板垣恵介の格闘技史1  板垣死すとも格闘ドリームは死せず
2020年2月4日 更新

板垣恵介の格闘技史1 板垣死すとも格闘ドリームは死せず

「男に生まれたからには1度は最強を目指す。最強に憧れないなんて男じゃない。最強を夢みない男なんていない。みんないつかあきらめてしまうだけなんだ。だからこそみんな強さに憧れるんだ」そういう板垣恵介の真っ直ぐな人生と共に、20世紀の格闘技史を振り返る。

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弟子に
「合気道で一番強い技はなんですか?」
と聞かれると
「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」
と答えたり、
「人が人を倒すための武術が必要な時代は終わった。
そういう人間は自分が最後でいい。
これからは和合の道として、世の中の役に立てばよい」
と武道の意義を説いていたが、あるとき
「私とお手合わせ願えませんか」
と空手家が他流試合を申し込んできたときは
「あ~私と、そうですか。
ハイ、わかりました。
で、いったいいつやりますか?」
とスローに間の抜けた感じで聞き返した。
「今日、この場でお願い・・・・」
答える前に空手家は玄関で倒れた。
人差し指で喉元をえぐっていた。
「いや、若いな」
塩田剛三を知って板垣恵介の「最強」論は、混沌となりカオス化してしまった。
「誰が強いのかわからない。
どういう戦いでその強さを測ればいいのかも・・・」
そして「刃牙」では、柔術家・渋川剛気のモデルとなった。

