板垣恵介の格闘技史1  板垣死すとも格闘ドリームは死せず
2020年2月4日 更新

板垣恵介の格闘技史1 板垣死すとも格闘ドリームは死せず

「男に生まれたからには1度は最強を目指す。最強に憧れないなんて男じゃない。最強を夢みない男なんていない。みんないつかあきらめてしまうだけなんだ。だからこそみんな強さに憧れるんだ」そういう板垣恵介の真っ直ぐな人生と共に、20世紀の格闘技史を振り返る。

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板垣恵介は、強くなるために体を鍛えていて文句をいわれない職場を求め、自衛隊に入った。
入隊後、半年間の教育期間を終えて帯広に配属された。
その後、板垣恵介は1番訓練がキツいといわれる空挺部隊への転属希望を出し続けた。
空挺部隊は空から地上へ降下して作戦を展開する部隊で、パラシュート部隊ともいわれる。
世界中の軍隊で、パラシュート部隊は精鋭と呼ばれる。
敵と味方が陣地を奪い合う最前線を輸送機で密かに越えて敵の支配地域の中にパラシュートで降下する。
輸送機から飛び降りるとき、主傘と予備傘が20㎏、小銃や背嚢など個人装具を30㎏をつけている。
1000m以上の高さから飛び出すスカイダイビングと違い、パラシュート部隊の高度設定は敵から発見されるのを防ぐために300m。
333mの東京タワーから50㎏以上の装備を身につけ飛び降りるようなもので、通常の降下訓練でも死傷者が出ることもある。
その着地の衝撃はすごく、長くパラシュート部隊を続けると膝がおかしくなってくるという。
しかし着地はあくまで始まりで、敵の支配地域に降り立ち、少人数軽装歩兵のままで作戦を遂行しなければならない。
兵役があるスイスにおいて、極真空手とK-1で活躍したアンディ・フグも、その身体能力の高さから山岳パラシュート部隊に選ばれた。
強くなりたくて、堂々と体を鍛えたくて自衛隊に入った板垣恵介は、空挺部隊で厳しい訓練を受けたいことを猛アピール。
3ヶ月間の帯広を経て、千葉県習志野の空挺部隊へ移動した。
空挺部隊は、訓練だけでなく規律も厳しかった。
頭髪は全員が五厘刈り。
軍靴は顔がハッキリ映るほどピカピカに磨かされた。
そしてみっちりと厳しい訓練を積まされた。
総重量30kgの小銃や荷物を背負い3日間不眠で富士山麓を100km歩き続ける訓練もあった。
「この訓練が人生で一番キツかった。
どんなことがあってもアレに比べれば大したことはないと人生の糧になった」

ボクシング

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入隊9ヵ月後、板垣恵介はボクシング部に入った。
入部2週間後、県民大会にフェザー級(55.338〜57.153kg)で出て1RでKO勝ちした。
次の試合はバンタム級(52.163〜53.524kg)で出場することになった。
毎朝、ダッシュを入れながら4kmのロードワーク。
そして通常の自衛隊の訓練と仕事を終えた後、ボクシング部で練習した。
減量はキツかったが、「あしたのジョー」の影響で、
(この厳しさが俺を強くしている)
と信じた。
そして試合で中根裕二という選手と対戦しKO負け。
「打倒!中根!」
で猛練習し、半年後に再戦。
ストレートで顎を打ち抜かれ、1RKO負けした。
3戦1勝2敗。
2KO負け。
完全に落ち込んだ。
しばらくして北海道の演習から東京へ帰る船の中で上官でもあるボクシングの監督から次の大会に出るようにいわれた。
その大会は2日後だった。
「減量もしていませんし、何の準備もしていません」
「大丈夫だ。
ライト級(58.967〜61.235kg)で出場すれば減量もしなくていいだろ」
その夜から練習を始めたが、練習後には体重がライト級を下回ってしまった。
「練習せんでいい。
食え」
(俺はどんなボクサーだ)
負い目を感じながら食って試合を迎えた。
しかし体調はよかった。
体が元気で、試合が始まると相手のパンチが全然、痛くなく効かなかった。
そしてあれよあれよとトーナメントを勝ち抜き優勝した。
この後もライト級では県内で負けなかった。

