ベレンコ中尉亡命事件(ミグ25亡命事件)
ベトナム戦争の翌年、まさに米ソによる東西冷戦の真っ只中、その事件は起きました。
ベレンコ中尉亡命事件1976年9月6日、ソビエト連邦軍現役将校ヴィクトル・ベレンコが、MiG-25(ミグ25)迎撃戦闘機で日本の函館市に着陸し、亡命を求めた事件でミグ25事件とも呼ばれます。
ベレンコ中尉亡命事件1976年9月6日、ソビエト連邦軍現役将校ヴィクトル・ベレンコが、MiG-25(ミグ25)迎撃戦闘機で日本の函館市に着陸し、亡命を求めた事件でミグ25事件とも呼ばれます。
ベレンコ中尉が亡命に使ったMiG-25P(同型機)
ミコヤンMIG-25フォックスバット、当時世界最速とされた戦闘機。
高高度における迎撃及び偵察を目的としており、10,000m以下では性能がぐんと落ち、アメリカのライバルF-15イーグルより劣るとされました。
高高度における迎撃及び偵察を目的としており、10,000m以下では性能がぐんと落ち、アメリカのライバルF-15イーグルより劣るとされました。
1971年、当時の世界最速「マッハ3.2」と計測されたベールに包まれた戦闘機
1971年、中東シナイ半島を国籍不明の戦闘機が飛び去ったのをイスラエル空軍が確認。
そのスピードは「マッハ3.2」という、少なくとも当時の西側諸国には存在しないスピードの機体だったのです。
これがMiG-25、まさにベールに包まれた世界最強の戦闘機と恐れられることになりました。
そのスピードは「マッハ3.2」という、少なくとも当時の西側諸国には存在しないスピードの機体だったのです。
これがMiG-25、まさにベールに包まれた世界最強の戦闘機と恐れられることになりました。
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1976年、ソ連軍のヴィクトル・ベレンコ防空軍中尉が亡命を試みる
1976年9月6日、ソ連防空軍所属のMiG-25戦闘機数機が、ソ連極東沿海地方のウラジオストクから約300km北東にあるチュグエフカ基地から空軍訓練で離陸。
この訓練に乗じてヴィクトル・ベレンコ防空軍中尉が亡命を試みます。
当時、一度の燃料で800km航続が可能とされたMiG-25でしたが、日本領空でのレーダー探知を避けるために地表面ぎりぎりの高さで後続したMiG-25は急速に燃料を失い、ついにはあと30秒で墜落というところまで追い詰められます。
この訓練に乗じてヴィクトル・ベレンコ防空軍中尉が亡命を試みます。
当時、一度の燃料で800km航続が可能とされたMiG-25でしたが、日本領空でのレーダー探知を避けるために地表面ぎりぎりの高さで後続したMiG-25は急速に燃料を失い、ついにはあと30秒で墜落というところまで追い詰められます。
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MiG-25は、航空自衛隊から発見されないままに北海道の函館空港に接近し、滑走路に強行着陸しました。
機体はオーバーラン、前輪をパンクさせて滑走路先の草地で停止しました。このとき燃料の残りはほぼ限界だったそうです。
機体はオーバーラン、前輪をパンクさせて滑走路先の草地で停止しました。このとき燃料の残りはほぼ限界だったそうです。
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ベレンコ中尉は北海道警察函館本部に「アメリカ情報局代表に電話したい」「機体にカモフラージュしてほしい」「機体に誰も近づけないこと」を求めるメモを手渡しました。
すなわち彼は、MiG-25の機体を手土産にアメリカへの亡命を望んでいたのでした。
すなわち彼は、MiG-25の機体を手土産にアメリカへの亡命を望んでいたのでした。
その夜、ソ連の戦闘機が大量に日本領空に飛来してきたのです。
「ソ連軍襲撃」「日ソ開戦」そんな可能性が、本当にあったのです。
「ソ連軍襲撃」「日ソ開戦」そんな可能性が、本当にあったのです。
ソ連側は当日中にベレンコとの面会と身柄・機体の早期引き渡しを要求したが、翌7日に身柄は東京に移送され、8日にはアメリカが亡命受け入れを通告。防衛庁の事情聴収を経て、9日にはソ連大使館員がベレンコに面会し、意志確認をするとともに翻意を促したが果たせず、9日中にベレンコは羽田空港からアメリカに出国する。10日には法務省から防衛庁に機体の管轄が移される。
実際にソビエト連邦外務省からは機体の即時返還要求があり、当時の最大野党でソ連から資金提供を含む様々な支援を受けていた日本社会党もこれに同調したが、アメリカ軍は航空自衛隊の協力のもとで、9月24日に外交慣例上認められている機体検査のためにMiG-25を分解し、アメリカ空軍のロッキードC-5Aギャラクシー大型輸送機に搭載して百里基地(茨城県)に移送した。機体には「函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました」と書かれた横断幕が掲げてあった。