魂の走り『森下広一』マラソン3戦目で五輪銀メダルを獲得した天才ランナー
2017年1月1日 更新

魂の走り『森下広一』マラソン3戦目で五輪銀メダルを獲得した天才ランナー

バルセロナ五輪の男子マラソン銀メダリスト、森下広一。 今も語り継がれる中山竹通とのデッドヒート。 バルセロナ五輪で金を逃したモンジュイックの丘での駆け引き。 気持ちを前面に出したケンカ走法でマラソン3戦目で五輪メダリストとなった天才ランナー森下の功績と現在について紹介。

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日本マラソン界に彗星の如く現れた天才ランナー、森下広一。

瀬古利彦、中山竹通と世界に通じるランナーを輩出した日本マラソン界に彗星の如く現れて、彼らでも成しえなかったオリンピックのメダル獲得を達成した森下広一。
森下広一(もりした こういち)

森下広一(もりした こういち)

1967年9月5日生まれ
鳥取県八頭郡八頭町出身
身長:165cm
体重: 54kg(現役時)

水泳部だった中学時代、才能が開花し始めた高校時代

船岡町立船岡中学校時代は水泳部に所属しながら駅伝に参加、3年次には中学駅伝・鳥取県大会の区間賞(6区)を獲得した。

鳥取県立八頭高等学校に進学後、陸上競技部に入部して頭角を現す。
家は山の中腹にあり、学校へは山道を上り下りして通学していたという。
3年次にはインターハイ予選中国地区大会の3000m障害において由良育英高等学校の岡田敦行とともに高校生として初めて9分を突破。
地元開催であったわかとり国体では、少年A1500mで8位、少年A10000mで6位と気を吐く。
しかしながら、深山晃、岡田敦行ら、兵庫県からの越境入学による国体強化選手を集めた由良育英の壁に阻まれ、都大路への出場は一度も叶わないままの卒業となった。
※都大路(みやこおおじ)とは全国高等学校駅伝競走大会の舞台となっている京都のコース。

高校卒業後、一旦は地元である船岡町での就職を予定していたが、旭化成陸上部から誘いを受けて入部することにした。
高校時代の森下広一

高校時代の森下広一

森下は八頭高時代の1985年、日本海駅伝第5回大会2区で区間賞を獲得した。
※森下は左から二番目

宗茂・宗猛の指導の下、急成長

1986年に旭化成へ入社した森下だったが、故障によって低迷が続いた。
しかし、故障を克服すると宗茂・宗猛の指導の下、たちまち駅伝でチームの核となる活躍を見せ始めるようになった。

1990年の熊日30kmロードレースで優勝。
トラックでは同年の北京アジア競技大会10000mで優勝して金メダル、5000mは銀メダルを獲得。
翌1991年、世界陸上東京大会では10000m決勝進出を果たすなど、若手トップランナーとして急激に注目を集め始めた。
宗兄弟(宗茂・宗猛)

宗兄弟(宗茂・宗猛)

現役時代は瀬古利彦と共に日本マラソン界をけん引した。
二人とも代表に選ばれたモスクワオリンピックはボイコットにより不参加。
ロサンゼルスオリンピックも二人で参加した。(宗猛4位、宗茂17位)

初マラソンで中山竹通との一騎打ちを制し優勝。

1991年、別府大分毎日マラソンで森下は初マラソンに挑んだ。
ソウルオリンピックで4位に入賞し、当時国内では無敵だった中山竹通(ダイエー)と激しい競り合いを繰り広げた。

森下と中山、二人がレースを引っ張り、終盤は二人だけの駆け引きに。
そして、ゴールまで2km程度になった39km過ぎで中山は「行ってもいいよ」と森下の肩をたたき、声を掛けた。
森下はそのままスパートし、中山を振り切り、2時間8分53秒の初マラソン日本最高記録(当時)で優勝した。
森下の肩を叩く中山竹通

