年)

100本塁打:1990年6月22日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、7回表に秦真司の代打として出場、仲田幸司から右越3ラン ※スロー記録1位タイ

八重樫幸雄のプレースタイルは?

天性の打撃センスが光る捕手

天性の打撃センスが光る捕手

捕手としては、素晴らしい打率、本塁打の成績を残す男。本塁打も二けたを越え、打率も3割近い打率を残せる8番バッターは、相手投手からすると怖い存在だったと思います。
どちらかと言えば、リード面が素晴らしいと言うよりも、打撃面が素晴らしい選手の捕手である。
正捕手の座を退いてからも、代打の切り札としても活躍を続けたほど打撃センスと勝負強さに定評のある選手である。

八重樫幸雄がプロに入るまでの活躍

宮城県仙台市に生まれた八重樫幸雄は、仙台商高に進学し1年生から甲子園に出場。一塁手の7番打者として活躍するが2回戦で惜しくも敗れるのである。

2年生から捕手として活躍するようになるが、地方大会で東北高校のエースに抑えられ惨敗。

3年生では4番打者として夏の甲子園大会に挑み、2回戦で広島の広陵高校を打ち破るが、準々決勝で敗れ、涙を飲むのであった。
甲子園球児として、東北地方に八重樫の名を知らしめた結果、1970年にヤクルトアトムズ(現ヤクルトスワローズ)にドラフト1位で指名され入団するのである。

プロに入団後、光る打撃センスを見いだされ様々なポジションに。

東北球界始まって以来の大型捕手と評されたが、監督の別所毅彦は即座に外野転向を指令。更に1971年から指揮を執った監督の三原脩には三塁へのコンバートを命じられた。大型捕手を内外野に移そうとした最大の理由は同期入団で大学出の大矢明彦の存在があり、正捕手不在のチームは鉄砲肩の即戦力捕手を起用することになり育成に時間のかかる高校出の捕手に構っていられる時間はなかったためである。
若手の頃は細身でフットワークのいい俊足の選手で、天性のバッティングセンスを生かすために首脳陣はコンバートを急いだ。そのため、1973・74年は選手登録も外野手として行われ[1]、投手以外のポジションは全部やったという。

悔しさを糧に生まれた、あの独特なバッティングフォーム!

初優勝した1978年はケガで戦列を離れ、一軍に復帰し、試合前の打撃練習で打席に入ろうとした時に監督の広岡達朗から「お前は打たなくていい」という一言で戦力として扱われていない悔しさを味わい、そこから打撃フォームを研究。中西太打撃コーチが1983年に再就任すると、二人三脚で極端なオープンスタンスの構えを会得した。視力の低下で眼鏡をかけており控え暮らしが長かったが、大矢に衰えが目立ち始めると正捕手に座る。初めて100試合以上に出場したのは入団15年目の1984年で、監督推薦でオールスターにも初出場。選出直後の7月15日、巨人17回戦(後楽園)でファウルチップで右手人さし指にひびが入るケガをしたが「代打ならいける」と強行出場した。

福間納 vs 若松勉~杉浦享~八重樫幸雄~渡辺進 - YouTube

1985年
出典 youtu.be
元来打撃力があり、中西との二人三脚で編み出した、グリップを下げ投手と完全に正対するほどの極端なオープンスタンスで、入団16年目の1985年には打率3割を記録し、念願のベストナインに輝く。1988年、秦真司が正捕手に定着すると、右の代打の切り札的存在になる。通算100本塁打到達までのスロー記録(所要在籍年数で1位タイ)を持っている。1990年6月22日、21年目での大台達成だった。前年夏から用意されていた花束は生花から造花に変わっていたという。本塁打が出ても出迎えることのない監督の野村克也が「お祝いごとやからな」と特別にベンチから出てきた。

23年間、ヤクルトの現役選手を続け、引退後の八重樫は?

1991年からは、ヤクルトスワローズの1軍バッテリーコーチを選手兼任で行い、2年後の1993年に現役を引退。

その後は、ヤクルトの2軍バッテリーコーチを2年。1軍バッテリーコーチを1年。2軍監督を経験後、1999年から2008年の9年間も1軍打撃コーチを務め、後輩の指導へ尽力を注いだのであった。

ベテラン23年目 41歳 八重樫幸雄【ヤクルト】日本シリーズ ヤクルトー西武 - YouTube

出典 youtu.be
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