中国拳法 小金井で4000年の末端に触れる

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1985年、出版社に勤めていた板垣恵介は、太気拳の道場が小金井にできたことを知り、取材を申し込んだ。
「取材はお断りしています」
「なんとか練習だけでもみせてもらえませんか?」
「何かやっていたの?」
「はい、少林寺を」
「どれくらい?」
「3年やりました」
「年数じゃない、段位を聞いてるんだよ」
「あっ2段です」
「おお!
他に何か?」
「ボクシングを・・・」
「どれくらいやったの?」
「国体に出たことがあります」
「立ち合いましょう」
「立ち合うんですか?」
「みたってわからなからね。
立ち合わないとわからないよ」
こうして取材許可が下りた。
友人に話すと大笑いされた。
「立ち合って化けの皮を剥がしてやれ」
板垣恵介は、高校生のときにブルース・リーの鍛え抜いた肉体をみてショックを受けた。
しかしブルース・リーの凄さは認めていたが、中国拳法の実戦性には疑問があった。
あんな大きな跳び蹴りが当たるのか?
極真空手やテコンドーの試合で勝てるのか?
しかしブルース・リーが
「俺に勝てると思っているなら誰でも挑戦してくればいい」
といえば信じたくなる。
それくらい中国拳法は幻想を抱かせる何かがあった。
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太気拳は、柔道5段、剣道4段、居合道4段だった澤井健一が、1931年に軍の任務で満州(中国)に渡り、北京で中国拳法家:王向斎と立ち合ったことから始まった。
ある日、中国人の友人に王向斉についての噂を聞き、その友人に紹介してもらい王向斎に面会した。
そして当時30代半ばの澤井健一は、痩身で小柄な老人と手合わせを行った。
そして柔道の技は完璧に封じ込まれ、剣道でも棒切れ一本を持った王向斎に簡単に払われ、まったく歯が立たず負けを認めた。
そして王向斎に弟子入りを志願した。
王向斎は
「外国人の弟子は持たない」
と拒否したが、澤井健一は諦めず連日、入門を懇願した。
1週間後、王向斎は澤井健一の熱意を汲み、
「決してこの武術の修行を止めません」
という血書を書かせて入門を許可した。
王向斎は、形意拳の達人:郭雲深の最後の弟子で、16歳で武器を持った数十人の山賊を単身素手で撃退した。
「数が多い敵でも数人を倒せば、後は恐れをなして逃げる」
やがて国を代表する拳法の達人「国手(国を代表する拳法家)」といわれるまでになり、北京陸軍で武術を教え、また各地を巡って数々の中国武術を研究した。
そしてそのエッセンスを抽出して創意工夫を加え意拳を創始した。
試合において相手は王向斎の動きを捉えることができず、まるで顔が7つあるかのようにみえたといい、王向斎が軽く手を触れただけで雷に打たれたように倒れたという。
澤井健一は、中国武術の基本である型中心の動く練習ではなく、 ほとんど動くことのない站椿(タントウ、立禅)を徹底的にやらされた。
その目的は、気を練り内功を養うことだった。
その後、王向斎の直接指導の下で兄弟弟子と共に厳しい修行を続けた。
1945年8月、日本が敗戦し、自決しようとする澤井健一に王向斎は
「日本人は物事に一生懸命だが、1度失敗すると死にたがる。
愚かなことだ」
「できるだけ日本に帰りなさい。
それが道のためでもある。
間違っても死ぬような考えを起こさないように」
と何度も諭した。
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こうして1947年に日本へ帰国を果たした澤井健一は、師の教えを遵守し、1人で站椿を中心とした修行に励んだ。
そして王向斉の命を受け、意拳にかつて自らが修行した柔道、剣道、居合道などの要素を加え、太気拳を創始した。
稽古は自然の中で行うべしと常設道場を持たず、東京の明治神宮で少数の弟子を指導し、「立禅」「揺」「這」「練」で内功を養った後に激しい組手を行った。
「立禅」は、自然に立ち、胸の前でボールを抱くように腕を上げ、静かに気分を落ち着かせ、精神を集中し、風、空気を感じるように立つ。
心拍数を上げることなく鍛錬中に休息し、休息中に鍛錬をする。
最も重要なのは、感じること、そして内外を一体にすることである。
呼吸は極めて自然に心地よく全身で行う。
体中の穴を風が通り抜けるように感じることで内外を一体化していく。
内外の一体感が高まり、身体が整うと、本能的な作用で自然と力が発揮される。
しかし力を使うとその一体感が崩壊してしまうので繊細な注意が必要となる。
力を使わない事によって力が湧き出てくるのである。
「揺(ゆり)」は、立禅で養った力を動きの中に活かす。
片足を前に出した半身での立禅から、ゆっくりと糸を繰るように腕を伸ばし、縮める。
立禅を継続すると体の中にバネのような弾力や波を受けたような抵抗感が現れる。
それらの感覚は微妙なもので無闇に力んだり動くとすぐに消えてしまう。
