板垣恵介の格闘技史1  板垣死すとも格闘ドリームは死せず
2020年2月4日 更新

板垣恵介の格闘技史1 板垣死すとも格闘ドリームは死せず

「男に生まれたからには1度は最強を目指す。最強に憧れないなんて男じゃない。最強を夢みない男なんていない。みんないつかあきらめてしまうだけなんだ。だからこそみんな強さに憧れるんだ」そういう板垣恵介の真っ直ぐな人生と共に、20世紀の格闘技史を振り返る。

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また板垣恵介にとってダイナマイトキッドも特別だった。
ダイナマイト・キッド:爆弾小僧は、173cmと小柄ながら圧倒的な筋肉量を誇り、常に全力で相手に攻撃を仕掛け、また全力で相手の攻撃を受け切った。。
その命を削るような闘いぶりは、今も伝説としてファンの記憶に残り、また世界中のレスラーたちに多大なる影響を与えた。
しかし自らの体を顧みない過激すぎるファイトは代償も大きく、引退後は車椅子生活になり、やがて寝たきりの生活を送った。
12歳でレスリングのトレーニングを開始。
神様:カール・ゴッチや人間風車:ビル・ロビンソンを輩出し、マンガ「タイガーマスク」の虎の穴のモデルとなった蛇の穴:ビリー・ライレージムでも修行を積み16歳でプロデビュー。
1979年7月に初来日。
1980年からは新日本プロレスに参戦。
1981年4月23日にタイガーマスクデビュー戦の相手に抜擢され名勝負を展開。
空前のプロレスブームを巻き起こすきっかけをつくった。
古舘伊知郎アナウンサーはタイガーマスクとの抗争を
「肉体の表面張力の限界」
ダイナマイトキッドの妥協なきファイトスタイルを
「全身これ鋭利な刃物!」
「カミソリファイト」
と形容した。
ダイナマイトキッドは、ケガを恐れないことを自らに課すと同時に、それに対戦相手が対応できなければ相手を壊すことも厭わなかった。
だからこそ、一瞬の気の緩みも許されない、緊張感あふれる試合となった。
危険を顧みない激しいファイトの連続はダイナマイトキッドの体を徐々に、そして確実に蝕んでいった。
「俺の身体がパンクする予兆はタイガーマスクとの抗争の頃からすでに始まっていた」
(ダイナマイトキッド)
ダイナマイトキッドの体を蝕んだのは激しすぎるファイトだけではなかった。
その最も大きな要因は、アナボリックステロイド(筋肉増強剤)をはじめとする薬物の乱用だった。
体を大きくするためにステロイドの過剰摂取が始まり、さらに鎮痛剤との併用が日常化してしまった。
その上でハードスケジュールで過激な試合を続けた結果、1986年12月、試合中のアクシデントにより、第4第5椎間板断裂の重傷を負い、戦線離脱。
医師からは引退勧告を受けた。
それでもキッドは、まだ麻痺が残る中、痛み止めを打ちながらリングに復帰。
そしてステロイドを打つことでリングに向かう気持ちを奮い立たせた。
「ケガをしていようが大観衆が俺の名前を叫んでいれば、その期待には何としても応えなければならない。
体が動こうが動くまいがやるしかない」
あまりにも刹那的な生き方だった。
ステロイドはキッドの肉体だけでなく精神をも蝕んだ。
薬の副作用で私生活でも攻撃的な人間になってしまいトラブルを日常化してしまう。
椎間板を断裂して以降は激しい試合ができなくなり、1988年に解雇同然のケンカ別れでWWFを離脱。
その後、ステロイドの副作用による性格の激変に耐えられなくなった妻に見切りをつけられ離婚。
ある日、全日本プロレスのツアーを終えてカナダの自宅に帰ると、もぬけの殻で、テーブルの上には祖国イギリスへの片道航空券だけが残されていた。
キッドはカナダを永久に去り、離婚が成立すると、すべての財産を妻と3人の子供たちに譲り渡した。
体調は悪化の一途を辿り、1991年12月6日、全日本の日本武道館大会で引退を発表。
ダイナマイトキッドは33歳で金と名誉、家族、そして天職であるプロレスを失った。
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その後、金を稼ぐために1993年にイギリスで復帰。
1996年10月には日本のみちのくプロレスにも参戦。
そこで初代タイガーマスク:佐山聡と再会。
ダイナマイトキッドの体は痩せこけており、かつての爆弾小僧の面影はどこにもなかった。
このタイガーとの再会マッチを最後にキッドは完全に引退。
プロレス関係者との連絡を一切断ち、姿を消した。
2016年10月、NHKの「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」でタイガーマスクを取り上げられた際、番組はキッドの居場所を突き止めることに成功。
2013年に重い脳卒中にかかり、晩年は介護施設で暮らしていた。
傍らには現在の妻ドットの姿があった。
キッドが引退した翌年、ふたりは出会い結婚。
妻はキッドが有名なプロレスラーだとは知らなかったという。
ダイナマイト・キッドは、たった10年の現役を刃物のように闘い嵐のように去った。
板垣恵介にとってダイナマイトキッドは最強幻想に則った格闘士だった。
「当時のダイナマイトキッドがアルティメットに出たらどうなったか?
何かやってくれたんじゃないか。
いやきっと大物を食ったりしただろう」
「長生きしようなんてまったく考えていなかったんじゃないかな。
「最高のプロレスと自分の人生を引き替えにしたんだよ。
薬物とバンプにまみれた実働時間の濃い人生を選択した男ダイナマイトキッド。
そこにジャック・ハンマーは実在した」

