1973年秋~1976年 ヤマハ ポピュラーソングコンテスト
@romi0121
— GCM (@GCM310) September 24, 2014
この5人の安全地帯は多分1974年〜1976年の2年間は殆んどこの5人で活動していました。
その後1977年に六土開正バンドと合併して1時期8人編成という時代もありましたが、なんとなく今の5人に落ち着きました。 pic.twitter.com/nQqJpwxTyM
このコンテストに出場したことをきっかけにデビューしたアーティストは、
■1975年 八神純子
■1976年 渡辺真知子、中島みゆき、因幡晃
■1977年 世良公則&ツイスト、安部恭弘
■1978年 佐野元春、長渕剛、円広志
■1979年 チャゲ&飛鳥、クリスタルキング
■1980年 きゅうてぃぱんちょす(杉山清貴&オメガトライブ)
■1981年 伊藤敏博、アラジン(高原兄)
■1982年 あみん(岡村孝子)
■1983年 TOM★CAT、辛島美登里
などそうそうたるメンバーです。スターの登竜門ですね。
1978年 ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション
新生・安全地帯は、旭川の郊外、永山にある廃屋を借り、安全地帯専用スタジオにリフォームし、MFP(ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション、「音楽を耕す農夫の集団」)と命名しました。当初は屋根と壁があるだけで、そこに水道を引き、床を張り、壁に防音材を詰めていました(周囲300m四方には家もなかったのに)。改装費用は500万円でほとんどが借金。このスタジオで安全地帯は連日連夜、曲作り、練習、デモテープ作りに励む(かたわらバイトに精を出す)。一日に7~8時間こもることも。
そして、およそ800人が収容できるホールを自分達で貸し切って、定期ライブを開催するようになります。
安全地帯 アマチュア時代のLive音源 「とても素敵さ」
「テープを聴いて“これはいける!”と思った。直感でね。で、すぐに旭川の合宿所に会いに行ったんだ。当時の彼らはみんな長髪でね。玉置なんかまるでパット・シモンズ(ドゥービー・ブラザーズのメンバー)みたいな雰囲気だった。で実際に演奏を聴いてみると想像以上にパンチがあってストレートで“これは絶対にいける”って確信した」(金子章平談)
1981年 井上陽水のライブツアーのバックバンドに
『井上陽水のバックバンドに、まだアマチュアだった安全地帯を起用した理由は、井上陽水の持っている複雑なニュアンスが入り組んだ表現の美しさに、安全地帯の純粋な想いが込められた音楽が加わることで、お互いにとってプラスに働くと思ったからです」。金子章平は当時のことについて、こう振り返っています。
萌黄色のスナップ
玉置浩二は、その当時について、こう振り返っています。
「給料なんてないし、衣装買うカネもないような状態だった。だから陽水さんとの最初のツアーの衣装なんて、みんなで渋谷のジーンズメイトに行って買ったやつだったね。それにハチマキってスタイルだったよ」(玉置浩二談)
『人生でなにかを見失ってしまう時ってあると思うんだけど、見失うものっていうのは大切なものであって、大切じゃないものは見失わない。』