「揺」は、この抵抗感を利用して全身の筋肉、関節、神経、意識が統合された状態を維持しつつ動く稽古である。
「這(はい)」は、人体と拳法の要である下半身を練る歩法。
腰を落とし腕を上げ、泥の中を這うように、ゆっくりと歩む。
スクワットのように筋力を鍛えることが目的ではなく、身体を整え、下半身を練り、その力を上半身に伝えることができるようにする。
「立禅」で力を養い、その力を「揺」「這」を通じて動きの中でも維持できるようにする。
動いても立禅で培った力を保ち続けることができるよう、体を餅のように練ってゆくことが重要である。
圧倒的な武術力を持つ澤井健一の神宮の稽古は、知る人ぞ知る貴重な修練場となった。
また極真空手の大山倍達とも交流があり、技術交流も行われた。
「立禅」「揺」「這」を行った後に「推手」「組手」が行われる。
陸の上だけでクロールを覚えても泳げないように、立禅の稽古を通じて様々な感覚が生じてもそれだけでは実戦には使えない。
そこで対人稽古としてお互いの腕に触れ合い円を描きつつ相手の力を感知し対応する「推手(すいしゅ)」そして総合的な「組手」を行う。
太気拳に試合はない。
組手も、勝った、負けたではなく、今まで培ってきた力の確認と応用のために行われる。
立禅、揺、這、推手、組手と動きが徐々に大きく激しくなるが、立禅の状態を維持して動くことが大切で、太気拳の稽古はすべてが「禅」であるといえる。
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1週間後、板垣恵介は道場を訪ねた。
道場生が板張りのスタジオのようなところで練習していた。
やがて先生が現れた。
板垣恵介は勝手に小柄な人をイメージしていたが、その先生は180cm90kgの巨体だった。
(これなら拳法やってなくても十分強いじゃん)
そう思いながらも挨拶した。
「すみません、失礼します」
「ハイ!
ああ、少林寺拳法とボクシングの人ね」
振り返った先生は顔中傷だらけで、片方の眼が不自然で義眼のようで、手も古傷だらけだった。
先生の名は島田道男。
高校時代は柔道、大学時代は顔面、金的アリの空手を学んだ。
澤井健一の下で太気拳の稽古に励み、1985年、澤井健一に命ぜられ太気拳道場「気功会」を開設した。
板垣恵介は道場の端に座って見学した。
道場生は各自のペースで、立禅、這・・・と進んでいった。
「まあこんな感じなんだけど、今日は何?
取材とかいってたけど、ぶっちゃけヤリに来たんでしょ?」
島田道男はそういって板垣恵介と体格が似た道場生を道場中央に連れ出した。
「こいつはまだ全然、太気拳じゃないけど、おたくにはちょうどいいくらいだろう」
「あのどんなルールでやりますか?」
「ルールってなんだい。
立ち合いっていったら立ち合うんだよ」
立ち合いは、板垣恵介がボクシングや少林寺拳法で経験したことのない激しいものだった。
最初はジャブを出すと踏み込まれ攻撃を潰されてしまった。
やがて相手の動きを理解し、思い切り踏み込んで右ストレートを放ち、相手が反応した瞬間に左フックを打ち込んだ。
一瞬、相手は腰を折り、右の口元をカットしアゴ先から血を滴らせた。
しかし淡々とした表情で立ち合いを続けた。
「やめっ」
数分の立ち合いで結局勝負はつかなかった。
(やった!終わった!)
ホッとした瞬間
「こいつはまだ入って間もないんだけどね」
と島田道男は2人目を指名した。
それは180cmはあるフルコンタクト系の空手家だった。
ハイキックがかすりそうになりながら板垣恵介は必死に戦い、倒されずに立ち合いを終えた。
2人目が終わると島田道男はいった。
「よし、そろそろやろうか」
板垣恵介は島田道男と向かい合った。
そして強力な制空圏を感じた。
(入ればやられる)
身長は2人目の相手と変わらないが、制空圏の広さと大きさはまるで違っていた。
しかも島田道男の目はこちらをみずにあさっての方向をみていた。
巨体で義眼の顔中傷だらけの男が、こっちもみずに一歩一歩近づいてきた。
(絶対に俺のパンチは顔面に届かない。
じゃあ腹だ)
板垣恵介はフェイントをかけ、ステップを踏みながら、ボディを狙うために距離を詰めた。
すると
「パチーン」
腕に衝撃を感じ、次に腹を拳か肘かなにかで打ち抜かれ、床に倒れ、痛みで体が丸まった。
「大丈夫か?」
「ハイ、なんとか・・・」
「ヨシッ!もう1本」
立ち上がった板垣恵介は下がる一方だった。
道場の端に追い詰められ、後ろは壁だった。
(行かなきゃ)
その瞬間、島田道男の腕が伸び、裏拳が飛び、中指の第2関節の出っ張った骨が板垣恵介の眉間を直撃した。
眉間が陥没したかと思うほどの痛みに板垣恵介はダウンした。
「大丈夫か?」
「ええ、なんとか」
「そうか、ヨシッ、もう一本いってみようか」
板垣恵介は、眉間から血を流しながら後退。
これ以上逃げられないところまで追い詰められ、まったく同じ攻撃をまったく同じ場所に受けた。
「勘弁してください」
「いやあ、こんなに頑張るとは思わなかった。
みんな、この人の拍手だ」
道場生は拍手で板垣恵介を称えた。
 (2164133)

