【中日一筋】2015年引退・球界のレジェンド山本昌の80年代はどうだったのか?
2016年11月25日 更新

【中日一筋】2015年引退・球界のレジェンド山本昌の80年代はどうだったのか?

2015年についに引退を表明したレジェンド、山本昌投手。現役通算219勝、32年間のプロ生活、実働29年という長きに渡って活躍した名投手、今回はプロ入り直後の80年代を振り返ってみたいと思います。

5,550 view

山本昌・プロ入りまで

 (1506141)

山本昌

登録名は当初山本昌広でした。
1983年ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。ドラフト順位からわかるとおり、即戦力として期待をされていた訳ではなく、一軍初登板は1986年のシーズン終盤、消化試合でのことでした。

90年代からは左のエース格として活躍、ムラのある成績ながら先発ローテーションを守りました。40代を越えてもノーヒットノーランを達成するなど全盛期というものが無い珍しい投手です。
野球チームに初めて入ったのは小学3年生の時。中学校3年の夏、所属する野球部で神奈川県大会に出場し、日大藤沢高にスポーツ推薦で入学する。
 (1506148)

当時の日大藤沢高の野球部監督、香椎瑞穂は山本を同期の別の部員一人とペアで日本大学に推薦する。山本本人も高校卒業後は日本大学に進学し教師を目指すつもりでいた。
 (1506149)

神奈川県高校選抜チームの一員として韓国高校選抜チーム相手に好投した事などが評価されて1983年のドラフトで中日ドラゴンズに5位指名を受ける。
高校野球時代に甲子園出場など、輝かしい成績を残していた訳ではなく、大学進学し教師を目指そうとするなど山本昌自身もプロ志望ではありませんでした。

監督からのプロでも通用するという言葉、同期の推薦入学を妨げない(直前に断ると同期や後輩の進学にも影響するため)、父親が中日ファンであったことがプロ入りの決め手だったようです。

プロ入り後・初登板まで

「背番号が34で左投げというから『金田2世』と期待してブルペンを見に行ったが、ただの大柄な男で、あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。球も130km/h前後しか出ないからがっかりした」
当時は解説者だった星野仙一さんの印象です。身長は186cmと大柄でしたが球速が遅くプロでは通用しないと判断されていました。
 (1506165)

「小松辰雄さんのピッチングを見て、とんでもない所に来てしまったと思った」
入団当初の山本本人の回想。野球漫画、グラゼニでも同じようなシーンが有りました。
 (1507172)

1986年、星野仙一氏が監督に就任しています。
それ以降、山本昌の運命は変わっていくことになります。
1986年シーズン終盤の消化試合で一軍初登板を果たした。翌1987年には開幕一軍入りしたが、4月14日の対広島東洋カープ戦でのナゴヤ球場一軍初登板で肘を痛め(のちに疲労骨折と判明)、その後登板機会がないままシーズンを終了する。

転機となるアメリカ留学

1988年2月、中日は業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行い、山本ら若手選手5人が野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる。
 (1507173)

ドジャース傘下のマイナーリーグ(1A)のベロビーチ・ドジャースに所属することになり、チームメートと帯同してフロリダ・ステートリーグ(1A)で試合を行うことになる。そして、そこで前年に山本を指導していたドジャースの世話役・アイク生原との再会が人生の転機となる。
 (1507175)

アイク生原氏との出会いが山本昌の代名詞ともいえるスクリューボールを生み出しました。
投手の基本である低めへのコントロール、スローカーブの精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導された
投手としての基本をみっちり仕込まれたんですね。
42 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

【野口茂樹】ドラゴンズ投手陣を支えたノーヒッターは「天敵」に移籍して・・・

【野口茂樹】ドラゴンズ投手陣を支えたノーヒッターは「天敵」に移籍して・・・

ドラゴンズのエースとしてリーグ優勝に貢献し、最優秀防御率賞など数々の賞を受賞した野口投手。1996年にノーヒットノーランを達成するなど、特に巨人戦に強く「天敵」とも呼ばれた存在でした。その後、2005年にFAを宣言し、野口投手はその巨人に移籍するのですが・・・。
和尚 | 13,975 view
【斎藤隆】日米の野球ファンを魅了した「オールドルーキー」

【斎藤隆】日米の野球ファンを魅了した「オールドルーキー」

斎藤隆選手が大リーグに挑戦する事が発表された時「ベテラン投手の思い出作り」などという声も聞かれた。だが、そんな声はすぐに称賛に変わる事になる。「200勝」より困難と言われる「100勝・100セーブ」(日米通算)を達成した斎藤隆選手の球歴を改めて振り返る。
和尚 | 5,468 view
【河野博文投手】ミスターに「ゲンちゃん」と愛された中継ぎエースの現在地。

【河野博文投手】ミスターに「ゲンちゃん」と愛された中継ぎエースの現在地。

1988年に最優秀防御率賞を獲得した河野投手はその後、FAで日本ハムから巨人に移籍する。1996年シーズン、首位に最大11.5ゲーム差をつけられてからの大逆転優勝(メークドラマ)に大きく貢献した。長島監督から「ゲンちゃん」と呼ばれた中継ぎエースは引退後波乱の人生を送ることになる・・・。
和尚 | 8,209 view
【槙原寛己選手】完全試合を達成した、伝説の「先発三本柱」の1人

【槙原寛己選手】完全試合を達成した、伝説の「先発三本柱」の1人

1990年代の巨人には他球団が羨む先発投手が三人所属していた。 斎藤雅樹、桑田真澄と共に「先発三本柱」と呼ばれた男、槙原寛己投手。 抜群の成績を残しながら「エース」と呼ばれる事はなかった槙原投手の活躍を振り返る。
和尚 | 6,281 view
【木田勇】2013年の田中将大投手まで33年間現れなかった1シーズン22勝をルーキーイヤーにやってのけた投手。

【木田勇】2013年の田中将大投手まで33年間現れなかった1シーズン22勝をルーキーイヤーにやってのけた投手。

1980年の日本プロ野球を大いに沸かせた驚異の新人投手、木田勇。日本ハムに入団した彼はルーキーイヤーの1980年に22勝を挙げて史上初のルーキーイヤーに新人王&MVPに輝きました。22勝という勝利数は、その後2013年の田中将大投手まで33年間抜かれることがありませんでした。
青春の握り拳 | 9,268 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト