木田勇
1981 木田勇 1 - YouTube
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1980年10月7日【木田勇】スーパールーキーイヤーの最終戦 - Middle Edge(ミドルエッジ)
木田勇のルーキーイヤーは圧巻だった。最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、MVP、新人王などのタイトルを総なめにした。木田は優勝をかけた最終戦にもリリーフでマウンドに上がったが…
木田の来歴
入団交渉にあたって住宅を希望
横浜一商高(現・横浜商科大学高等学校)では1972年夏の甲子園県予選で準決勝に進出するが、秦野高に延長11回の熱戦の末に敗退。社会人野球の日本鋼管に進み、1977年の都市対抗2回戦で電電北海道を相手にリリーフながら初登板、敗れたものの好投を見せる。
1978年の同大会はエースに成長、3試合連続で完投勝利、準決勝ではリリーフに回るが本田技研鈴鹿を降す。決勝では東芝の黒紙義弘(崇徳-亜大)と投げ合うが0-4で完封負け。準優勝にとどまるが同大会の久慈賞を獲得した。
同年のドラフト会議では、大洋、広島、阪急の3球団が1位指名。抽選の結果、広島が交渉権を獲得したがこれを拒否。なお広島のドラフト1位指名を拒否した人物は木田のみである。
翌年の都市対抗でも活躍し、1979年のドラフト会議でも再び3球団(巨人、日本ハム、大洋)の1位指名が重複したが、交渉権を得た日本ハムに入団した。日本ハムがクジを当てた時に「俺は運の無い男だ」とボヤき、入団交渉にあたって条件として住宅(土地とも言われている)を要求したと伝えられたことも話題となった。しかしこれは大社義規オーナーの「プロの選手なら自分で稼ぎなさい」の説得で断念した。
1978年の同大会はエースに成長、3試合連続で完投勝利、準決勝ではリリーフに回るが本田技研鈴鹿を降す。決勝では東芝の黒紙義弘(崇徳-亜大)と投げ合うが0-4で完封負け。準優勝にとどまるが同大会の久慈賞を獲得した。
同年のドラフト会議では、大洋、広島、阪急の3球団が1位指名。抽選の結果、広島が交渉権を獲得したがこれを拒否。なお広島のドラフト1位指名を拒否した人物は木田のみである。
翌年の都市対抗でも活躍し、1979年のドラフト会議でも再び3球団(巨人、日本ハム、大洋)の1位指名が重複したが、交渉権を得た日本ハムに入団した。日本ハムがクジを当てた時に「俺は運の無い男だ」とボヤき、入団交渉にあたって条件として住宅(土地とも言われている)を要求したと伝えられたことも話題となった。しかしこれは大社義規オーナーの「プロの選手なら自分で稼ぎなさい」の説得で断念した。
ルーキーイヤーの凄まじい活躍も後半にはやや陰りも
ルーキーイヤーの1980年はオープン戦から2勝と快調に飛ばした。開幕2戦目に先発初出場して西武を相手に7安打を打たれながら完投勝利で飾った。4月の成績は防御率0.79・4勝0敗で早くも月間MVPに輝いた。
空振りの取れる速球に大小2つのカーブを投げ、特にパームボールは大きな武器となった。江夏豊と並ぶ23投球回無失点の日本プロ野球タイ記録も樹立している。毎回奪三振もシーズン3回記録しており、これは江川卓(1981年)と並ぶプロ野球記録である。
リリーフでも登板しており、無死満塁の状況で阪急の福本豊、簑田浩二、加藤英司から全て速球で連続奪三振を取る離れ業もやってのけた。三振を取っての派手なガッツポーズはこの木田が元祖だと言われている。
9月2日に対近鉄戦で16安打を打たれて5得点を奪われ、辛うじて18勝目を挙げたものの186球を費やす苦闘。以来本塁打を献上し始め、「球の軽さ」が話題に上がるようになった。後期優勝のかかった10月7日の近鉄との最終戦(10.7決戦)では満員の客を集めた後楽園球場で3回表無死二塁からリリーフとして登板。しかし佐々木恭介に打たれて同点。4回表には3安打を連ねられて3点を失った。
カーブの制球が定まらず、バックの失策も出た。先行した近鉄を日本ハムが追い掛ける展開となった。8回表に有田修三が木田からソロ本塁打を放って6-4と2点ビハインドとなったところで、木田はマウンドに座り込み、降板した。試合に敗れて優勝を逃したが、22勝8敗4セーブ・225奪三振・防御率2.28・勝率.733という成績で最多勝・最優秀防御率・最高勝率と当時の投手三冠タイトルを独占した事に加え、最多奪三振も記録している。
新人王、そして史上初めて新人選手としてMVPも受賞した。なお、これ以降に日本プロ野球でシーズン22勝以上を挙げた投手は2013年の田中将大まで現れなかった。
空振りの取れる速球に大小2つのカーブを投げ、特にパームボールは大きな武器となった。江夏豊と並ぶ23投球回無失点の日本プロ野球タイ記録も樹立している。毎回奪三振もシーズン3回記録しており、これは江川卓(1981年)と並ぶプロ野球記録である。
リリーフでも登板しており、無死満塁の状況で阪急の福本豊、簑田浩二、加藤英司から全て速球で連続奪三振を取る離れ業もやってのけた。三振を取っての派手なガッツポーズはこの木田が元祖だと言われている。
9月2日に対近鉄戦で16安打を打たれて5得点を奪われ、辛うじて18勝目を挙げたものの186球を費やす苦闘。以来本塁打を献上し始め、「球の軽さ」が話題に上がるようになった。後期優勝のかかった10月7日の近鉄との最終戦(10.7決戦)では満員の客を集めた後楽園球場で3回表無死二塁からリリーフとして登板。しかし佐々木恭介に打たれて同点。4回表には3安打を連ねられて3点を失った。