レスリング

アレクサンドル・カレリン「カレリンズ・リフト」の技のまとめ動画集

自衛隊に江藤正基という57kg級の世界チャンピオン1(983年の世界選手権優勝、1984年のロスオリンピック銀メダル)がいて、板垣恵介は
「オレの片脚つかんで倒してみな」
といわれた。
片脚で立つ江藤のもう一方の脚を両腕でつかみ
(倒せる)
と思ったが、江藤の1本足は根が張ったようにまったく動かない。
それどころか首や体の要所要所を押さられ思うように動けない。
そしていつの間にか足をかけられ倒された。
「ちょっと待って。
今のは本気じゃなかった。
もう1回」
もう1度片脚に両腕を巻きつけ、今度は一気に持ち上げようとした。
しかし江藤に首を押さえられると力が入らなかった。
「人が重たいものを持ち上げるときは、まず首を起こし、それから各部位に連動させていく。
だから首をコントロールしたら体全体を支配できる」
そういう江藤の肉体は全身の筋肉が発達し、練習やトレーニングで歯を食いしばるため前歯が薄くなり歯医者に
「これ以上歯を磨いたらダメ」
といわれていた。
板垣恵介は、レスリングは人体の力学を追求したテクノロジーの結集であり、レスラーは人体のメカニズムを知りそれをコントロールする術をマスターした力持ちであることを知った。
だからオリンピックと世界戦手拳で通算12連覇した人類史上最強のレスラー:アレクサンドル・カレリンが前田日明を持ち上げたときは興奮した。
板垣恵介は、20歳のときに陸上自衛隊に入隊し、陸自屈指の精鋭部隊:第1空挺団に約5年間所属したが、B型肝炎を患い、1982年に除隊、1年近い入院生活を送った。
その後はさまざまな職業を経験した。

UWF

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1983年8月11日、初代タイガーマスク(佐山聡)は、突如、新日本プロレスに内容証明書付きの契約解除通告書を送り、一方的に引退。
直後、「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にゲスト出演し、あっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。
新日本プロレス退団後、
佐山はジャイアント馬場の全日本プロレスから1億とも2億ともいわれているオファーを受けたが断った。
「たとえ新日を辞めたとはいえ猪木に恩を仇で返すことはできない」
1984年、新団体UWF(Universal Wrestling Federation:ユニバーサル・レスリング連盟)が設立された。
UWFの旗揚げ興行ののポスターには
「私はプロレス界に万里の長城を築く」
「すでに数十人のレスラーを確保した」
とも書かれてあり、猪木、タイガーマスク、長州、アンドレ、ホーガン、前田日明らの顔が並んでいた。
前田日明は
「猪木さんが『俺も後から行くから、先に行ってくれ』といわれたので移籍した」
というが、その猪木は新日本プロレスで起こったクーデターを見事に乗り切り、1983年度の長者番付でプロスポーツ部門で1位(納税額8,268万円)になっていた。
1984年4月11日、埼玉県大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ興行が行われた。
しかしリングに猪木、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントなどはおらず、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬ら新日本プロレスのリングではセミファイナル以下のレスラーたちだった。
ときにリングには罵声が飛び、ときに猪木コール、長州コール、藤波コールが起こった。
こうしてUWFは波瀾の船出となった。
旗揚げ後、しばらくUWFは路線も定まらない状態だったが、藤原喜明が高田延彦を引き連れて参加したあたりから方向が定まり出した
それは道場で行われるスパーリングのような関節技をかけ合う攻防を中心としたサブミッションレスリングだった
1984年7月23日、24日、「UWF無限大記念日」大会に引退していたタイガーマスク(佐山聡)がザ・タイガーとして参戦。
こうしてメンバーがそろってみれば、UWFは皆カール・ゴッチを師事する男たちだった。
UWFは前田、タイガー(佐山)、藤原、高田、木戸修、山崎ら日本人対決を軸に壮絶な試合をした。
ロープワークをしないし、相手の技も簡単に受けない。
従来のプロレスのショー的要素を廃し
「キックが急所にまともに入ったら立っていられない」
「関節技がガッチリ極まれば絶対に逃げられない」
という格闘技色の濃いプロレスリングを展開した。
UWFは熱狂的なファンを生み出した。
こうして一見、UWFは順調にいくかと思われた
しかし佐山の参戦はUWFにとって諸刃の剣だった。
まず佐山は参戦の条件として、一部のフロントの追放を挙げていた。
これにより新間は正式にUWFから身を引き、その後、新日本の裏方に戻った。
 (2164156)