森下の肩を叩く中山竹通

中山のこの行動は『競争相手を称えた素晴らしい行為』と美談のように報じられる一方で、『最後まで死力を尽くさなかった。』、『勝負を侮辱した。』と批判も浴びた。
出典 rnde.net
初マラソン日本最高記録を叩きだし、日本最強ランナーである中山竹通を破った森下は『有望な若手』から一気に瀬古・中山へ繋がれた『日本最速ランナー』を受け継ぐ後継者として報じられるようになる。

また、歯を食いしばり必死の形相で相手を追い込む森下の走りは、「ケンカ走法」と呼ばれた。

2度目のマラソンで、またしても中山竹通と激闘。

翌1992年、2度目のマラソンとして選んだのは東京国際マラソン。
ここで、またしても中山竹通と激しい競り合いを行うことになった。

中山は前回森下の肩を叩いた39km過ぎで猛烈なスパート!
森下との距離が一旦離れかける。
だが、森下も歯を食いしばって追いつく。

残り1kmで再び仕掛ける中山、必死の形相で食らいつく森下。
そして二人は並んで競技場へ…。

トラック勝負となってから森下は猛スパート、中山をグングン引き離し、優勝を飾った。

この勝負によって、中山との世代交代は鮮明となり、圧巻のラストスパートは『瀬古利彦の再来』と言われた。

92'東京国際マラソン(森下広一VS中山竹通)

日本マラソン界に残る名勝負
この優勝で森下はバルセロナオリンピックのマラソン代表が決定。
オリンピックまでのマラソン経験数2回は、戦後の日本の男子マラソン代表では最も少ない数字である。

森下は「出る大会は必ず勝つ。戦って(オリンピック代表を)勝ち取るという気持ちだった」とコメントした。

バルセロナオリンピックで銀メダルを獲得。

1992年7月25日、バルセロナオリンピックが開幕。
たった2回しかマラソンを経験していない森下であったが、中山を二度破った実力を疑うものは少なかった。

師匠の宗茂は「森下ほど試合で力を出しきる選手はいない。こういう選手に今後巡りあうことはないという気持ちだった。」と送り出した時の心境を話している。

前年の世界陸上マラソンで金メダルを獲得した谷口浩美、前回ソウルオリンピックで4位に入賞した中山竹通と3名の日本代表で臨んだ男子マラソンは過去最強の布陣とも言われ、メダル独占すら期待されていた。

優勝候補の一人、谷口が転倒により脱落。

迎えた8月9日、バルセロナオリンピック男子マラソン。

森下と同じ旭化成に所属する谷口は、20km過ぎの給水地点で後続選手に左足シューズの踵を踏まれて転倒し、さらにシューズが脱げて履き直すアクシデントに見舞われ優勝争いから脱落。
中山も先頭集団から脱落、先頭集団は3人となり、さらに1人脱落。
35km地点で、トップは森下と韓国の黄永祚(ファンヨンジョ)。
二人の一騎打ちになった。

勝負の明暗を分けた『モンジュイックの丘』

38キロ地点から世界中を釘付けにした戦いが始まった。
そこは『モンジュイックの丘』と呼ばれ、3km続く急な登りとその後の急な下りはコース隋一の難所だった。

森下は、『モンジュイックの丘』では並走し、最後の競技場でトラック勝負をしようと考えていた。
だが、黄は森下の息が荒いことに気付き、下りに差し掛かると突如スパートをかけた。

意表を突かれた森下は付いていくことができなかった。
引き離された森下はそのまま黄に続いて2位でゴール。

【動画】バルセロナオリンピック男子マラソンの激闘

26kmぐらいからの映像
(24:07)
五輪マラソンで男子がメダルを獲得したのは、1968年メキシコオリンピックでの君原健二の銀以来24年ぶりの快挙であった。

だが、宗茂は「なんで銀メダルなんだという悔しい気持ちの『ご苦労様』とだけ言葉をかけた」と後に語っている。
また、森下も「勝てるはずのレースに勝てなかった。今でもあのスパートをかけられるシーンは見たくない。」と話している。
対照的だったゴールシーン