カーブの制球が定まらず、バックの失策も出た。先行した近鉄を日本ハムが追い掛ける展開となった。8回表に有田修三が木田からソロ本塁打を放って6-4と2点ビハインドとなったところで、木田はマウンドに座り込み、降板した。試合に敗れて優勝を逃したが、22勝8敗4セーブ・225奪三振・防御率2.28・勝率.733という成績で最多勝・最優秀防御率・最高勝率と当時の投手三冠タイトルを独占した事に加え、最多奪三振も記録している。
新人王、そして史上初めて新人選手としてMVPも受賞した。なお、これ以降に日本プロ野球でシーズン22勝以上を挙げた投手は2013年の田中将大まで現れなかった。
一躍時の人へ
この年のパ・リーグは3チームがシーズン200本塁打を記録するなど、リーグ全体で1196本塁打という打撃優位の年であった(本塁打が最も少なかったのは木田が所属する日本ハムで167本)。
この年は日本ハムとロッテを除く4チームが本拠地球場で飛ぶボールを使用しており、日本ハムはパ・リーグで唯一、チーム防御率が3点台(3.61)のチームであった。
また、新人の最多奪三振は1967年の江夏豊以来、パ・リーグでは1954年の宅和本司以来の快挙だった。木田は当時を振り返って、「破格の入団条件からやっかみが多くチームで孤立していたが、それも成績を残してからは周囲からみとめられた」という。シーズンオフはテレビ出演やサイン会も行い、一躍話題の人となった。
この年は日本ハムとロッテを除く4チームが本拠地球場で飛ぶボールを使用しており、日本ハムはパ・リーグで唯一、チーム防御率が3点台(3.61)のチームであった。
また、新人の最多奪三振は1967年の江夏豊以来、パ・リーグでは1954年の宅和本司以来の快挙だった。木田は当時を振り返って、「破格の入団条件からやっかみが多くチームで孤立していたが、それも成績を残してからは周囲からみとめられた」という。シーズンオフはテレビ出演やサイン会も行い、一躍話題の人となった。
2年目以降は急失速してしまう
翌1981年は開幕第2戦の対南海戦に先発登板して完投勝利は収めたものの、久保寺雄二に満塁本塁打を浴びるなど9失点のスタート。
捕手の加藤俊夫によると「速球もカーブも去年に比べて65%」、木田本人も「春季キャンプで走り込みが不足したので、フォームが固まらない」と語っているように、シーズン序盤から変化球主体の投球が続いた。
5月26日から6月11日の試合まで4試合連続でKO負けを喫してしまう。10勝10敗に終わり、防御率は4.77にまで悪化してしまった。ロッテとのプレーオフでは第5戦に先発して勝利投手となり、19年ぶりのリーグ制覇を果たした。巨人との日本シリーズでは第4戦で先発し、平田薫にソロ本塁打を打たれ降板し、勝敗はつかなかった。オールスターゲームには1980年と1981年はファン投票選出で、1982年は監督推薦で出場している。
しかしその後は目立った活躍ができず、1986年に金沢次男・大畑徹との交換トレードで高橋正巳と共に横浜大洋ホエールズに移籍。そのシーズンは8勝を挙げたものの、それ以降の3シーズンで2勝に終わった。
1990年に加茂川重治との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍し、同年限りで現役引退。翌年から知人に拾われて印刷会社勤務のサラリーマン生活に戻っている。
2年目以降目立った活躍が見られなかった事について、日本ハム時代のチームメイトだった江夏豊は「愛すべき男だったが、自分の型に固執しすぎた。それが2年目以降伸び悩んだ原因だろう」と語っている。
捕手の加藤俊夫によると「速球もカーブも去年に比べて65%」、木田本人も「春季キャンプで走り込みが不足したので、フォームが固まらない」と語っているように、シーズン序盤から変化球主体の投球が続いた。
5月26日から6月11日の試合まで4試合連続でKO負けを喫してしまう。10勝10敗に終わり、防御率は4.77にまで悪化してしまった。ロッテとのプレーオフでは第5戦に先発して勝利投手となり、19年ぶりのリーグ制覇を果たした。巨人との日本シリーズでは第4戦で先発し、平田薫にソロ本塁打を打たれ降板し、勝敗はつかなかった。オールスターゲームには1980年と1981年はファン投票選出で、1982年は監督推薦で出場している。
しかしその後は目立った活躍ができず、1986年に金沢次男・大畑徹との交換トレードで高橋正巳と共に横浜大洋ホエールズに移籍。そのシーズンは8勝を挙げたものの、それ以降の3シーズンで2勝に終わった。
1990年に加茂川重治との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍し、同年限りで現役引退。翌年から知人に拾われて印刷会社勤務のサラリーマン生活に戻っている。
2年目以降目立った活躍が見られなかった事について、日本ハム時代のチームメイトだった江夏豊は「愛すべき男だったが、自分の型に固執しすぎた。それが2年目以降伸び悩んだ原因だろう」と語っている。
via jumbow.main.jp
9 件
【1980年ルーキーイヤーの獲得タイトル/表彰】
‐最多勝
‐最優秀防御率
‐最高勝率
‐最多奪三振(当時連盟表彰なし)
‐MVP
‐新人王
‐ベストナイン
‐ダイヤモンドグラブ賞
‐月間MVP(4月)
‐後楽園MVP賞