大山培達

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小学校の頃、板垣恵介は、少年マガジンで「空手バカ一代」を読み、大山倍達を知った。
「でっかい」
それが大山倍達の最初の印象だった。
その後、すっかりハマってしまい何度も大山倍達の似顔絵を書いた。
「後になっていろいろいわれている牛殺しにしても、角を折ったかどうかは定かではなくても、あの大きな牛を体落しで倒したのは紛れもない事実だからね。
残っている映像はやはり驚きなしにはみられなかったよ。
必死で抵抗している牛に手をかけて足をまたいだかと思うと、そのまま体落し。
力で牛からテイクダウンを奪っているんだ。
できるか、普通、そんなこと」
「ビール瓶割りにしても、手刀でスッパリやるだけでなく、瓶の首を切り飛ばしたその返しの裏拳で瓶の腹を叩き飛ばしたこともあるらしい」
板垣恵介は「空手バカ一代」、そして「大山倍達」「極真」によって格闘技に憧れ、生涯、世界最強を求め続けることになった。

モハメド・アリ

1974 10 30 キンシャサの奇跡 モハメド・アリ vs ジョージ・フォアマン

1974年10月30日、板垣恵介が中3のとき、ザイール共和国(現:コンゴ民主共和国)の首都:キンシャサで、WBA・WBC世界統一ヘビー級タイトルマッチ、王者ジョージ・フォアマン vs 挑戦者モハメド・アリ戦が行われた。
試合はアメリカのゴールデンタイムに合わせるために30日の朝4時に開始され、世界60カ国へ衛星中継(世界初)され、日本ではNETテレビ(現:テレビ朝日)で30日の13時から放送された。
(30日、19時30分から再放送)
「なんだ?
プロレスラーと同じくらい大きいじゃないか!」
板垣恵介は、プロレスラーにサイズ的に全然負けていない大男がの全力で打ち合う姿にビックリした。
ファイトマネーは、王者ジョージ・フォアマンと元王者モハメド・アリ共に500万ドル(約15億円)ずつ、総額1000万ドル(約30億円)
支払ったのはザイールで独裁政権を築き、国威掲揚を図ろうとしたモブツ・セセ・セコ大統領。
プロモーターはドン・キング。
モハメド・アリとジョージ・フォアマンは共にアメリカ代表選手としてオリンピックに出場。
アリは1960年のローマ大会のライトヘビー級、フォアマンは1968年のメキシコ大会のヘビー級で金メダルを獲得。
また2人共、プロ転向後、無敗のままヘビー級チャンピオンになった。
モハメド・アリは32歳。
46戦44勝(31KO)2敗。
22歳でヘビー級チャンピオンとなったが、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことで王座を剥奪され、3年7カ月のブランクを余儀なくされた。
1970年に復帰し、王座奪回に挑んだが、ジョー・フレージャーにプロ初ダウンを奪われ初黒星(判定負け)
1973年3月、ケン・ノートンに顎を砕かれて判定負け。
その後、両者との再戦で判定勝ちしジョージ・フォアマンへの挑戦権を得た。
ジョージ・フォアマンは25歳。