また佐山はすでに自分の道場:タイガージムを立ち上げ
(金銭的に他のメンバーに比べ有利な状態だった)
「理想の新格闘技」を模索していた。
それはしっかりしたルールに則った格闘技で、佐山はその格闘技を「シューティング」、その格闘技の選手を「シューター」と呼んだ。
理想に燃える佐山はUWFのルールに口を出した。
そして実際に
「ノーフォールマッチ」
「Aリーグ、Bリーグの2リーグ制」
リーグ戦の戦績から「ランキング導入」
「反則をより明確にする」
「フォールは体固めとブリッジフォールしか認めない」
「減点ポイント制を導入しロープエスケープを繰り返しポイントがなくなった時点で負けとなる」
「UWF認定のキック専用シューズ以外を付けてファイトする時はキック攻撃を行ってはならない」
など新ルールマッチが実験的に実行されていった。
しかしこれは他の選手にとってフラストレーションだった
彼らにしてみれば苦労を重ね、やっとUWFが認知され始めてファンを獲得し、そこに後からポッと来た佐山が偉そうに次々と新しいことをやれといってくる
決して面白くはないはずである。
「UWFはプロレスではなくシューティングで自分達はシューター」
「自分はカールゴッチより強い」
そういう佐山と一部の選手との間に確執が高まっていた。
1985年9月2日、大阪府立臨海スポーツセンターで前田日明が佐山聡に一方的に喧嘩マッチを仕掛けた。
前田は、ラフな張り手、膝蹴り、グラウンド状態の佐山にキックなど尋常ならざる精神状態で尋常じゃないファイトを仕掛けた。
攻防の中で佐山は前田の蹴りが自分の金的に当たったとアピールしレフェリーは試合を止め、18分57秒、スーパー・タイガーの反則(金的蹴り)勝ちとなった。
前田の蹴りは実際には佐山の下腹部には当たっておらず、佐山がケンカを回避するため一方的に試合を終わらせたものとみられている。
UWFの不協和音が表に噴出した瞬間だった。
(この後佐山聡はUWFへの参戦をキャンセルした)
そして1985年9月11日、UWFは崩壊した。
前田日明、藤原喜明、木戸修、高田伸彦、山崎一夫らは業務提携という形で新日本に復帰。
佐山は理想の格闘技「シューティング」(後の修斗)の創設に力を注ぐことになる。
板垣恵介はUWFができたとき、期待をして胸躍らせて会場にいった。
しかし格闘技の凄みは感じることができなかった。
顔面にモロに蹴りが入っていたが、首に力を入れて歯を食いしばって受けているのがわかった。
来ることがわかっている蹴りや掌底をかわさずに受けて返しもしない。
「UWFは擬似格闘技だった」
「プロレスの基本構図に格闘技のいいとこどりをしたUWFのやり方はハッキリいってズルイ」
という。

合気道 塩田剛三

 (2164151)

板垣恵介は、高校生の頃から合気道を疑っていた。
複数の大人の道場生が、塩田剛三という小さな老人に襲い掛かると、体の一部を触れられただけで飛んでいく映像をみて
「こんなのほんとうのわけがない。
みんなで達人と呼ばれる老人を過保護にかばっているに過ぎない」
と思っていた。
1984年、出版社に勤めていた27歳の板垣恵介は合気道の道場を取材した。
練習を見学中、うつ伏せの相手の手首と腕の付け根を抑える技があったが
「逃げられる」
と思った。
練習後、板垣恵介は、道場の入っているビルの踊場で、有段者にその技をかけてもらった。
「本気で逃げますから、そのつもりでかけてください」
「はい」
その後、絶叫がビルにこだました。
実際に抑えられると無茶苦茶痛かった。
逃げようと動けば痛みは増し、迂闊に動けなかった。
「これはモンモノかもしれない」
それまで最強探しの旅で蚊帳の外だった合気道に対する考え方が改まった。
そして塩田剛三の道場:養神館(合気道養神館本部道場 〒169-0075 東京都新宿区高田馬場4-17-15-2F)に通い始めた。
 (2164147)

塩田剛三は、貧しい人は無料で診察し、金持ちからはガッポリ治療費をとった小児科医の父を持ち、裕福な家庭で何不自由なく育った。
新宿区立四谷第6小学校時代から剣道、柔道を習い、旧制東京府立第六中学校5年時に柔道3段を取得。
18歳のときに植芝盛平の植芝道場を見学。
その稽古を
「インチキじゃないか」
と思いながら眺めていた。
すると植芝盛平に
「そこの方、やりませんか」
といわれ立ち合いとなった。、いきなり前蹴りを放つと、一瞬で壁まで投げ飛ばされた。
「投げられたときに頭をしたたかに打ちましてね。
私より小さなお爺さんに何をされたのかもわからず、閉口してしまったわけです。
その場で手をついて、弟子にして下さいといいましたよ」
こうして約8年間、植芝盛平の下で修行に励んだ。
反射神経を鍛えるため、水槽の中を泳ぐ金魚の動きに合わせて左右に動くという訓練を続け、超人的な反射神経と集中力を体得、視界から消えるとまで評された体捌きを完成させた。
反射神経にまつわる逸話は多く、自動車にはねられそうになった瞬間、無傷でかわしたという証言もある。
拓殖大学では、史上最強の柔道家といわれる木村政彦が2年後輩にいたが、腕相撲で勝った。
1941年から、畑俊六(軍人、元帥、陸軍大将)の秘書として台湾、中国、ボルネオ島など各地に派遣され、各地で勤務の傍ら合気道の指導を行った。
1946年に帰国し、植芝盛平の下で再び修行に打ち込んだ。
同時期、田中清玄(実業家、政治活動家、CIA協力者、フィクサーともいわれる)に誘われて秘書となり、ストライキに悩まされていた日本鋼管に出向し、社員、警備員に合気道を指導した。
1956年、養神館を設立し合気道養神会を結成した。
1961年、植芝盛平より合気道9段(当時の最高位)の免状を受ける。
1962年、養神館を表敬訪問したロバート・ケネディ夫妻の前で演武を行った。
その強さを疑ったロバート・ケネディの申し出で、同行していたボディーガードと手合せを行い、圧倒した。
「私のボディーガードがその小柄な先生に立ち向かっていったところ、まるで蜘蛛がピンで張り付けられたように、苦もなく取り押りさえられた。
その後でボディーガードは 『今朝は食事をしてこなかったものですから』といってはいたが、食事をしてきたら勝てたとはいわなかった」
1990年、全日本養神館合気道連盟、国際養神会合気道連盟を設立し、国内だけでなく海外にも養神館合気道の普及を進めていった。