「俺は中国に行ったこともない。
伝説の中国拳法家に会ったこともない。
だが小金井で4000年の末端に触れてしまった」
格闘技の道場を開くのに国家資格はいらない。
大して強くもないし、人格的に不適当であっても道場は開くことができる。
他の格闘技同様、中国拳法も玉石混交で、太気拳も偽者が横行していた。
1988年に亡くなった澤井健一が、支部をつくって指導をしてもいいと許可を与えた人物は、たったの7人しかいないといわれている。
板垣恵介が道場を辞退するとき島田道男はいった。
「今度さあ、澤井先生に紹介してあげてもいいから、神宮の方に一緒にいこう。
だけど今日のことは先生にいっちゃダメだよ。
先生にかかればオレなんか子供扱いにされちゃうんだから・・・」
(エエ加減にしてくれ。
澤井健一に「じゃあ、やろうか」っていわれたらどうすんだ!)
中国拳法。
そこには打岩を球体に叩き削る男が実在するのかもしれない。

極真の生ける達人

小さな達人 堺貞夫 03  Sadao Sakai kyokushin  極真空手

1985年、極真空手の第17回全日本大会において、松井章圭は、決勝で前年度王者で「格闘マシン」と呼ばれた黒澤浩樹との激闘を制して初優勝した。
松井章圭は、14歳で黒帯となり、17歳で全日本大会に初出場、そして全日本大会2連覇、世界大会、100人組手を達成した不出世の天才空手家で、大山倍達の死後は遺言書で自らの継承者として指名された。
しかしもしかしたらこ第17回全日本大会で松井章圭が1番苦しんだのは、黒澤浩樹ではなく4回戦の堺貞夫だったかもしれない。
体重無差別で行われる極真において174cm、88kgの松井章圭は決して大きくない。
しかし堺貞夫は、157cm、60kgしかなかった。
日頃から口数が少なく、基本の1本1本すべてに手を抜かず黙々と稽古に励んだ。
その姿は鬼気迫るものがあり、試合前は部屋を掃き清め下着も新調し、半ば死を覚悟して試合に臨んだ。
空手に賭ける覚悟が並外れた、まさに武人だった。
1回戦は中段回し蹴りで技ありを奪った。
2回戦は相手の下段回し蹴りに右上段回し蹴りを合わせて1本勝ち。
3回戦は桑島靖寛(後の全日本王者)をパンチでくの字にして判定勝ち。
そして4回戦で松井章圭と対戦した。
堺貞夫は、両手を前にして腰を落とした構え(後屈立ち+前羽の構え)で流水のごとく松井章圭の突き、蹴りを受け、捌き、合わせ技(カウンター)を返した。
松井章圭は強引に攻めたが攻撃は全然当たらなかった。
本戦、延長戦、共に決定打はなく引き分け。
もし再延長戦も引き分けとなると体重差10kg以上あれば勝ちとなる。
(堺貞夫は25kg軽かった)
再延長戦に突入する直前、大山倍達が
「何故一方的に攻撃している方に旗を上げないのか」
と審判員を全員入れ替え。
再延長戦も一進一退の展開となり、判定となり、4人の副審のうち2人が引き分け、2人が松井、主審も松井の優勢とし、3-0で松井章圭の勝利となった。
堺貞夫は負傷もなく試合場を去った。
「まるで勝った気がしない」
(松井章圭)
「武道の真髄である円の動きを巧みに使っていた。
また受けが一番うまかった。
防御すなわち攻撃だという事が如実に現れていた。
彼の活躍は体が小さい道場生にも希望の光をもたらした点でも素晴らしい」
(大山倍達)
堺貞夫は、判定に関して一切コメントしなかった。
歳をとっても、体が小さくても、スピードがなくても、パワーがなくても、華麗なフットワークがなくても、腰を落とした不動の構えで相手の攻撃をことごとく外し必殺の一撃で倒す。
「格闘技ほど人間の可能性を感じさせてくれるものはない」
堺貞夫をみて板垣恵介は、ますます格闘技に心を惹かれ、格闘士に憧れた。
「年をとって弱くなるんだったら武術の意義ってどこにあるの?
筋肉がなくなったら、体力が衰えたら、若い頃どんなに鍛錬していても身につけた技は通用しなくなっていいのか。
武術の技ってそういうもんじゃないだろう。
野球でホームランを打つ力や100mを速く走る能力と武術は全く違うんだ。
体が小さくても、スピードがなくなっても、常識を覆すような技、技術。
枯れた技っていうのかな」

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  • 2020/2/5 21:38

    ほぼ全ての文章が「た」で終わっており、表現力に乏しい。

    板垣先生の話をしたいのか?
    プロレスの話をしたいのか?
    纏まりが無さすぎて読むのが苦痛だった。
    精読に要した時間を返して欲しい。

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