40戦40勝((31KO))0敗。
ジョー・フレージャーから6度のダウンを奪い、2RKOしヘビー級チャンピオンとなった。
2度の防衛戦も挑戦者をKOし、ここまで24連続KO。
「象をも倒す」といわれたフォアマンのパンチ力と、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」といわれたアリのスピードの戦いとなった。
両者は1Rから」積極的に打ち合った。
アリは左右に動きまわりながら左ジャブではなく、ノーモーションの右ストレートを顔面に命中させる。
フォアマンもひるむことなく前進し、強烈な左フックをアリに見舞う。
2R、フォアマンがアリをロープ際に追いつめ、連打。
アリはガードを固めて守勢一方になりながら、隙を見てカウンター。
4R、アリの手数が減り、フォアマンの強打が猛威を振るう。
5R、フォアマンはアリをロープ際に釘付けにし大振りのパンチで滅多打ち。
残り30秒、フォアマンの猛攻が止んだところでアリが反撃。
鋭い連打でフォアマンをたじろがせる。
6R、ロープ際の攻防が続く。
フォアマンの疲労が目立ち始め、パンチの手数・威力とも減少。
8R、残り16秒、ニュートラルコーナー付近でフォアマンがバランスを崩し、アリは素早く体を入れ替えロープ際を脱出し、振り向いたフォアマンの顔面に右・左・右・左・右の5連打。
最後の右ストレートが顎を直撃すると、フォアマンは足元をぐらつかせてダウン。
カウント8で立ち上がるが、レフェリーはKOを宣告した
アリは、当初は動きながらジャブを放ち、フォアマンが疲れてきたら攻め込むという作戦を立てていたが、2Rから作戦を変更。
ロープにもたれながら両腕でがっちりガード、ときにリング外にのけぞるようにスウェーして致命的なダメージを回避。
またフォアマンの後頭部を押さえつけるようにクリンチして勢いを削いだ。
この捨て身の戦法はロープ・ア・ドープ (Rope a Dope) と呼ばれた。
フォアマンは強打を繰り返して体力を消耗し、6R以降は動きが緩慢になり、8R、一瞬の連打に倒れた。
アリの劇的な勝利に会場は熱狂し、「キンシャサの奇跡」と呼んだ。
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プロレス、大山倍達の極真空手、そしてこの試合をみたことで「ボクシング」という格闘技が板垣恵介の心の中に棲みついた。
モハメド・アリ、ジョー・フレージャー、ジョージ・フォアマン、ヘビー級の3選手が、歴史的な激闘を繰り広げ、最強を争っていた時代だったが、中でも特にモハメド・アリを崇拝した。
ベトナム戦争を反対し、徴兵に応じず、政府や世論を敵に回し、ヘビー級タイトルを剥奪され、試合をすることを禁じられても、自分の信念を貫いた。
そして世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いた。
「この惑星がなくなるまで彼を超えるスポーツマンは現れっこない。
史上ナンバーワンは絶対にモハメド・アリしかない。
ダントツで」