対照的だったゴールシーン

女子マラソンで銀メダルと獲得した有森裕子と対照的なゴールシーンであった。
金メダルを逃し落胆の表情を浮かべる森下と、満面の笑みで銀メダル獲得を喜ぶ有森。
ゴール後に倒れる森下広一

ゴール後に倒れる森下広一

精魂尽き果てゴールした森下は、その場に倒れ込んだ。
ここまで自分を追い込む森下の走り方は、自身の体と心を大きく疲労させ後の低迷に繋がっていく…
最終的な順位は、中山竹通がソウルに続き4位入賞。
転倒で後れを取った谷口も挽回し、8位入賞を果たした。

同じ旭化成に所属する先輩の谷口は「森下をずっと隣で見てきていた。金メダルを取るのは森下だろうと思っていた。森下を抑えられれば自分が金メダルを取れると思っていた。」と語り、「僕がちゃんと走っていれば、森下の優勝をアシストできたのに」と悔しがった。
銀メダルを手にする森下広一

銀メダルを手にする森下広一

悔いが残った銀メダルであったが、その感情を押し殺し報道陣の前では笑顔で銀メダルを手にした。

将来を期待されたが二度とマラソンを走ることなく、引退。

金メダルを逃したとはいえ、日本に24年ぶりのメダルをもたらした森下はまだ24歳。
次のオリンピックも十分現役で活躍できる年齢であり、バルセロナオリンピック後に一線を退いた中山の後を継ぎ日本マラソン界を引っ張る最有力候補として期待された。

だが、精神力によって小さな体を限界まで酷使する森下の走りに、肉体は耐えていけなかった。
長年故障の克服に挑み続けたが、ついに4度目のマラソンを走ることなく1997年8月、29歳で現役を引退した。


怪我に泣かされた森下だが、精神面の弱さがバルセロナ以降に低迷した要因だと自らを語っている。

「内面の問題、周囲の環境をうまく処理しきれなかった自分が弱かった」

「バルセロナの後、僕は強かった時の自分をずっとイメージしていて、それで失敗したんですよ。
この時期だったらこういう練習をこなさなきゃならない、でもそれができなくてイライラして、プチッと気持ちが切れて練習をやらなくなったり。その繰り返しでした。
しかも周囲からはちやほやされる。
『森下を食事に連れてきた』と言うと相手に喜ばれるような時期で、僕もそういう誘いを断ればいいのに断らなかった。」
「それで体調を崩していって、スタミナがつかず練習に集中できないという悪循環を招く。
水泳の北島康介がすごいなと思うのはそこですよね。
オリンピックで2度勝つというのは本当に難しい。
ある苦しい段階をもう一回、練習で乗り越えなきゃいけないとわかっているけど、知っているからこそ怖くてやれない。
『この体調じゃ無理だ』と諦めに走ってしまう」
「本当は土台からもう一度ちゃんと造っていかなくちゃいけないのに、その土台を造らず、山の中腹くらいのレベルならいつでも走れるよと思っていて、そこを目指す。目指すけれどやっぱりダメで、どんどん目立たなくなって、それでも『森下ならこれくらい走るだろうね』と期待もされる。
そうした内面の問題、周囲の環境をうまく処理しきれなかった自分が弱かったなと思います。」
どんなに苦しい状況でも歯を食いしばって食らいついていた森下が語るセリフとは思えなかった。
しかし、自分を極限まで痛めつける走法のダメージと、オリンピックでメダル獲得の影響力は、あの森下を変えてしまうほどなのかもしれないとも感じた。

森下広一の全マラソン成績

 
年月 大会名 タイム 順位 備考
1991年2月 別府大分毎日マラソン 2:08:53 優勝 初マラソン日本最高
1992年2月 東京国際マラソン 2:10:19 優勝 バルセロナ五輪代表選考会
1992年8月 バルセロナオリンピック 2:13:45 2位 五輪銀メダル獲得
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