【中日一筋】2015年引退・球界のレジェンド山本昌の80年代はどうだったのか?
2016年11月25日 更新

【中日一筋】2015年引退・球界のレジェンド山本昌の80年代はどうだったのか?

2015年についに引退を表明したレジェンド、山本昌投手。現役通算219勝、32年間のプロ生活、実働29年という長きに渡って活躍した名投手、今回はプロ入り直後の80年代を振り返ってみたいと思います。

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サンディー・コーファックス氏
1950年代の中頃からプロとして活躍した投手。
現在はドジャースのスペシャルアドバイザー、1972年には野球殿堂入りも果たしています。
生原がドジャースの往年の名投手サンディー・コーファックスに山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼はサイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価
プロ入り後の山本昌は色々な指導者に出会っていると思いますが、見込みがあると評価した人間はいなかったのかもしれません。
監督である星野仙一氏もドジャースに留学させたことをこのように語っています。
「この手足の長い男をどうやって教えていいのか。アメリカしかないと思った」。ドジャースに頼み込み、キャンプ後もアメリカで武者修行させた。「本当は見捨てたんです。残されたマサは大泣きしていましたよ」
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チームメイトのメキシコ人内野手ジョゼフ・スパニュオーロが、試合前のキャッチボールでスクリューボールを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらう。後に自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。よく曲がるので、その日の試合でも使ってみたところ、決め球として通用。
山本昌のウイニングショット、スクリューボールは遊びの中から生まれたんですね。意外とリラックスしている時のほうが新しいものが生まれることが多いと思います。
シーズンが始まり、アメリカから山本昌の活躍ぶりを知らせるFAXが届くようになっても、半信半疑だった。「ウソだと思った」。夏に大リーグ・ホワイトソックスからオファーが届くと、星野SDは「行かせましょう」と球団に進言したという。
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もしも山本昌がメジャーに行っていたとしたら、野茂氏の騒動もなかったかもしれませんし、パイオニアとして伝説になったのは山本昌だったかもしれませんね。
「あのとき本当に行かせていたら、野茂より先にメジャーで活躍していたよ」
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日本へ帰ってきた山本昌は別人だった。「『ウソだろ』と思うボールを投げていた」。山本昌は1カ月余りの間に5勝を稼いだ。「88年の優勝は彼によって決定付けられたんです」

2度目のアメリカ留学・左のエースに

1989年、シーズン14登板目の5月27日の対読売ジャイアンツ戦で完封でシーズン初勝利。この勝利に山本は試合終了直後から涙を流し、後年最も思い出深い1勝に挙げている。
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9勝目以降なかなか勝ち星を得られず、星野から同シーズンオフにおいてのアメリカへの教育リーグ再留学を言い渡される。名誉挽回の10勝目と日本残留の最後のチャンスとして9月23日の対阪神タイガース戦に登板するも、味方の失策などが重なり、終盤に逆転負けを喫してシーズン9勝に終わり、やむなく留学する。
球団としては、10勝如何にかかわらずアメリカ行きは決定であり、飛行機のチケットは用意されていました。この留学の際に恩師であるアイク氏の指導でスローカーブに磨きをかけました。
この留学についてはおそらくですが前の留学とは違い、アメリカの指導であれば山本昌の成長が期待できるという確信からだったのではないでしょうか。
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1990年は前年の雪辱をバネに初のシーズン10勝を挙げた。この年同じ左腕の今中慎二も10勝を挙げ、90年代共に左の二枚看板・Wエースとして中日投手陣を支えた。

左のエースとして中日を支えることになった山本昌・引退へ

2015年、ついに引退を決意した山本昌。
今後はどのように野球に関わっていくのでしょうか?
もしかしたら球界には関わらず趣味の世界で生きていくのかもしれません。山本昌は引退後について下のように語っていました。
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