少林寺拳法

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板垣恵介は
「組み技系の格闘技は絶対に打撃系格闘技に勝てない」
と信じていた。
しかし近くには極真の道場もボクシングジムもなかったが、高校に入ると新卒の横尾栄二先生によって少林寺拳法部が創設された。
板垣恵介は、マス大山に近づくため、とにかく少しでも強くなるために入部した。
「先生、突きをみせてください」
とリクエストすると、横尾栄二はフッと笑い
「シュバッ」
と直突きを放ってみせた。
板垣恵介は、その鍛え上げられた技に戦慄、興奮した。
(ヨシッ!
この人についていこう!)
以後、熱心に練習に取り組み、横尾栄二の家にも遊びにいって少林寺拳法の始祖で:宗道臣や格闘技の話を聞いた。
宗道臣と大山倍達は、過去に悶着があり、実際に東京の極真会館を多数の少林寺拳法家が囲んだり、他流試合を申し込んだりしたこともあった。
横尾栄二は
「大山倍達はバケモノだ」
と無意味な空手批判はせず、逆に空手家と一緒に練習したりする、開いた人だった。
その強さと技もホンモノで部員を鍛え上げていった。
板垣恵介は、横尾栄二に痛めつけられながら、本物に技に触れることを喜び夢中で稽古した。
そして3年後、2段となり、格闘技を夢みていただけの少年を卒業した。
「横尾先生とは今でも親しくお付き合いさせていただいている。
俺にとって恩師なんだ、一生」

山篭り

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板垣恵介は、高校を出て地元で働き始めた。
文房具の問屋で、トラックの助手の仕事だった。
「さすがに高校を卒業する頃には、マス大山は現役から相当離れ、年齢的にも俺の中の世界最強から離れつつあった。
それでも極真っていうものが世界最強の一翼を担っていて、その極真を創った人に対しての信仰心は何ら揺らがなかった」
板垣恵介は、友人と2人で独学で極真の練習を行った。
師は大山倍達。
その著書を読んで真似たオリジナルの稽古だった。
仕事の昼休みも、同僚は寝たが、会社の倉庫でトレーニングをした。
半年後
「人間界でどんなに猛稽古を積んでも人間業で終わってしまう。
人間業を超えるにはどうしても山篭りの修練が必要」
と仕事を1ヶ月休んで山篭りを敢行。
釧路から電車で数十分の山の中の小屋に寝泊りし、ひたすら稽古をした。
食事だけは下山し買いにいったが、それもできるだけ大山倍達が食べたものを真似た。
拳立て伏せ、スクワット、山道をランニング、樹木への打ち込み、試割り・・・・
稽古も食事も何でも真似をした。
だからその山に滝がなかったのは残念だった。
「滝行や滝への蹴り、打ち込みができなかった」
最初の数日は虫除けスプレーを使っても蚊に刺されまくったのに、いつの間にか上半身裸でいても刺されなくなった。
「山が俺を受け入れてくれた」
山篭りを終えた後も強くなる夢と努力は忘れなかった。
いつものように昼休みに会社の倉庫でトレーニングしていると
「なにやってんだ?」
と上司に聞かれた。
「ちょっと体を鍛えてるんです」
「そんな暇があるなら商品を覚えろ」
(!!!!
昼休みだろ?
自由時間だろ?)
(強さを目指して何が悪い!)
板垣恵介は山篭りから1ヵ月くらい経って仕事を辞めた。
「昼休みに腕立て伏せをして評価される世界ってどこだろう?」

自衛隊空挺部隊

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  • 2020/2/5 21:38

    ほぼ全ての文章が「た」で終わっており、表現力に乏しい。

    板垣先生の話をしたいのか?
    プロレスの話をしたいのか?
    纏まりが無さすぎて読むのが苦痛だった。
    精読に要した時間を返して欲しい。

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