速球派から技巧派へ転向
デビュー1年目10勝、2年目に21勝し一躍近鉄のエースとなる。1969年に24勝、1967年から5年連続20勝をマーク1972年14勝どまりだったのを契機に技巧派に転身、1975年再び20勝をあげエースに返り咲く。1978年、10試合連続完投勝ちの日本新及び通算63完封のパ・リーグ、タイ記録を樹立。この年25勝で最多勝、奪三振、防御率ベストナインの4タイトルを取る。かつてはプロ野球のお荷物とまでいわれた弱小チームを支えた左腕投手である。右投げだったがケガの為左に転向した。
「弱い近鉄では1対0で勝つしかない」
5年連続で20勝以上した1961年から71年までの近鉄の順位は6、4、2、3、3位だった。それ以前万年Bクラスのチームがそこそこの順位になったのは鈴木啓示の力が大きい。鈴木はこの5年間に、110勝76敗、勝率.591。近鉄はこの間、319勝314敗、勝率.504。チームの勝ち星の3割5分を上挙げた。入団1年目に挙げた10勝がチーム最多勝だった。
入団1年目に10勝、以後15年連続二桁以上勝利、翌年からは5年連続20勝以上をあげ、押しも押されもせぬ近鉄のエースとなった。1968年8月8日の対東映戦(日生球場)でノーヒットノーランを達成。1969年に24勝で最多勝。1971年9月9日対西鉄戦(日生球場)では2度目のノーヒットノーランを記録した。若い頃は江夏豊とともに「セの江夏、パの鈴木」と並び称された奪三振の多い投手であった。
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活躍の舞台となった「日生球場」と”草魂”の芽生え
65年、兵庫・育英高のエースだった鈴木は相思相愛だった阪神にフラれ、第1回のドラフト会議で近鉄に1位指名された。パ・リーグのお荷物球団といわれたバファローズに入る時、人気球団の選手より実力をつけてスター選手にのし上がってやる、という思いを抱きプロ入りした。
近鉄のホーム球場は日生球場。鈴木がプロの第一歩を踏み出した球場だ。当時は後楽園球場でも大阪球場でも、現在に比べると狭い球場ばかりだったが、日生球場は特に狭かった。本塁打がよく出る投手泣かせの球場だった。
でもこういう環境は、私の気性には合っていたのかもしれません。球場は狭い(当時の日生球場は、両翼90メートル足らずだったという)、打線は打ってくれない。こういう悪条件は、かえって私を奮い立たせてくれた。「ようし、オレが弱いところを強くしてやろうじゃないか」と。私の、「この野郎!」精神がムクムクと頭をもたげてきたのです。強いチームに入って、チヤホヤされたら、私はかえってだらけてしまったかもしれません。
鈴木本人によると「入団当初はノーコンでね。1年目の開幕直後には四球連発で二軍に落とされたこともある。制球力を付けられたのは日生球場のお陰やで。ホームランを警戒して低めをつく投球を、球場が教えてくれた。2度のノーヒット・ノーランは日生がくれた褒美やった。」と当時を振り返った[2]。
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1974年に監督に就任した西本幸雄の指導により、力任せの直球主体の投球を改め制球・配球を重視する頭脳的なピッチングを構築していく。当初は西本に反発し、1974年のオフに主砲の土井正博がトレードされた際には、「次は自分の番」と考えて、阪神監督の吉田義男にトレードを志願する電話をかけたこともあった[3]。1975年3月の阪神とのオープン戦では4回4失点でKOされると西本から「少しは向こうのピッチャー(山本和行 - 4年目)を見習え!」とベンチで言われるなど叱責が続いたが、やがて西本が自分とチームのことを本気で考えていると気づき、その指導を受け入れていった[3]。この年は4年ぶりに20勝以上を挙げ、防御率も2.26の好成績を残す。奪三振数は減少したが、無駄な四球と失点も減少した。この頃から有田修三とバッテリーを組むようになる。1977年には200勝を達成、20勝で最多勝を残した。
翌1978年、25勝で2年連続最多勝、防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。同年に当時の日本新記録となる10試合連続完投勝利を記録し、見事な投球で往年の剛球が蘇り、最多奪三振・最多完封も記録し、「五冠」のうち勝率を除く4つの部門でリーグトップの成績を残した。
”草魂”の意地
弱小球団だった近鉄で毎年タイトル争いに絡み、最多勝は3度、防御率、最高勝率のタイトルも獲得。ドラフト制度以後では唯一の300勝投手で、オールスターは入団した66年から計15回出場した。
1985年3月16日、日生球場でのオープン戦で、鈴木は1失点完投勝利を挙げた。調整の場であるオープン戦で完投することはまずありえない。それも実績のある大ベテラン投手であればなおのことだ。投球数は123球、被安打7、奪三振8、失点1。近鉄はオープン戦で9連敗中だった。鈴木は、オープン戦とはいえ「オレが連敗を止める」と静かに燃えていた。
「オープン戦だけど、相手が巨人やったしな。スターとアイドルの違いも思い知らせてやりたかった」。7回までの予定を9回まで伸ばしたことについて、鈴木の口調ははっきりしていた。「人気球団巨人の選手はプロとして半人前でもスター扱いされる。本当のスターって、違うだろ?人気だけならアイドルだろ?実力、実績を兼ね備えたプレーヤーにスポットが当たらず、野球以外のことが話題になり、注目を浴びるジャイアンツの選手にプロの意地を見せたかった」。腰椎がずれ、軸足の左足アキレス腱の周囲も炎症を起こし、完投どころか登板すら難しい状態での好投は、20年もの間この世界の第一線でメシを食ってきた男のプライドをかけたものだった。
近鉄 鈴木啓示 - YouTube
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1985年現役引退
317勝238敗2セーブ 防御率3.11 3061奪三振
最多勝3回(1969、77、78)
最優秀防御率1回(1978)
最高勝率1回(1975)
最多奪三振(当時連盟表彰なし)8回(1967〜72、74、78)
ノーヒットノーラン2回 (1968年8月8日対東映戦、1971年9月9日対西鉄戦)
先発勝利288(1位)
78無四球試合(1位)
開幕戦先発14回(1位)
5年連続20勝以上(1967〜71)