塩田剛三 最後の指導 vol.1 合気道養神館黒帯研修会の記録 SPD-8221

塩田剛三は1994年に78歳で他界するため、板垣恵介は実物の実技をみれた最後の弟子となった。
実際に手ほどきを受けることはできなかったが、週1回行われる黒帯だけで行われる「黒帯会」を見学し生ける武神の実力を目の当たりにした。
一般の稽古が終わり、黒帯会が始まるまでの30分間、黒帯が集まってくる。
そして正座で整列する。
道場は水を打ったようにシーンを静まり返る。
「タッタッタッタッタッタッ・・・」
板張りの廊下を駆けてくる音がして、姿勢のよい155cm45kgの老人が道場に入り、道場生の前に正座した。
「神前に礼」
「館長に礼」
こうして黒帯会がスタートした。
まず塩田剛三は訓話を行った。
「なぜスピードが出ないか。
それは・・・と・・・のバランスが悪いからだ」
植芝盛平は、合気道の技の理論を宗教用語や古語や難解な言葉を用いて説明したが、塩田剛三は
「中心力」
「スピード」
「タイミング」
などわかりやすい言葉で教えた。
また短期間で基本的な動きを身に付けられるように6種の基本動作と構えを制定した。
そして実技に入ると神技のオンパレードとなった。
数名の黒帯が塩田剛三の手首をとろうとするがビクともしない。
「お前はここの力の入れ具合がなっていないから・・・」
手首をつかんでいる黒帯は、倒れないよう必死にこらえ足の踏み場を探しドタバタし、倒された。
倒れないように手首を掴んでいる手を離したいが、塩田剛三が、その手首を掴んでいる力すらコントロールしてしまうため離せない。
投げられた黒帯は
「重かった」
という。
「痛いと感じさせるようじゃダメだ。
痛くて倒れている状況じゃダメなんだ。
痛くないけどどうしようもないという状況まで持ち込まねば」
そういう塩田剛三は、弾力のある竹の束を横に渡し、これをフルパワー、フルスピードの木刀を振り下ろす練習を行った。
振り下ろした木刀はバウンドさせてはいけない。
跳ね返ってこないように押さえ込む。
竹の跳ね返す力を封じ込める。
また別の組手で塩田剛三は、弟子をパワーではなく相手の力を利用してフワッと浮かせてから、アゴをつかみそのまま頭部を地面に叩きつけた。
その弟子は立ち上がったが、床が波打つように揺れ、視界はグジャグジャで風景がネジ曲がってて立っているのが精一杯だった。
「拳法も空手も全然人を倒すことができない。
その点、俺は、地面を武器にできたよ」
「実戦では当身7分投3分」
といい相手の喉を指1本で突いて悶絶させたり、後ろからタックルしてきた相手に肩をぶつけて吹き飛ばすという当身技を披露した。
「日常、それ即ち武道」
と普段、歩いているときでも一切の隙がなかったといわれているが
「呼吸力を出すためには足の親指を地面に食い込ませるように立たなくてはならない」
といい、靴を履いて玉砂利の上を歩いて足跡は親指の部分が特に凹んでいた。
 (2164145)

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  • 2020/2/5 21:38

    ほぼ全ての文章が「た」で終わっており、表現力に乏しい。

    板垣先生の話をしたいのか?
    プロレスの話をしたいのか?
    纏まりが無さすぎて読むのが苦痛だった。
    精読に要した時間を返して欲しい。

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